胆大小心録 その133
百三十三
藤原家の威光は、(栄花物語の頃に)最高潮になる。
これは古より久しく続く外戚に対する世間の信任である。
平家が望むままに昇格を進め、太政大臣にまで昇った事は、
朝廷にとって苦しい時代の始まりであり、
源頼朝は智勇の大将であるから、父の敵討ちを兼ねて、壇ノ浦で皆殺しにして、
昔のように朝廷の治める体制に戻したのは、真に忠誠の君子である。
後白河法皇が変に気惑いしたので、この時だと、惣追捕使を願い出た後は、
将軍一人の独断で、政治を行った為、別の国のようになってしまった。
天地の神が許したのだから、仕方の無い事だ。
しかしながら、大納言右大将に留まったのは、
(魏の)曹操が宰相の座に留まったのに倣ったのだ。
(曹操の子の)曹丕が欲望のままに帝位を簒奪して、
才のある弟に、七歩の詩などと迫ったのは器の小さい事だ。
このように悪しき君主であるとして、司馬氏が取って代わり、
世はどうなっていくのかと、心ある人が、ただ嘆いていた為、
(竹林七賢の)嵆康が心を虚無的にし、世をも君主をも、軽視していたが、
遂に誅せられたという。結局世に無用の人であった。
頼朝卿の知略は、自分の死後にも権力が続くようにと謀ったものだが、
(跡継ぎの)頼家卿は柔弱で、早世すると、尼君(北条政子)が才走っていた為、
政治の実権を奪ってしまい、衰えの兆しになってしまった。
尼将軍とさえ呼ばれ、恐れ多い事、(漢の)呂氏の所業と並ぶ結果となった。
色欲が深く、不行儀な事が多いのは、記録では伝わらなかったが、
人々が語り継ぎ、伝わったのには呆れるばかりだ。
若い色男を近くに侍らせて、蓮花の六郎や、白馬寺の和尚のようになった。
酔いが進むと、実子の実朝卿をさえ抱き戯れたとも聞く。
(実朝)公は才に優れた君主であり、歌を詠んでは志が高かった。
尼君の寵遇が過ぎて、父の位をも越えさせて、
功も無いのに右大臣に昇らせたという事だ。
北条義時は美男子であったので、尼君が招いたが、深謀を持つ人で、
実朝公に才があるのをいまいましく思い、公暁という若僧をそそのかして、
鶴岡の参詣時に弑逆させた。
その夜も(義時は)供に加わっていたが、急に病気になり家に帰り、
力者を十人ほど密かに連れて、公を討たせたという。
しかしながら公暁をも捕らえて、国法通りに罰した。
これは源氏の跡を絶ち、都より皇孫(親王将軍)や藤原家の公達を呼び寄せて、
これを後ろ盾として、天下の実権を握るためであり、尼君の風紀の乱れが原因である。
秩父(畠山)重忠は忠臣と名高い勇者である。
大男で、目鼻口がはっきりしていて、色黒く、好漢とはまさにこの人をこそ言うべきだ。
尼君は彼にも思いを寄せたものの、
とんでもない事と断られ、恥をかく可能性を考えて、
深く謀った事には、重忠が参った時に、密かに文書をしたため、
「実朝を暗殺したのは、全く北条の悪巧みの恐ろしさだ。
義時は我が弟ではありながら、源氏や天下の為に、滅ぼすべき仇敵ではあるが、
容易くは滅ぼせないので、地盤をよく固め、枝を広く繁らせているのを考えて、
汝と深く相談したいと思う。夜に密かに入って来なさい」
と記したという。
北条家の女であり、義時の姉ではあるが、こうも源氏を尊重するのは賢い事だと思い、
次の夜に、雪の降る中を踏み分けて参った。尼君は対面すると、
「ここは人が来る恐れがある。あの庭の小屋へ」と言って、
上着の裾を上げて、先に雪の上を行くと、召使が承り、「さあどうぞ」と重忠に申した。
(重忠は)慎んで後に付いて、池の上の小屋に上った。
(小屋は)わずか八畳のこしらえで、石灰の炉に盛んに火を焚いてあり、
尼君が、「近くに」と呼び寄せ、膝行して参ると、召使たちが不審にも取り囲み、
一人は烏帽子を打ち落とし、一人は上着と袴を切り裂き、
また一人は褌を切って、みな逃げ去った。
「これはどういう事か」と、さすがの勇者も、手の施しようが無くなると、
尼君は素早く裸になり、走り寄って組み付き、
重忠が払いのけようとするが、男根がすぐに反応し、
組み付かれるままに、夜通し歓楽を尽くしてしまった。
五十歳にはまだならず、品のある尼がとても美しく、色白で、
愛嬌のある様子に、さすがの重忠も心を奪われてしまった。
実子の実朝、実弟の義時さえ、乱れさせたのは、
女らしからぬ賢しさの為で、それが災いになったのだ。
(その後)重忠を再度呼び寄せたが、己に恥じ、
頼朝殿の霊をどれほど怒らせただろうと、
その後は病と称し、決して出向かわなかった。
(尼君は)この人に対してはさすがに恥じて、生きている間は安心できないと思い、
讒言を用い、ついに家ごと滅ぼしてしまった。
和田・三浦等の人々も、様々な讒言を受けて、北条の為に、これらも滅ぼされた。
世間で言う色気違いとは、この尼君の乱れの事だ。
実朝公の正室は、坊門家の娘であるが、
尼君の始終のあり方をよく理解していたので、
暇を貰い、都に上り、朱雀野の八条通の傍に、庵を結び、
(政子とは違って)本当の尼君となり、修行をして過ごしたという。
ここを後に源氏の祖廟と崇め祭り、尼寺と現在に呼び伝えたという事だ。
社僧は真言宗であり、行いを慎み、清い寺である。
義時は、同胞の尼君と乱れた関係になり、父(時政)を相模の北条で隠居させ、
天下を易々と奪った。(義時の長男)泰時は、賢かったが体が弱く、
(泰時の孫)時頼は仏門に入り頼みにならなかった。
その九代後に高時という愚か者が出て、ついに家は滅んでしまった。
しかし天罰が下るのが遅かったのは、
人の知らない前世からの幸いがあったからだろう。
高時は暴悪であり、都の政治は身内の者だけで行った為、後醍醐天皇の怒りが強く、
密かに謀略を練り、直ちに発覚し、遠い隠岐の島へ流されたのは気の毒な事だが、
まず冷泉大納言を鎌倉に呼び下して、事を問うと、
おもひきや我しき島の道ならでうきよの事をとはるべしとは
と詠んだところ、なるほどと思って許して帰らせた事こそ、なんとも愚かな事だ。
我が敷島の道とは、歌にのみ心を用いて、
これによって官位を与えられたとでも言うのか。
天下の政治を憂き世呼ばわりとは何事か。これは法師の詠むべき歌だ。
これを道理と思い帰らせたのは、家を滅ぼす愚将に相応しい失態だ。
ご覧の通り非常に長いです。
全文中でダントツの長さなので、
そこかしこにおかしい部分があると思われますがご容赦を。
話としては単純で源氏~北条氏の興亡に関する話です。
まず曹丕の七歩の詩というのは、
父曹操に詩才を愛された弟の曹植を妬んだ曹丕が、
小罪を咎め、七歩進む間に優れた詩を作れれば許すという
賭けをした事を言います。
北条政子の淫蕩を表現する蓮花の六郎・白馬寺の和尚とは、
第48条にも出てきた則天武后の情事に関するエピソードだそうです。
要は中国の悪女達に例えたということでしょう。
義時と公暁の陰謀は隠れ銀杏の逸話として有名ですね。
残念な事に何年か前に倒れてしまったあれです。
畠山重忠の話は第49条にも出てきますね。
情事の様子が随分と詳しく記されていますが、
50歳近いのに重忠のような気骨のある男をものにするとは、
なんとも凄い話ですね。
ちなみに当時の重忠は多分40歳ぐらいです。
最後の話は第10条に丸々出てきます。
多少は楽ができました。
以上です。
そろそろ終盤に近づいていますが、
なんとかこのペースで続けて行きたいです。
皆さんにもお付き合い頂けたら嬉しいです。
藤原家の威光は、(栄花物語の頃に)最高潮になる。
これは古より久しく続く外戚に対する世間の信任である。
平家が望むままに昇格を進め、太政大臣にまで昇った事は、
朝廷にとって苦しい時代の始まりであり、
源頼朝は智勇の大将であるから、父の敵討ちを兼ねて、壇ノ浦で皆殺しにして、
昔のように朝廷の治める体制に戻したのは、真に忠誠の君子である。
後白河法皇が変に気惑いしたので、この時だと、惣追捕使を願い出た後は、
将軍一人の独断で、政治を行った為、別の国のようになってしまった。
天地の神が許したのだから、仕方の無い事だ。
しかしながら、大納言右大将に留まったのは、
(魏の)曹操が宰相の座に留まったのに倣ったのだ。
(曹操の子の)曹丕が欲望のままに帝位を簒奪して、
才のある弟に、七歩の詩などと迫ったのは器の小さい事だ。
このように悪しき君主であるとして、司馬氏が取って代わり、
世はどうなっていくのかと、心ある人が、ただ嘆いていた為、
(竹林七賢の)嵆康が心を虚無的にし、世をも君主をも、軽視していたが、
遂に誅せられたという。結局世に無用の人であった。
頼朝卿の知略は、自分の死後にも権力が続くようにと謀ったものだが、
(跡継ぎの)頼家卿は柔弱で、早世すると、尼君(北条政子)が才走っていた為、
政治の実権を奪ってしまい、衰えの兆しになってしまった。
尼将軍とさえ呼ばれ、恐れ多い事、(漢の)呂氏の所業と並ぶ結果となった。
色欲が深く、不行儀な事が多いのは、記録では伝わらなかったが、
人々が語り継ぎ、伝わったのには呆れるばかりだ。
若い色男を近くに侍らせて、蓮花の六郎や、白馬寺の和尚のようになった。
酔いが進むと、実子の実朝卿をさえ抱き戯れたとも聞く。
(実朝)公は才に優れた君主であり、歌を詠んでは志が高かった。
尼君の寵遇が過ぎて、父の位をも越えさせて、
功も無いのに右大臣に昇らせたという事だ。
北条義時は美男子であったので、尼君が招いたが、深謀を持つ人で、
実朝公に才があるのをいまいましく思い、公暁という若僧をそそのかして、
鶴岡の参詣時に弑逆させた。
その夜も(義時は)供に加わっていたが、急に病気になり家に帰り、
力者を十人ほど密かに連れて、公を討たせたという。
しかしながら公暁をも捕らえて、国法通りに罰した。
これは源氏の跡を絶ち、都より皇孫(親王将軍)や藤原家の公達を呼び寄せて、
これを後ろ盾として、天下の実権を握るためであり、尼君の風紀の乱れが原因である。
秩父(畠山)重忠は忠臣と名高い勇者である。
大男で、目鼻口がはっきりしていて、色黒く、好漢とはまさにこの人をこそ言うべきだ。
尼君は彼にも思いを寄せたものの、
とんでもない事と断られ、恥をかく可能性を考えて、
深く謀った事には、重忠が参った時に、密かに文書をしたため、
「実朝を暗殺したのは、全く北条の悪巧みの恐ろしさだ。
義時は我が弟ではありながら、源氏や天下の為に、滅ぼすべき仇敵ではあるが、
容易くは滅ぼせないので、地盤をよく固め、枝を広く繁らせているのを考えて、
汝と深く相談したいと思う。夜に密かに入って来なさい」
と記したという。
北条家の女であり、義時の姉ではあるが、こうも源氏を尊重するのは賢い事だと思い、
次の夜に、雪の降る中を踏み分けて参った。尼君は対面すると、
「ここは人が来る恐れがある。あの庭の小屋へ」と言って、
上着の裾を上げて、先に雪の上を行くと、召使が承り、「さあどうぞ」と重忠に申した。
(重忠は)慎んで後に付いて、池の上の小屋に上った。
(小屋は)わずか八畳のこしらえで、石灰の炉に盛んに火を焚いてあり、
尼君が、「近くに」と呼び寄せ、膝行して参ると、召使たちが不審にも取り囲み、
一人は烏帽子を打ち落とし、一人は上着と袴を切り裂き、
また一人は褌を切って、みな逃げ去った。
「これはどういう事か」と、さすがの勇者も、手の施しようが無くなると、
尼君は素早く裸になり、走り寄って組み付き、
重忠が払いのけようとするが、男根がすぐに反応し、
組み付かれるままに、夜通し歓楽を尽くしてしまった。
五十歳にはまだならず、品のある尼がとても美しく、色白で、
愛嬌のある様子に、さすがの重忠も心を奪われてしまった。
実子の実朝、実弟の義時さえ、乱れさせたのは、
女らしからぬ賢しさの為で、それが災いになったのだ。
(その後)重忠を再度呼び寄せたが、己に恥じ、
頼朝殿の霊をどれほど怒らせただろうと、
その後は病と称し、決して出向かわなかった。
(尼君は)この人に対してはさすがに恥じて、生きている間は安心できないと思い、
讒言を用い、ついに家ごと滅ぼしてしまった。
和田・三浦等の人々も、様々な讒言を受けて、北条の為に、これらも滅ぼされた。
世間で言う色気違いとは、この尼君の乱れの事だ。
実朝公の正室は、坊門家の娘であるが、
尼君の始終のあり方をよく理解していたので、
暇を貰い、都に上り、朱雀野の八条通の傍に、庵を結び、
(政子とは違って)本当の尼君となり、修行をして過ごしたという。
ここを後に源氏の祖廟と崇め祭り、尼寺と現在に呼び伝えたという事だ。
社僧は真言宗であり、行いを慎み、清い寺である。
義時は、同胞の尼君と乱れた関係になり、父(時政)を相模の北条で隠居させ、
天下を易々と奪った。(義時の長男)泰時は、賢かったが体が弱く、
(泰時の孫)時頼は仏門に入り頼みにならなかった。
その九代後に高時という愚か者が出て、ついに家は滅んでしまった。
しかし天罰が下るのが遅かったのは、
人の知らない前世からの幸いがあったからだろう。
高時は暴悪であり、都の政治は身内の者だけで行った為、後醍醐天皇の怒りが強く、
密かに謀略を練り、直ちに発覚し、遠い隠岐の島へ流されたのは気の毒な事だが、
まず冷泉大納言を鎌倉に呼び下して、事を問うと、
おもひきや我しき島の道ならでうきよの事をとはるべしとは
と詠んだところ、なるほどと思って許して帰らせた事こそ、なんとも愚かな事だ。
我が敷島の道とは、歌にのみ心を用いて、
これによって官位を与えられたとでも言うのか。
天下の政治を憂き世呼ばわりとは何事か。これは法師の詠むべき歌だ。
これを道理と思い帰らせたのは、家を滅ぼす愚将に相応しい失態だ。
ご覧の通り非常に長いです。
全文中でダントツの長さなので、
そこかしこにおかしい部分があると思われますがご容赦を。
話としては単純で源氏~北条氏の興亡に関する話です。
まず曹丕の七歩の詩というのは、
父曹操に詩才を愛された弟の曹植を妬んだ曹丕が、
小罪を咎め、七歩進む間に優れた詩を作れれば許すという
賭けをした事を言います。
北条政子の淫蕩を表現する蓮花の六郎・白馬寺の和尚とは、
第48条にも出てきた則天武后の情事に関するエピソードだそうです。
要は中国の悪女達に例えたということでしょう。
義時と公暁の陰謀は隠れ銀杏の逸話として有名ですね。
残念な事に何年か前に倒れてしまったあれです。
畠山重忠の話は第49条にも出てきますね。
情事の様子が随分と詳しく記されていますが、
50歳近いのに重忠のような気骨のある男をものにするとは、
なんとも凄い話ですね。
ちなみに当時の重忠は多分40歳ぐらいです。
最後の話は第10条に丸々出てきます。
多少は楽ができました。
以上です。
そろそろ終盤に近づいていますが、
なんとかこのペースで続けて行きたいです。
皆さんにもお付き合い頂けたら嬉しいです。
胆大小心録 その132
百三十二
遥か昔の事に思いを馳せるのは、京の都に長年住んでいるからで、
この独り言をしているのだ。
朝廷の威光は、こうも衰えたものだ。
自分の住む辺りに付いて、法勝寺の昔、過去を偲ぶ。
大門の跡などというものもあり、
ここの塔の段など野の小丘に、形を留めている。
栄花物語を思えば、東門は白河の急傾斜の流れ、西は南鳥居大路にぶつかり、
北は黒谷・吉田の丘、南は粟田山の麓、
また南の三条通は東西への交通の便がよい。
広大な構えは、昔の大内裏にも劣らないものだ。
開壇の頃、ありがたい説教を聞こうと、老僧が何人か地の下より現れて、
高座の前にひざまずいたそうだ。
この僧たちは釈迦の生前に霊鷲山での釈迦の説法を聞いていたが、
また今日現れ出たという事は、(栄花物語の)うたがひの巻に見えたが、
釈迦の説法に劣る事なく、説教をした者は誰なのだろうか。
今とは違う優れた説教者が偲ばれる。
ところで土の下は地獄かと思っていたが、
老僧が出てくるようなところなら恐ろしいことも無いだろう。
第43条にも出てきた法勝寺の話です。
栄花物語は大鏡と同じく平安時代前期から中期の歴史を記した書です。
法勝寺は白河天皇によって建てられた寺で、
平安時代には天皇の恩寵もあってとても栄えたそうです。
特に九重の塔が有名で80mもの高さがあったそうです。
しかし時代が進む内に規模も存在感も小さくなり、
室町時代末期には廃寺になっていたそうです。
ちなみに文中に出てくる老僧とは、釈迦の弟子たちの事だそうです。
遥か昔の事に思いを馳せるのは、京の都に長年住んでいるからで、
この独り言をしているのだ。
朝廷の威光は、こうも衰えたものだ。
自分の住む辺りに付いて、法勝寺の昔、過去を偲ぶ。
大門の跡などというものもあり、
ここの塔の段など野の小丘に、形を留めている。
栄花物語を思えば、東門は白河の急傾斜の流れ、西は南鳥居大路にぶつかり、
北は黒谷・吉田の丘、南は粟田山の麓、
また南の三条通は東西への交通の便がよい。
広大な構えは、昔の大内裏にも劣らないものだ。
開壇の頃、ありがたい説教を聞こうと、老僧が何人か地の下より現れて、
高座の前にひざまずいたそうだ。
この僧たちは釈迦の生前に霊鷲山での釈迦の説法を聞いていたが、
また今日現れ出たという事は、(栄花物語の)うたがひの巻に見えたが、
釈迦の説法に劣る事なく、説教をした者は誰なのだろうか。
今とは違う優れた説教者が偲ばれる。
ところで土の下は地獄かと思っていたが、
老僧が出てくるようなところなら恐ろしいことも無いだろう。
第43条にも出てきた法勝寺の話です。
栄花物語は大鏡と同じく平安時代前期から中期の歴史を記した書です。
法勝寺は白河天皇によって建てられた寺で、
平安時代には天皇の恩寵もあってとても栄えたそうです。
特に九重の塔が有名で80mもの高さがあったそうです。
しかし時代が進む内に規模も存在感も小さくなり、
室町時代末期には廃寺になっていたそうです。
ちなみに文中に出てくる老僧とは、釈迦の弟子たちの事だそうです。
胆大小心録 その131
百三十一
猛る武士道にもまた間違いがある。
総見院(織田信長)殿の、豪傑にして残忍な性格は、
人は皆知っている為、仰々しく書くことは無いだろう。
国泰院(豊臣秀吉)殿は才に優れ、
天下をさっぱりと平定し、払い尽くした。
この君主もまた欲が大きかった。
始めに松下(加兵衛)に仕えていた時に、
こんな事ではつまらないと立ち上がったのが、大器の始まりである。
(信長の)清洲に走り、「何の役にでも召抱えて下さい」と、
信長の馬前で願い申すと、それを信長が見て、
「お前は背が小さく、顔は醜いが、気骨があり目つきは只者ではない。
まずは足軽に加われ」と、召抱え、
「名は」と問うと、「木下藤吉」と名乗ったという事だ。
中村の笠編みの子ながら、主であった松下にあやかり、
松の字の片方を削いで、木下と申したそうだ。
また大名の列に加わった際に、
柴田勝家・丹羽長秀に一時づつ乞うて、羽柴と名乗った時の志、
後に柴田を討ち滅ぼし、丹羽は家臣として仕えさせたという話について思うのは、
大器であっても初めはこんな程度であったという事だ。
蝉が龍と化して、池中の事を忘れたという事だ。
足軽であった時に、清洲の町の杉本平右衛門という質商人に、
質の物を持ち運んだ際に、
馴染みになった、おまんという娘と忍び会ったのを発見され、
「憎い家来だな。お前に娘はやらん」と、棒を持って追い打たれたが、
(藤吉郎が)逃げ帰る跡に付いて(娘が)走り出て、親の許さぬ夫婦となり、
後に政所と崇められた。名前の由来は実はこんな事なのだ。
淀君は、(秀吉が)敵方の浅井長政の娘を召したもので、恩寵が特に深かった。
淀君も容姿が優れているだけではなく、色を好む性質があり、
後には大野修理を招いて侍らせ、倫理を乱したものだったので、
「(豊臣の)天下はこのせいで失われたようなものだ」と、憎む人が多かった。
片桐且元は、淀君に深く思い焦がれて、人のいないところで、手を捕らえたが、
それを払い除けた為、怒り憎んだが、遂に恨めしく思って、
敵に回った理由は、これだとも伝えられている。
色に乱れて国を失い家を滅ぼした人は、日本でも中国でも数限りない。
天下にかかわる人はもちろん、卑しい身分の我々も、
よくよく心に戒めるべきは、この一つに尽きるだろう。
第12条にもあった豊臣秀吉の話です。
蝉が龍と化して~の部分は、
解説によると実際には蛟(みずち)等の書き間違いの可能性があるそうです。
蛟は池の中で時を待ち、やがて龍になる生き物なので、
蝉よりは信憑性が高そうです。
池中の事を忘れたというのは、
身分が低かった頃の事を忘れたという意味だそうです。
猛る武士道にもまた間違いがある。
総見院(織田信長)殿の、豪傑にして残忍な性格は、
人は皆知っている為、仰々しく書くことは無いだろう。
国泰院(豊臣秀吉)殿は才に優れ、
天下をさっぱりと平定し、払い尽くした。
この君主もまた欲が大きかった。
始めに松下(加兵衛)に仕えていた時に、
こんな事ではつまらないと立ち上がったのが、大器の始まりである。
(信長の)清洲に走り、「何の役にでも召抱えて下さい」と、
信長の馬前で願い申すと、それを信長が見て、
「お前は背が小さく、顔は醜いが、気骨があり目つきは只者ではない。
まずは足軽に加われ」と、召抱え、
「名は」と問うと、「木下藤吉」と名乗ったという事だ。
中村の笠編みの子ながら、主であった松下にあやかり、
松の字の片方を削いで、木下と申したそうだ。
また大名の列に加わった際に、
柴田勝家・丹羽長秀に一時づつ乞うて、羽柴と名乗った時の志、
後に柴田を討ち滅ぼし、丹羽は家臣として仕えさせたという話について思うのは、
大器であっても初めはこんな程度であったという事だ。
蝉が龍と化して、池中の事を忘れたという事だ。
足軽であった時に、清洲の町の杉本平右衛門という質商人に、
質の物を持ち運んだ際に、
馴染みになった、おまんという娘と忍び会ったのを発見され、
「憎い家来だな。お前に娘はやらん」と、棒を持って追い打たれたが、
(藤吉郎が)逃げ帰る跡に付いて(娘が)走り出て、親の許さぬ夫婦となり、
後に政所と崇められた。名前の由来は実はこんな事なのだ。
淀君は、(秀吉が)敵方の浅井長政の娘を召したもので、恩寵が特に深かった。
淀君も容姿が優れているだけではなく、色を好む性質があり、
後には大野修理を招いて侍らせ、倫理を乱したものだったので、
「(豊臣の)天下はこのせいで失われたようなものだ」と、憎む人が多かった。
片桐且元は、淀君に深く思い焦がれて、人のいないところで、手を捕らえたが、
それを払い除けた為、怒り憎んだが、遂に恨めしく思って、
敵に回った理由は、これだとも伝えられている。
色に乱れて国を失い家を滅ぼした人は、日本でも中国でも数限りない。
天下にかかわる人はもちろん、卑しい身分の我々も、
よくよく心に戒めるべきは、この一つに尽きるだろう。
第12条にもあった豊臣秀吉の話です。
蝉が龍と化して~の部分は、
解説によると実際には蛟(みずち)等の書き間違いの可能性があるそうです。
蛟は池の中で時を待ち、やがて龍になる生き物なので、
蝉よりは信憑性が高そうです。
池中の事を忘れたというのは、
身分が低かった頃の事を忘れたという意味だそうです。