胆大小心録 その139
百三十九
(村瀬)栲亭は、
以前書いた清風瑣言(秋成の著書)に序文を書いてもらった人だ。
昔に軒を向かい合わせて住んでいたが、
一日も怠らずに煎茶を立てて清談した。
栲亭の序文に、
「点茶は胸の下がつかえて病になり、煎茶は気のみであるから、
眼を覚まし、ただ心を澄ます効果がある」と言うのを、
とても不満がっている者が私の友人の中にいて、
「序文にこの部分が無ければ良かったものを」と、大阪から言ってきた。
これは点茶に取り付かれた狂人だ。
[煎茶の清は文人の風雅な生活の友だ。
これによって心を澄まし閑に憩う。
蘇東坡が言う。「富に耐える者無し。閑にもまた耐え難し」という事だ。
これまた○○の誹謗である。
老(秋成)は、風雅な文人の親友はいないとはいえ、日夜枕や窓に訪れる人がいる。
その他はただ知っているというだけの人だ。これも多くない。
いわゆる文人という者の多くは
木草花の見た目や、鳥や虫の音に興味を持つも、
一時的なものですぐに興味を失ってしまう。
良く言えば知識を誇る心の現われか。
○○は下手とはいえ、我を慰める心、人の慰めとは異なる。
我非彼是、彼是我非、我陀彼此の違いである。
自分を理解してくれている人とは、書物の知識を誇り小手先の文章を書く者では無い。
書物を吟味して疑問を交わす人である。
東都(江戸)に(大田)何畝という人がいて、自分を理解する者である。
京には栲亭・(小沢)芦庵がいる。大阪にはいない。]
久々に友人たちの名前が出てきました。
村瀬栲亭は何度も登場するおなじみの人物ですが、
珍しく悪口無しで通していますね。
今回の[]で囲ってある部分は、
後の時代の人が写した物が残っているだけで、
文意からこの条に繋がるだろうと推測して加えられた箇所だそうです。
○○の2箇所は何文字かが空白になっている部分だそうで、
特に後の方は、文意すらわからなくなっているそうで、
実際に読んでいても確かにわかりませんね。
何となく友人を褒める流れなんだろうなとは思いますが。
清風瑣言とは煎茶道について述べた書です。
秋成は点茶(いわゆる抹茶)ではなく煎茶を好んだ事で有名ですが、
煎茶に対する思い入れはとても強かったそうです。
蘇東坡の言葉として掲載されている
「富に耐える者無し。閑にもまた耐え難し」
については、
富貴や閑境に関して、自分を保てる者が少ないという意味だそうです。
ちなみに栲亭の序文に文句をつけてきた人物の名前はわかっていないそうです。
どうせだから書いておいて欲しかったです。
(村瀬)栲亭は、
以前書いた清風瑣言(秋成の著書)に序文を書いてもらった人だ。
昔に軒を向かい合わせて住んでいたが、
一日も怠らずに煎茶を立てて清談した。
栲亭の序文に、
「点茶は胸の下がつかえて病になり、煎茶は気のみであるから、
眼を覚まし、ただ心を澄ます効果がある」と言うのを、
とても不満がっている者が私の友人の中にいて、
「序文にこの部分が無ければ良かったものを」と、大阪から言ってきた。
これは点茶に取り付かれた狂人だ。
[煎茶の清は文人の風雅な生活の友だ。
これによって心を澄まし閑に憩う。
蘇東坡が言う。「富に耐える者無し。閑にもまた耐え難し」という事だ。
これまた○○の誹謗である。
老(秋成)は、風雅な文人の親友はいないとはいえ、日夜枕や窓に訪れる人がいる。
その他はただ知っているというだけの人だ。これも多くない。
いわゆる文人という者の多くは
木草花の見た目や、鳥や虫の音に興味を持つも、
一時的なものですぐに興味を失ってしまう。
良く言えば知識を誇る心の現われか。
○○は下手とはいえ、我を慰める心、人の慰めとは異なる。
我非彼是、彼是我非、我陀彼此の違いである。
自分を理解してくれている人とは、書物の知識を誇り小手先の文章を書く者では無い。
書物を吟味して疑問を交わす人である。
東都(江戸)に(大田)何畝という人がいて、自分を理解する者である。
京には栲亭・(小沢)芦庵がいる。大阪にはいない。]
久々に友人たちの名前が出てきました。
村瀬栲亭は何度も登場するおなじみの人物ですが、
珍しく悪口無しで通していますね。
今回の[]で囲ってある部分は、
後の時代の人が写した物が残っているだけで、
文意からこの条に繋がるだろうと推測して加えられた箇所だそうです。
○○の2箇所は何文字かが空白になっている部分だそうで、
特に後の方は、文意すらわからなくなっているそうで、
実際に読んでいても確かにわかりませんね。
何となく友人を褒める流れなんだろうなとは思いますが。
清風瑣言とは煎茶道について述べた書です。
秋成は点茶(いわゆる抹茶)ではなく煎茶を好んだ事で有名ですが、
煎茶に対する思い入れはとても強かったそうです。
蘇東坡の言葉として掲載されている
「富に耐える者無し。閑にもまた耐え難し」
については、
富貴や閑境に関して、自分を保てる者が少ないという意味だそうです。
ちなみに栲亭の序文に文句をつけてきた人物の名前はわかっていないそうです。
どうせだから書いておいて欲しかったです。
胆大小心録 その138
百三十八
体の小さい相撲取りこそ理解できないものだが、
これも頭が回り、はじめから力も無しに関取になる世の中だからか。
翁(秋成)が若い頃までは、
丸山・綾川・伊達ヶ関・鰭之山・源氏山・四ツ車などという相撲取りがいて、
近年では(二代)谷風という者がいる。
これも知恵者で、相手が弱かった為、一人勝ちをした。
若い時に四方関という事があったのは、相撲取りが多かった為だ。
丸山・阿蘇ヶ獄・黒雲・戸根川、
この中の戸根川は後世でいう食わせ物の始まりである。
これらと比べれば
今の小柄な相撲取りは皆小魚が小さい池で遊んでいるようなものだ。
八角という者は、背が低く横幅が平たく、強い事この上なく、
技術がある上に狡さもあり、構えを低くして、待ったと言う事を始めた者だ。
(初代)谷風を、待った待ったと、足を留めさせ、勝った為に、
谷風は讃岐の高松のお抱えを解雇されたので、
最後の相撲に、盾ヶ崎・相引その他の者たちを、四、五人続けて投げ、
讃岐藩主の前から去った為、再度召し返されたが帰らなかった。
後の二代谷風は、初代から見ると、
力があり知恵のある子供であり、相撲取りでは無い。
芝居(双蝶蝶曲輪日記)に出てくる濡髪(長五郎)は、
両国梶之助が元になったのだ。
両方の鬢に櫛を挿して土俵入りし、
相手に対し、「この櫛を落としたら負けにする」と言ったそうだ。
大山という大関と兄弟分で、大山は豪力でまともに戦える者はいない。
これも八角が騙して勝った為に、大いに怒って、
(後に)八角と戦う日に、投げた上に踏みにじったという事だ。
(両国が)人を殺して大阪を立ち退いた際に、
尾張の相撲で、大山が勝ったのを、行司が見損なって、軍配を上げた為、
見物客の中から、唐獅子が飛んできて、行司を捕まえて放り投げ、
頭取どもを踏み散らして、どこかへ去っていったという。
また岩井団之助という行司は、老年になって、(秋成の)近隣に住んでいる為、
店先での雑談に来て、色々と相撲の昔話を聞いた。
相引と鷲尾との相撲を、鷲尾に軍配を上げたのを、
讃岐(相引の側)の控えから、刀を掲げて十人ばかりが土俵に現れて、
「行司め」と言ったら、「覚悟の上だ。さあ来い」と言い返し、
軍配の柄から剣を抜き出して、十一人に立ち向かった所、
東西の頭取、相撲取りが出てきて、「無勝負にする」と言うと、
(岩井は)軍配を引き破って、二度と行司として相撲に出なかった。
越前の福井藩に召し抱えられた後に、
「ぜひ、殿様の前だけでは行司をしなさい」と言われると、
「軍配は無い」と申して、ただの扇で出た。
これが行司が常に扇を持つ習慣の始まりだ。
越前屋の市郎右衛門と名乗って、御用商人になり、
老いた後には法体して、翁の若い時には日頃から可愛がられた事だ。
相撲取りたちが前に這いつくばって、礼をして通っていったものだ。
「兄々」と言って、大関も関脇も、子供のようにあしらっていたものだ。
相撲の話です。
往年の相撲取りの名前がやたらと出てきますが、
興味のある方は調べてみて下さい。
読んでて気になりそうな部分だけ補足していきますと、
まず四方関というのは、番付に大関が四人並ぶ事だそうです。
現代では全く珍しい事では無く、五人というのも頻繁に見られますし、
去年は六大関になった事もあります。
八角(楯右衛門)が行った「待った」とは、
立合いの際に、息が合わない場合などに一旦勝負を止める事をいいますが、
当時無敗だった初代谷風と戦う際に、
待ったを連発して相手のペースを乱したそうです。
いわゆる焦らし戦法というヤツですね。
同じく八角に負けたという大山ですが、
実際には年代が違うため、秋成の思い違いの可能性が高いそうです。
岩井団之助は本文にもあるように、
老いてから秋成の住まいの近所に住み、
秋成に相撲の話を語ったそうです。
体の小さい相撲取りこそ理解できないものだが、
これも頭が回り、はじめから力も無しに関取になる世の中だからか。
翁(秋成)が若い頃までは、
丸山・綾川・伊達ヶ関・鰭之山・源氏山・四ツ車などという相撲取りがいて、
近年では(二代)谷風という者がいる。
これも知恵者で、相手が弱かった為、一人勝ちをした。
若い時に四方関という事があったのは、相撲取りが多かった為だ。
丸山・阿蘇ヶ獄・黒雲・戸根川、
この中の戸根川は後世でいう食わせ物の始まりである。
これらと比べれば
今の小柄な相撲取りは皆小魚が小さい池で遊んでいるようなものだ。
八角という者は、背が低く横幅が平たく、強い事この上なく、
技術がある上に狡さもあり、構えを低くして、待ったと言う事を始めた者だ。
(初代)谷風を、待った待ったと、足を留めさせ、勝った為に、
谷風は讃岐の高松のお抱えを解雇されたので、
最後の相撲に、盾ヶ崎・相引その他の者たちを、四、五人続けて投げ、
讃岐藩主の前から去った為、再度召し返されたが帰らなかった。
後の二代谷風は、初代から見ると、
力があり知恵のある子供であり、相撲取りでは無い。
芝居(双蝶蝶曲輪日記)に出てくる濡髪(長五郎)は、
両国梶之助が元になったのだ。
両方の鬢に櫛を挿して土俵入りし、
相手に対し、「この櫛を落としたら負けにする」と言ったそうだ。
大山という大関と兄弟分で、大山は豪力でまともに戦える者はいない。
これも八角が騙して勝った為に、大いに怒って、
(後に)八角と戦う日に、投げた上に踏みにじったという事だ。
(両国が)人を殺して大阪を立ち退いた際に、
尾張の相撲で、大山が勝ったのを、行司が見損なって、軍配を上げた為、
見物客の中から、唐獅子が飛んできて、行司を捕まえて放り投げ、
頭取どもを踏み散らして、どこかへ去っていったという。
また岩井団之助という行司は、老年になって、(秋成の)近隣に住んでいる為、
店先での雑談に来て、色々と相撲の昔話を聞いた。
相引と鷲尾との相撲を、鷲尾に軍配を上げたのを、
讃岐(相引の側)の控えから、刀を掲げて十人ばかりが土俵に現れて、
「行司め」と言ったら、「覚悟の上だ。さあ来い」と言い返し、
軍配の柄から剣を抜き出して、十一人に立ち向かった所、
東西の頭取、相撲取りが出てきて、「無勝負にする」と言うと、
(岩井は)軍配を引き破って、二度と行司として相撲に出なかった。
越前の福井藩に召し抱えられた後に、
「ぜひ、殿様の前だけでは行司をしなさい」と言われると、
「軍配は無い」と申して、ただの扇で出た。
これが行司が常に扇を持つ習慣の始まりだ。
越前屋の市郎右衛門と名乗って、御用商人になり、
老いた後には法体して、翁の若い時には日頃から可愛がられた事だ。
相撲取りたちが前に這いつくばって、礼をして通っていったものだ。
「兄々」と言って、大関も関脇も、子供のようにあしらっていたものだ。
相撲の話です。
往年の相撲取りの名前がやたらと出てきますが、
興味のある方は調べてみて下さい。
読んでて気になりそうな部分だけ補足していきますと、
まず四方関というのは、番付に大関が四人並ぶ事だそうです。
現代では全く珍しい事では無く、五人というのも頻繁に見られますし、
去年は六大関になった事もあります。
八角(楯右衛門)が行った「待った」とは、
立合いの際に、息が合わない場合などに一旦勝負を止める事をいいますが、
当時無敗だった初代谷風と戦う際に、
待ったを連発して相手のペースを乱したそうです。
いわゆる焦らし戦法というヤツですね。
同じく八角に負けたという大山ですが、
実際には年代が違うため、秋成の思い違いの可能性が高いそうです。
岩井団之助は本文にもあるように、
老いてから秋成の住まいの近所に住み、
秋成に相撲の話を語ったそうです。
胆大小心録 その137
百三十七
芝居も芸事も、見物人が悪いせいで質が落ちたのだともいう。
能があまり衰えていないのは、思い入れを滅多にしないからか。
能にも大名人はいないのだ。
雅楽寮が衰えたのは何故だろう。
あまり思い入れをさせないからだともいう。
ごく短い芝居の話です。
まず見物人のせいで芝居が悪くなったという部分ですが、
原文では見物人ではなく見物となっています。
一応見物人と訳しましたが、
見物のシステム自体を言っているのかも知れません。
思い入れというのは、
歌舞伎などの用語で、演じる際に気持ちを込める事を言うそうです。
解説によると、役者の個性が発揮される部分であるそうで、
そこに注目が集まるそうです。
能は思い入れを使わずに、型通りに演ずるので、
質が落ちないそうです。
知識の無い自分にはその理屈がわかりません。
歌舞伎では思い入れにばかり評価が集まり、
他の部分が疎かになるのが原因という事でしょうかね。
それとも下手な思い入れをする役者が増えたという事でしょうか。
思い入れをさせない能は、
突出した人物が出ない代わりに均一的な質で提供できるという事でしょうね。
雅楽寮というのは皇室の元で雅楽を演奏したり、
演奏者の育成をする機関だそうで、
平安時代にはすでに衰え始めていたそうです。
芝居も芸事も、見物人が悪いせいで質が落ちたのだともいう。
能があまり衰えていないのは、思い入れを滅多にしないからか。
能にも大名人はいないのだ。
雅楽寮が衰えたのは何故だろう。
あまり思い入れをさせないからだともいう。
ごく短い芝居の話です。
まず見物人のせいで芝居が悪くなったという部分ですが、
原文では見物人ではなく見物となっています。
一応見物人と訳しましたが、
見物のシステム自体を言っているのかも知れません。
思い入れというのは、
歌舞伎などの用語で、演じる際に気持ちを込める事を言うそうです。
解説によると、役者の個性が発揮される部分であるそうで、
そこに注目が集まるそうです。
能は思い入れを使わずに、型通りに演ずるので、
質が落ちないそうです。
知識の無い自分にはその理屈がわかりません。
歌舞伎では思い入れにばかり評価が集まり、
他の部分が疎かになるのが原因という事でしょうかね。
それとも下手な思い入れをする役者が増えたという事でしょうか。
思い入れをさせない能は、
突出した人物が出ない代わりに均一的な質で提供できるという事でしょうね。
雅楽寮というのは皇室の元で雅楽を演奏したり、
演奏者の育成をする機関だそうで、
平安時代にはすでに衰え始めていたそうです。