胆大小心録 その145
百四十五
(服部)南郭が漢詩を講じた席に、真淵も参って聞いた。
講義が終わった後に、(南郭の傍に)膝を進め、
「先生の名声は、古今の大家と人は申します。
ただ、唐の作風を捨て、古代の詩風を範としないのが残念だ」と言った。
南郭は嘲笑って、
「汝は妙な事を言う奴だ。
詩は初唐のものは気品が高く模倣しづらい。
盛唐より中唐の詩風を模倣するべきだ。
晩唐のものは気品が落ちる。何を思ってそんな事を言うのか」と言う。
それに答える。
「今日の講には、
汾上驚秋の詩は、北風吹白雲、万里渡河汾、この二句にて意は尽きた。
心緒逢搖落、秋声不可聞とは、上の二句の注解に似ている。
四韻六句の形式になってしまって、この欠点があると思う」と。
南郭はその意見に応じて、
「三十年遅く生まれても、汝と同じようには学べないだろう」
と、ため息をついたそうだ。
和歌も必ず三十一字にすると定められた後は、優れた歌が少ないのは、
「あし曳の山鳥の尾のしだり尾の」と、文の修辞を加えて、
長い夜の独り寝の嘆きの意を、詳しくは述べ尽くしていない。
(鎌倉時代からの)五百年来は、ただ心情を詳しく述べ、
思いのたけを表現しようとする。
安い遊女の話を聞くようなもので、何ともしつこくて嫌になる。
表現せずにおれないで、長いのは幾百言も連ねる長歌もあるが、
短いものは、「我家の方に雲居立ち来も」と言って、気を晴らされた。
孔子が川上に立ち、「悠哉々々、逝者如此、不舎昼夜」と言ったのを、
人丸が知らずに詠んだ、
「いざよふ波のゆくへしらずも」と言う歌も、思情を尽くした。
(漢語に比べて)国語の方が字数が多く必要なのも、
こうやれば、孔子の字数より少なくて欠点が無い。
また材料の少ないのを長く延ばして詠むのは、和歌を詠む面白さであり、
今の歌人は上手くできないものだ。下手くそで見苦しい。
度々出てくる詩歌に関する話です。
今回は非常に難解でした。
雑に要約すると、
詩を長々と詠むのには技術がいるといった話でしょうか。
服部南郭は荻生徂徠の門下生で、唐詩選の注釈書の著者としても有名です。
賀茂真淵とも交流のあった人物だそうです。
以前にも盛唐詩が話題になりましたが、
唐詩は四つの時代に分けられるそうです。
ちなみに本文中の詩に関する部分は全く意味がわかりません。
汾上驚秋の詩とは、
唐詩選に収録されている蘇頲という人の詩で、
北風吹白雲、万里渡河汾、心緒逢搖落、秋声不可聞
という五言絶句の詩です。
汾水という川を渡る際に、秋の訪れに驚くという内容ですが、
この注釈に関して形式が変わってしまうというのが真淵の意見です。
いずれ漢詩について学びたいと思ってはいますが、
とりあえず今日のところはスルーで。
(服部)南郭が漢詩を講じた席に、真淵も参って聞いた。
講義が終わった後に、(南郭の傍に)膝を進め、
「先生の名声は、古今の大家と人は申します。
ただ、唐の作風を捨て、古代の詩風を範としないのが残念だ」と言った。
南郭は嘲笑って、
「汝は妙な事を言う奴だ。
詩は初唐のものは気品が高く模倣しづらい。
盛唐より中唐の詩風を模倣するべきだ。
晩唐のものは気品が落ちる。何を思ってそんな事を言うのか」と言う。
それに答える。
「今日の講には、
汾上驚秋の詩は、北風吹白雲、万里渡河汾、この二句にて意は尽きた。
心緒逢搖落、秋声不可聞とは、上の二句の注解に似ている。
四韻六句の形式になってしまって、この欠点があると思う」と。
南郭はその意見に応じて、
「三十年遅く生まれても、汝と同じようには学べないだろう」
と、ため息をついたそうだ。
和歌も必ず三十一字にすると定められた後は、優れた歌が少ないのは、
「あし曳の山鳥の尾のしだり尾の」と、文の修辞を加えて、
長い夜の独り寝の嘆きの意を、詳しくは述べ尽くしていない。
(鎌倉時代からの)五百年来は、ただ心情を詳しく述べ、
思いのたけを表現しようとする。
安い遊女の話を聞くようなもので、何ともしつこくて嫌になる。
表現せずにおれないで、長いのは幾百言も連ねる長歌もあるが、
短いものは、「我家の方に雲居立ち来も」と言って、気を晴らされた。
孔子が川上に立ち、「悠哉々々、逝者如此、不舎昼夜」と言ったのを、
人丸が知らずに詠んだ、
「いざよふ波のゆくへしらずも」と言う歌も、思情を尽くした。
(漢語に比べて)国語の方が字数が多く必要なのも、
こうやれば、孔子の字数より少なくて欠点が無い。
また材料の少ないのを長く延ばして詠むのは、和歌を詠む面白さであり、
今の歌人は上手くできないものだ。下手くそで見苦しい。
度々出てくる詩歌に関する話です。
今回は非常に難解でした。
雑に要約すると、
詩を長々と詠むのには技術がいるといった話でしょうか。
服部南郭は荻生徂徠の門下生で、唐詩選の注釈書の著者としても有名です。
賀茂真淵とも交流のあった人物だそうです。
以前にも盛唐詩が話題になりましたが、
唐詩は四つの時代に分けられるそうです。
ちなみに本文中の詩に関する部分は全く意味がわかりません。
汾上驚秋の詩とは、
唐詩選に収録されている蘇頲という人の詩で、
北風吹白雲、万里渡河汾、心緒逢搖落、秋声不可聞
という五言絶句の詩です。
汾水という川を渡る際に、秋の訪れに驚くという内容ですが、
この注釈に関して形式が変わってしまうというのが真淵の意見です。
いずれ漢詩について学びたいと思ってはいますが、
とりあえず今日のところはスルーで。
胆大小心録 その144
百四十四
大阪に子堕ろしの女医者がいた。
とても古い家に住んでいたが、子がいなく荒れ果てて、
六年ほど人が住まない廃家となったので、
それを求める人がいた為、家を取り壊し、
土地を掘り変えて、奇麗にしようとした。
(土地内に)穴があり中に何かが入っている。
鍬に感触があったので掘りいれてみると、古い備前焼の壷であった。
中にまた器が入っていて、金がたくさん入っていた。
すぐに奉行所に訴え捧げると、留め置かれて、後に呼び出されると、
半分は地主、半分はその時の日雇い人夫五、六人に分けて与えたそうだ。
(金は)とにかく隠れてはいない性質がある。
私の友人の某という医師は、ちょうどその時に役所に診察に行き合わせて、
その数を聞くと、二百七十両ほどあったそうだ。
また難波村の畑で、遊女が足を踏み違えて転んだ際に、穴があり、
ふみ○○中に光って見える物があるので、拾って帰ると、金が十両ほどあった。
それはどこにと、聞く人たちが次々に行って掘り手に入れると、
およそ二百両に上ったという。
奉行所に訴え出て、後で拾った者たちに、自分らで得たままに与えたということだ。
その遊女は身抜けして、親の元に帰ったそうだ。
その余りの金は博打を打つやくざ者の手で、
二、三夜ほどで飛び散って失せたそうだ。
とにかく押し黙ってはいない奴だ。
前々回に出てきた、
金は一箇所に留まらないという性質に関するエピソードです。
要するに埋もれていた金が見つかったという話です。
現代でも思いがけずに大金が発見される事件がよくありますね。
ちなみに○○の箇所は、以前にもありましたが、
原本から抜けてしまった部分です。
大阪に子堕ろしの女医者がいた。
とても古い家に住んでいたが、子がいなく荒れ果てて、
六年ほど人が住まない廃家となったので、
それを求める人がいた為、家を取り壊し、
土地を掘り変えて、奇麗にしようとした。
(土地内に)穴があり中に何かが入っている。
鍬に感触があったので掘りいれてみると、古い備前焼の壷であった。
中にまた器が入っていて、金がたくさん入っていた。
すぐに奉行所に訴え捧げると、留め置かれて、後に呼び出されると、
半分は地主、半分はその時の日雇い人夫五、六人に分けて与えたそうだ。
(金は)とにかく隠れてはいない性質がある。
私の友人の某という医師は、ちょうどその時に役所に診察に行き合わせて、
その数を聞くと、二百七十両ほどあったそうだ。
また難波村の畑で、遊女が足を踏み違えて転んだ際に、穴があり、
ふみ○○中に光って見える物があるので、拾って帰ると、金が十両ほどあった。
それはどこにと、聞く人たちが次々に行って掘り手に入れると、
およそ二百両に上ったという。
奉行所に訴え出て、後で拾った者たちに、自分らで得たままに与えたということだ。
その遊女は身抜けして、親の元に帰ったそうだ。
その余りの金は博打を打つやくざ者の手で、
二、三夜ほどで飛び散って失せたそうだ。
とにかく押し黙ってはいない奴だ。
前々回に出てきた、
金は一箇所に留まらないという性質に関するエピソードです。
要するに埋もれていた金が見つかったという話です。
現代でも思いがけずに大金が発見される事件がよくありますね。
ちなみに○○の箇所は、以前にもありましたが、
原本から抜けてしまった部分です。
胆大小心録 その143
百四十三
(秋成の住む)この山の金地院という院号は、
本光国師の付けた名である。
昔、少納言信西は、
大勢いる子供の中の、時尚という人を、東北地方に流した。
(時尚の)性格は温柔で、容貌が端正である為、
陸奥の国の人は愛おしく思い、
(流罪が解けて帰郷する際に)餞別にと、
(名産の)砂金を袋からこぼれるほど渡したという。
白日の身となって、この山に住む際に、
この金を、住まいの地中に埋めたそうだ。
金気も深く埋められては、性悪く暴れる事もできないのだ。
前回の金の話に関するエピソードです。
本光国師というのは、徳川家康の腹心として有名な崇伝の事です。
黒衣の宰相と呼ばれた人物です。
平安時代末期の少納言、藤原信西が、
時尚という人物を流罪に処したという話ですが、
この時尚についてはよくわかりません。
この話が載っている文献も不明だそうです。
要するに金地院という名の由来ですね。
(秋成の住む)この山の金地院という院号は、
本光国師の付けた名である。
昔、少納言信西は、
大勢いる子供の中の、時尚という人を、東北地方に流した。
(時尚の)性格は温柔で、容貌が端正である為、
陸奥の国の人は愛おしく思い、
(流罪が解けて帰郷する際に)餞別にと、
(名産の)砂金を袋からこぼれるほど渡したという。
白日の身となって、この山に住む際に、
この金を、住まいの地中に埋めたそうだ。
金気も深く埋められては、性悪く暴れる事もできないのだ。
前回の金の話に関するエピソードです。
本光国師というのは、徳川家康の腹心として有名な崇伝の事です。
黒衣の宰相と呼ばれた人物です。
平安時代末期の少納言、藤原信西が、
時尚という人物を流罪に処したという話ですが、
この時尚についてはよくわかりません。
この話が載っている文献も不明だそうです。
要するに金地院という名の由来ですね。