胆大小心録 その142
百四十二
大阪の玉造の丘に一人の隠者がいて、茶を好む。
古物店にて、色合いが確かではない古い釜を求めて、
持ち帰って洗い清め、湯を沸かせると、
その響きは清涼として、垣の外を通る人は、耳を澄ませて立ち止まる。
隠者は大いに得意になり、ますます清くしようと、
擦って磨いてみると、釜は黄金でできていた。
豊臣公の桐の紋が彫り付けてあった。
これはと驚いて、奉行所に訴えて提出すると、
「置いて帰れ」と言って、その後は音沙汰が無かった。
金の性質は悪である。決して隠れてはいない。
昼夜問わず人の間を巡り巡って、人を喜ばせ、人を悲しませる。
その為貯めこんでいても、崩れて無くなるのが早い。
崩れるのでは無く、積まれるのが性質に合っていないのだ。
今の富豪の多くは、証文のみを多く収めて、財産は何万両と言っている。
もし世が乱れたら、一枚の紙くずだ。
この事により、金の性質が人を喜ばせ、
人を悲しませる事の発端である事を伺い知れる。
銭の性質は善である。
日々巡って人の用を足し、人があまり気にしないので、
転々と人手に渡っても怨みの元にはならない。
神仏のお供えに用いれれば、乞食が一夜の宿賃、一飯の助けにも使える。
銭の性質が善だというのはこういう理由があるのだ。
貧乏な者も多大な金に縁は薄いが、
貧しいながらも祖先より数代も家が続く事が多い。
成り上がって富んだ家が、たちまちに滅び廃墟となるのは、
金の性質に合わなかった為である。
このように悪性の金は求めなくてもよいのだ。
以前も金銭に関する話はありましたが、
「雨月物語」にも貧福論という話があり、
秋成の金に対する考え方が窺い知れます。
貨幣制度が完全に定着した現代では若干ニュアンスが変わりそうです。
大雑把に大金と小銭に置き換えてもいいかも知れませんね。
大阪の玉造の丘に一人の隠者がいて、茶を好む。
古物店にて、色合いが確かではない古い釜を求めて、
持ち帰って洗い清め、湯を沸かせると、
その響きは清涼として、垣の外を通る人は、耳を澄ませて立ち止まる。
隠者は大いに得意になり、ますます清くしようと、
擦って磨いてみると、釜は黄金でできていた。
豊臣公の桐の紋が彫り付けてあった。
これはと驚いて、奉行所に訴えて提出すると、
「置いて帰れ」と言って、その後は音沙汰が無かった。
金の性質は悪である。決して隠れてはいない。
昼夜問わず人の間を巡り巡って、人を喜ばせ、人を悲しませる。
その為貯めこんでいても、崩れて無くなるのが早い。
崩れるのでは無く、積まれるのが性質に合っていないのだ。
今の富豪の多くは、証文のみを多く収めて、財産は何万両と言っている。
もし世が乱れたら、一枚の紙くずだ。
この事により、金の性質が人を喜ばせ、
人を悲しませる事の発端である事を伺い知れる。
銭の性質は善である。
日々巡って人の用を足し、人があまり気にしないので、
転々と人手に渡っても怨みの元にはならない。
神仏のお供えに用いれれば、乞食が一夜の宿賃、一飯の助けにも使える。
銭の性質が善だというのはこういう理由があるのだ。
貧乏な者も多大な金に縁は薄いが、
貧しいながらも祖先より数代も家が続く事が多い。
成り上がって富んだ家が、たちまちに滅び廃墟となるのは、
金の性質に合わなかった為である。
このように悪性の金は求めなくてもよいのだ。
以前も金銭に関する話はありましたが、
「雨月物語」にも貧福論という話があり、
秋成の金に対する考え方が窺い知れます。
貨幣制度が完全に定着した現代では若干ニュアンスが変わりそうです。
大雑把に大金と小銭に置き換えてもいいかも知れませんね。
胆大小心録 その141
百四十一
放下(大道芸人)が語るのを聞くと、
「そちの母はいくつじゃ。八十三とか。大事にしなさい。一人しかいないのだ。
金銀では得られないのだ。その代わりに、売ると言っても、三文でも買い手はいない」
と言った。
これは面白い言葉だ。
今回は短いです。
今日は忙しかったので助かりました。
放下というのは、
面白い事を言いながら手品や曲芸をする芸人の事だそうです。
放下(大道芸人)が語るのを聞くと、
「そちの母はいくつじゃ。八十三とか。大事にしなさい。一人しかいないのだ。
金銀では得られないのだ。その代わりに、売ると言っても、三文でも買い手はいない」
と言った。
これは面白い言葉だ。
今回は短いです。
今日は忙しかったので助かりました。
放下というのは、
面白い事を言いながら手品や曲芸をする芸人の事だそうです。
胆大小心録 その140
百四十
闘茶(利き茶)は、宋代から続く遊戯である。
優劣は定めがたいというのは間違いない。
点茶には濃淡を変える技術があり、妙技に達する事ができる。
煎茶は初順・二順・三順の甘味や気色がすぐに移り変わる為、試味がしにくい。
点茶にも同じようなものがあり、これは茶かぶきという。
実にかぶき者の遊びである。
点式(客をもてなす作法)・貼着(茶の成分が器に残る事)は見ると嫌になる。
茶席での立ち振る舞いも常に変わっていて、
能狂言を見ているかのようにもったいらしくて滑稽だ。
剋限(時刻の定め)の愚かしさも同じ。文雅がない故の失敗である。
市中を出たところにて行う点饗の式(野点)はとても良い。
隣の喧嘩の声、大路の馬車の轟き、
小家ならば壁垣の隣の夫婦の口説きやいさかい、猫の盛る声、
ひどい場合には小水の音も臭いもするのだ。
茶は好んで飲むべきだ。
市中で礼服を着て茶席を有難がるのは、客も主も共に子供の遊びである。
古くから伝わる器は観賞するべきものだ。
大金をはたいて求めた物は、舜の使った椀といえども廃器と同じような物だ。
元々茶器として製作していない物を転用するのはみっともない事だ。
自製の器は、
蛭子の神のように据わりが悪くともそうでなくとも、捨ててしまう物のみである。
たまたま中には用いるべきものがあるだけだ。
これは人の子の愛憎の、親(作り手)の愛情や運によって愛用する物も出来る。
値がつかない器を我が家では宝としている。
前回に引き続き茶の話です。
前半は利き茶の話と点茶との違いに関する話ですが、
清風瑣言によると、煎茶は一杯毎に風味や色が変わり、判断が難しいそうです。
秋成が嫌う貼着についてですが、
貼着とは茶の風味や成分が器に残ってしまう事で、
秋成のもう一つの茶道書「茶瘕酔言」によると、
どれだけ洗っても消える事は無く、次に注ぐ茶に悪影響を及ぼす為、
器を捨ててしまうそうです。
後半に出てくる、自作の器は出来如何に関わらず捨ててしまうというのは、
こういう理由があるという事ですね。
ちなみに蛭子(ヒルコ)というのは、日本書紀などに出てくる神の事で、
足が立たない不具の子であった為に、生まれてすぐに捨てられてしまったそうです。
据わりが悪い器をそれに例えているわけです。
闘茶(利き茶)は、宋代から続く遊戯である。
優劣は定めがたいというのは間違いない。
点茶には濃淡を変える技術があり、妙技に達する事ができる。
煎茶は初順・二順・三順の甘味や気色がすぐに移り変わる為、試味がしにくい。
点茶にも同じようなものがあり、これは茶かぶきという。
実にかぶき者の遊びである。
点式(客をもてなす作法)・貼着(茶の成分が器に残る事)は見ると嫌になる。
茶席での立ち振る舞いも常に変わっていて、
能狂言を見ているかのようにもったいらしくて滑稽だ。
剋限(時刻の定め)の愚かしさも同じ。文雅がない故の失敗である。
市中を出たところにて行う点饗の式(野点)はとても良い。
隣の喧嘩の声、大路の馬車の轟き、
小家ならば壁垣の隣の夫婦の口説きやいさかい、猫の盛る声、
ひどい場合には小水の音も臭いもするのだ。
茶は好んで飲むべきだ。
市中で礼服を着て茶席を有難がるのは、客も主も共に子供の遊びである。
古くから伝わる器は観賞するべきものだ。
大金をはたいて求めた物は、舜の使った椀といえども廃器と同じような物だ。
元々茶器として製作していない物を転用するのはみっともない事だ。
自製の器は、
蛭子の神のように据わりが悪くともそうでなくとも、捨ててしまう物のみである。
たまたま中には用いるべきものがあるだけだ。
これは人の子の愛憎の、親(作り手)の愛情や運によって愛用する物も出来る。
値がつかない器を我が家では宝としている。
前回に引き続き茶の話です。
前半は利き茶の話と点茶との違いに関する話ですが、
清風瑣言によると、煎茶は一杯毎に風味や色が変わり、判断が難しいそうです。
秋成が嫌う貼着についてですが、
貼着とは茶の風味や成分が器に残ってしまう事で、
秋成のもう一つの茶道書「茶瘕酔言」によると、
どれだけ洗っても消える事は無く、次に注ぐ茶に悪影響を及ぼす為、
器を捨ててしまうそうです。
後半に出てくる、自作の器は出来如何に関わらず捨ててしまうというのは、
こういう理由があるという事ですね。
ちなみに蛭子(ヒルコ)というのは、日本書紀などに出てくる神の事で、
足が立たない不具の子であった為に、生まれてすぐに捨てられてしまったそうです。
据わりが悪い器をそれに例えているわけです。