むかしのはなし -12ページ目

胆大小心録 その136

百三十六

老(秋成)も(西行のように)雲に似せた歌を、やむを得ずに詠んだが、
あまり褒められた物ではない。

  暁雲
 よしの山雲とまがえる花さけば花にもまがふあかつきの雲
(吉野山に雲と見間違えるような花が咲くと、その花に見間違えるのが暁の雲だ)

 みやこに住みつきての春
 すまで我みやはさだめん粟田山あはたつ雲はさくら成けり
 (京に住まなければ見定める事は無かっただろう、
 粟田山にたつ雲が桜だという事を)

  雲有帰山情
 まがふやと花にわかれて小初瀬に夕はかえる春のうき雲
 (夕方まで花を見て初瀬山に帰る際に振り返ると、
 花と見間違うばかりの浮雲がたっている)

  春曙花
 足曳の山桜戸のひまもれて花にまがはぬ有明のつき
 (桜木作りの戸の隙間から花のように白く見える有明月)

  雲を
 花に似ぬよし野の山の峰の雲はるるを散ると人はいふ也
 (花に似る吉野山の峰の雲が晴れる事を、散ると人は言う)

全て褒められた事はない。これは評判を気にする者たちの歌だ。


第6条、86条にも見える西行の話です。
西行と同じように秋成も雲を花に見立てた歌を詠んでみた、
という内容です。

胆大小心録 その135

百三十五

大阪の天神橋を渡る時に、
川面の美しく飾り立てた舟で、「やんら、めでた」と
舟歌を歌っているのを見ると、
(漆などを)塗った舟が、島津家の轡の家紋に、太閤桐の紫の幕を風に翻し、
東に向かって行く。

(内山)栗斎の北野の別荘に行き、
「今しかじかの物を見た。
(豊臣)秀頼の子孫が薩摩にいるというのは、これの事だろう」と言う。

(栗斎は)「私が使っていた侍女が九十歳で死に、その母も八十年以上生きたと言い、
(侍女は)「母が十八歳の時に、木村(重成)に仕えて、
正室に気に入られ傍で働いていた」
と言っていた。
討死の日に(重成が)最後の一杯を妻に勧めて、
「汝もよく考えて処置せよ」と言い、馬にまたがり門を出た。
正室も門まで見送りに出て、「(先に往くので)待たせて下さい」と、声をかける。
振り返って見れば、短刀で喉を貫いていた。
侍女が驚いて、室内に抱えて入る。
木村は馬を飛ばし戦陣に行く。二十町も行かぬ内に、
「君(秀頼)が討死した」と告げられ戻る。
(侍女が母から)伝え聞いた事には、
「(重成が戦死したとされる)若江村の戦場は一里も離れているので、
どうやってそこに行ったというのか」。
これは世間で言われている説のように、
島津より「城内に兵糧五百石を入れる」と乞われる。
神君(徳川家康)はこれを許して入れさせた。
米を納めて兵卒たちは帰る。
この中に秀頼・真田(幸村)・後藤(又兵衛)・木村も連れて
密かに脱出したのだそうだ」。

私が語る。
「河内の山辺に、石垣と呼ばれる集落がある。木村の乳母の里だ。
木村の戦死の日に香炉を一つ送って、文を添えた。
その文の写しを見るに、偽物の文である」。

また世間では、
「戦死の日、兜の中に蘭奢待を焚いた」と言う。
戦死かそうでないかは伝える人によって違う。

私が詠んだ俳句に、「君くれば木村が長門か首のかざ」というものがある。
同席の連中が感じ入り褒める。我ながら上手く言ったと思った。


大阪の陣で敗死した豊臣秀頼と、木村重成の話です。
内山栗斎は大坂西町奉行所の与力で、秋成の友人です。
栗斎の侍女の母が木村重成の妻に仕えていたそうです。

秀頼は大阪落城の際に自害しましたが、
この手の事件にはよくあるように、その生存を信じる人も多く、
島津の治める薩摩に匿われているという噂が立っていたそうです。

木村重成は大阪の陣で戦死した若武者で、秀頼の幼馴染のような存在でした。
二十台前半の若さでありながら、主力として活躍したそうです。
終戦後に家康が、本陣に届けられた首を確認すると、
髪に香が焚いてあったそうです。
これは重成が死を覚悟して戦に臨んだ事を表しているそうです。
兜の中に焚いたという蘭奢待がその香木の名ですが、
実際に重成が焚いたのは蘭奢待では無いようです。
秋成は広い意味で香を焚いたと言ったのでしょうね。

島津が秀頼を逃がしたという逸話が説明されていますが、
その中の真田幸村・後藤又兵衛は共に大阪の陣で大活躍した武将であり、
生存説を唱える人々にとってはベストメンバーという感じでしょうか。
逆に言えば、家康がこの四人を逃すような愚を犯すとは考えられませんが、
真実は誰にもわかりませんね。

最後の句は、木村屋という色茶屋の長門太夫という遊女の事で、
遊女が座敷に着く前に、髪につけた化粧油の匂いで長門太夫だとわかる、
という内容だそうです。

木村重成の兜の香にかけてるわけですね。
このエピソードいらないなあ。

胆大小心録 その134

百三十四

歌は朝廷に仕えて、冠装束を整え、武事には関わらない公達が、
詠むものとなってしまったのが残念だ。
武を忘れてしまい、武士達に威光を弱められ、
君主とはいえ、女々しさを敬う事となってしまった。

神武天皇は大和(奈良)を征服し、
雄略天皇は武力で国を統治し、
天智天皇は聖帝と呼ばれたが、
みな勇猛で、その事に関して歌も詠んだそうだ。

武士といえども、世は末だといえども、
鎌倉が滅び、六波羅が攻められた際に、
千早城を攻めていた関東方の武将たちが、
身分の上下を問わずに、六条河原で首を刎ねられる時に、
佐介某という侍が、末座に据え置かれて、詠んだ歌こそ、真の歌である。
 皆人の世にあるときは敷ならでうきにはもれぬ我身なりけり
気の毒な事だ。
愚かな大将どもの下に付いて、今日罰せられる際には、
同列に連なるのが悲しいのだ。

文官武官の区別は無く、心のままに詠む事こそが歌なのだ。

また文官である納言の卿(大江匡房)にも、
源義家が奥州の謀反を平定して、参上した際に、
階の下で、「報告をせよ」と勅令が出たので、謹んで承り、
前九年の役の戦況を語り、詳らかに報告したのを、(納言の卿が)聞き、
「折角の勇者だが軍学を学んでいないな」
と、独り言を言っていたと聞いて、すぐに(納言の下に)参って、
軍学を学んだと伝えられている。
これは大江匡房の事で、歌もよく詠み、博識の評判が高く、
かつ軍学さえもこのように教えられるのだ。

現在では歌は公家、連歌は武家のものと区別されていて、
その連歌も歌も、ともに柔弱になって、口真似ばかりになってしまった。
仏教でいう末世とはこういう事をいっているのだろう。


前回からの関連で、
歌を詠む層がお決まりになって、質が落ちているという話です。
ほとんどが第10条と重複する内容になっています。