胆大小心録 その135
百三十五
大阪の天神橋を渡る時に、
川面の美しく飾り立てた舟で、「やんら、めでた」と
舟歌を歌っているのを見ると、
(漆などを)塗った舟が、島津家の轡の家紋に、太閤桐の紫の幕を風に翻し、
東に向かって行く。
(内山)栗斎の北野の別荘に行き、
「今しかじかの物を見た。
(豊臣)秀頼の子孫が薩摩にいるというのは、これの事だろう」と言う。
(栗斎は)「私が使っていた侍女が九十歳で死に、その母も八十年以上生きたと言い、
(侍女は)「母が十八歳の時に、木村(重成)に仕えて、
正室に気に入られ傍で働いていた」
と言っていた。
討死の日に(重成が)最後の一杯を妻に勧めて、
「汝もよく考えて処置せよ」と言い、馬にまたがり門を出た。
正室も門まで見送りに出て、「(先に往くので)待たせて下さい」と、声をかける。
振り返って見れば、短刀で喉を貫いていた。
侍女が驚いて、室内に抱えて入る。
木村は馬を飛ばし戦陣に行く。二十町も行かぬ内に、
「君(秀頼)が討死した」と告げられ戻る。
(侍女が母から)伝え聞いた事には、
「(重成が戦死したとされる)若江村の戦場は一里も離れているので、
どうやってそこに行ったというのか」。
これは世間で言われている説のように、
島津より「城内に兵糧五百石を入れる」と乞われる。
神君(徳川家康)はこれを許して入れさせた。
米を納めて兵卒たちは帰る。
この中に秀頼・真田(幸村)・後藤(又兵衛)・木村も連れて
密かに脱出したのだそうだ」。
私が語る。
「河内の山辺に、石垣と呼ばれる集落がある。木村の乳母の里だ。
木村の戦死の日に香炉を一つ送って、文を添えた。
その文の写しを見るに、偽物の文である」。
また世間では、
「戦死の日、兜の中に蘭奢待を焚いた」と言う。
戦死かそうでないかは伝える人によって違う。
私が詠んだ俳句に、「君くれば木村が長門か首のかざ」というものがある。
同席の連中が感じ入り褒める。我ながら上手く言ったと思った。
大阪の陣で敗死した豊臣秀頼と、木村重成の話です。
内山栗斎は大坂西町奉行所の与力で、秋成の友人です。
栗斎の侍女の母が木村重成の妻に仕えていたそうです。
秀頼は大阪落城の際に自害しましたが、
この手の事件にはよくあるように、その生存を信じる人も多く、
島津の治める薩摩に匿われているという噂が立っていたそうです。
木村重成は大阪の陣で戦死した若武者で、秀頼の幼馴染のような存在でした。
二十台前半の若さでありながら、主力として活躍したそうです。
終戦後に家康が、本陣に届けられた首を確認すると、
髪に香が焚いてあったそうです。
これは重成が死を覚悟して戦に臨んだ事を表しているそうです。
兜の中に焚いたという蘭奢待がその香木の名ですが、
実際に重成が焚いたのは蘭奢待では無いようです。
秋成は広い意味で香を焚いたと言ったのでしょうね。
島津が秀頼を逃がしたという逸話が説明されていますが、
その中の真田幸村・後藤又兵衛は共に大阪の陣で大活躍した武将であり、
生存説を唱える人々にとってはベストメンバーという感じでしょうか。
逆に言えば、家康がこの四人を逃すような愚を犯すとは考えられませんが、
真実は誰にもわかりませんね。
最後の句は、木村屋という色茶屋の長門太夫という遊女の事で、
遊女が座敷に着く前に、髪につけた化粧油の匂いで長門太夫だとわかる、
という内容だそうです。
木村重成の兜の香にかけてるわけですね。
このエピソードいらないなあ。
大阪の天神橋を渡る時に、
川面の美しく飾り立てた舟で、「やんら、めでた」と
舟歌を歌っているのを見ると、
(漆などを)塗った舟が、島津家の轡の家紋に、太閤桐の紫の幕を風に翻し、
東に向かって行く。
(内山)栗斎の北野の別荘に行き、
「今しかじかの物を見た。
(豊臣)秀頼の子孫が薩摩にいるというのは、これの事だろう」と言う。
(栗斎は)「私が使っていた侍女が九十歳で死に、その母も八十年以上生きたと言い、
(侍女は)「母が十八歳の時に、木村(重成)に仕えて、
正室に気に入られ傍で働いていた」
と言っていた。
討死の日に(重成が)最後の一杯を妻に勧めて、
「汝もよく考えて処置せよ」と言い、馬にまたがり門を出た。
正室も門まで見送りに出て、「(先に往くので)待たせて下さい」と、声をかける。
振り返って見れば、短刀で喉を貫いていた。
侍女が驚いて、室内に抱えて入る。
木村は馬を飛ばし戦陣に行く。二十町も行かぬ内に、
「君(秀頼)が討死した」と告げられ戻る。
(侍女が母から)伝え聞いた事には、
「(重成が戦死したとされる)若江村の戦場は一里も離れているので、
どうやってそこに行ったというのか」。
これは世間で言われている説のように、
島津より「城内に兵糧五百石を入れる」と乞われる。
神君(徳川家康)はこれを許して入れさせた。
米を納めて兵卒たちは帰る。
この中に秀頼・真田(幸村)・後藤(又兵衛)・木村も連れて
密かに脱出したのだそうだ」。
私が語る。
「河内の山辺に、石垣と呼ばれる集落がある。木村の乳母の里だ。
木村の戦死の日に香炉を一つ送って、文を添えた。
その文の写しを見るに、偽物の文である」。
また世間では、
「戦死の日、兜の中に蘭奢待を焚いた」と言う。
戦死かそうでないかは伝える人によって違う。
私が詠んだ俳句に、「君くれば木村が長門か首のかざ」というものがある。
同席の連中が感じ入り褒める。我ながら上手く言ったと思った。
大阪の陣で敗死した豊臣秀頼と、木村重成の話です。
内山栗斎は大坂西町奉行所の与力で、秋成の友人です。
栗斎の侍女の母が木村重成の妻に仕えていたそうです。
秀頼は大阪落城の際に自害しましたが、
この手の事件にはよくあるように、その生存を信じる人も多く、
島津の治める薩摩に匿われているという噂が立っていたそうです。
木村重成は大阪の陣で戦死した若武者で、秀頼の幼馴染のような存在でした。
二十台前半の若さでありながら、主力として活躍したそうです。
終戦後に家康が、本陣に届けられた首を確認すると、
髪に香が焚いてあったそうです。
これは重成が死を覚悟して戦に臨んだ事を表しているそうです。
兜の中に焚いたという蘭奢待がその香木の名ですが、
実際に重成が焚いたのは蘭奢待では無いようです。
秋成は広い意味で香を焚いたと言ったのでしょうね。
島津が秀頼を逃がしたという逸話が説明されていますが、
その中の真田幸村・後藤又兵衛は共に大阪の陣で大活躍した武将であり、
生存説を唱える人々にとってはベストメンバーという感じでしょうか。
逆に言えば、家康がこの四人を逃すような愚を犯すとは考えられませんが、
真実は誰にもわかりませんね。
最後の句は、木村屋という色茶屋の長門太夫という遊女の事で、
遊女が座敷に着く前に、髪につけた化粧油の匂いで長門太夫だとわかる、
という内容だそうです。
木村重成の兜の香にかけてるわけですね。
このエピソードいらないなあ。