胆大小心録 その124
百二十四
人の善悪邪正もまた時代によって判断は同じではない。
米穀の豊凶に関して、豊作を喜び、凶作を嫌うのは、
和漢問わず大昔から変わらないのは言うまでも無い。
近頃米穀が豊かになったせいで民が苦しんでいるというお触れが出た。
疑わしい事だ。例年の新嘗祭は豊作を祈るものだ。
夜更けに神嘉殿に出御があり、
明け方に至るまで、丁寧に祭礼を行い、朝になる。
これは何の為だ。
豊作を忌むというお触れに対し、天皇は何故詰問しないのか。
時代によって善悪の基準が異なるという話です。
解説によると、文化三年(1806年)に豊作の為に米の値段が下落し、
経済に悪影響をもたらしたそうです。
その対策として大阪の富豪に出資させ、米を買い上げるというお触れが出たそうです。
いわゆる御買上米という政策ですね。
新嘗祭は収穫祭のようなもので、天皇が皇居付近にある神嘉殿において、
その年の収穫を祝う儀式だそうです。
毎年11月23日に行われ、
戦後に勤労感謝の日に改定されるまでは祝祭日の一つでした。
人の善悪邪正もまた時代によって判断は同じではない。
米穀の豊凶に関して、豊作を喜び、凶作を嫌うのは、
和漢問わず大昔から変わらないのは言うまでも無い。
近頃米穀が豊かになったせいで民が苦しんでいるというお触れが出た。
疑わしい事だ。例年の新嘗祭は豊作を祈るものだ。
夜更けに神嘉殿に出御があり、
明け方に至るまで、丁寧に祭礼を行い、朝になる。
これは何の為だ。
豊作を忌むというお触れに対し、天皇は何故詰問しないのか。
時代によって善悪の基準が異なるという話です。
解説によると、文化三年(1806年)に豊作の為に米の値段が下落し、
経済に悪影響をもたらしたそうです。
その対策として大阪の富豪に出資させ、米を買い上げるというお触れが出たそうです。
いわゆる御買上米という政策ですね。
新嘗祭は収穫祭のようなもので、天皇が皇居付近にある神嘉殿において、
その年の収穫を祝う儀式だそうです。
毎年11月23日に行われ、
戦後に勤労感謝の日に改定されるまでは祝祭日の一つでした。
胆大小心録 その123
百十三
仏教では架空の説話をでっちあげて教理を説く。
実に胡散臭く、人にとって無益である。
そのような説話は和漢共に数多く見られるため、
いちいち例を挙げるのも面倒だ。
上手に作ってあるのは、作り話であるとはいえ面白いものではある。
出来の悪いものは女子供でさえ騙されず、実に無益だ。
信じる者は己の愚かさのせいで迷うのだ。
これは他の宗教でもありそうな話ですね。
ちなみにここでいう説話とは法華経の方便品という部分の事だそうで、
まさに方便だと言っているのでしょうね。
仏教では架空の説話をでっちあげて教理を説く。
実に胡散臭く、人にとって無益である。
そのような説話は和漢共に数多く見られるため、
いちいち例を挙げるのも面倒だ。
上手に作ってあるのは、作り話であるとはいえ面白いものではある。
出来の悪いものは女子供でさえ騙されず、実に無益だ。
信じる者は己の愚かさのせいで迷うのだ。
これは他の宗教でもありそうな話ですね。
ちなみにここでいう説話とは法華経の方便品という部分の事だそうで、
まさに方便だと言っているのでしょうね。
胆大小心録 その122
百二十二
七月十日の夜、雷が三度落ちた。
翁(秋成)はこれを恐れる事は無かったが、
しきりに動悸が起き、不安になり、探り探りで香を焚き、
「雲雷鼓制電」と唱える。
岡崎村に三つ、養(要)法寺に一つ落ちた。
この寺の中は大いに荒れて、庭はみすぼらしい様子になっていた。
岡崎にある本光寺の門前の松に、
また二つは我が友(松本)柳斎の庵室の東隣に落ちた。
庵の尼主が大いに騒いだ。柳斎は写字をしている机の前で、
「神鳴(かみなり)め早く帰れ。
遅れれば目に物見せるぞ。智了尼よ恐れるに足りんぞ」
と、木偶のように落ち着いていた。
また東隣の庵の留守居の女は、四十歳ほどで、小女一人と一緒にいた。
雷二つ、一つは軒に一つは壁の外に落ちた。
雷が治まると、そのまま三条の本家に走っていって、
「誰か見に来い。ひどい有様だ。修理してくれ」と言うと、
その朝に早速大工が来て、瓦を加え壁を塗ったという。
水屋(茶屋の台所)は砕けて跡形も無い。
(この女の)剛雄なる事柳斎以上だ。良い夫婦になるだろう。
老(秋成)は元々これに驚かない。
二十二歳の頃、室町通の四条の辻に雷が落ちたのを、
わずか十間(約18m)の所で聞いたが、正気を失わなかった。
また大阪にて、六月二十六日に三十六個落ちた事がある。
母と戸主とを蚊帳に入れて、自分はこれを守って身じろがずにいたが、
十町(約1km)ほど東かと聞いたところ、夜が明けて見に行ったところ、
我が住まいの南西の間に、三つ落ちたのを知らずにいた。
この夜は病で体調が悪く震動を苦に思った。
(少子部)蜾蠃が雄略天皇の命を受けて捕らえた雷神ほどではないが、
病気で無ければ捕らえていただろう。
こんな事を言うのも癇症による気のぼりのせいだ。
雷の話です。
「雲雷鼓制電」というのは、雷除けの呪詛だそうです。
松本柳斎は小沢芦庵門下の歌人です。
少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)は日本書紀や日本霊異記に出てくる人物で、
大蛇の姿をした雷神を捕らえたという逸話が残っているそうです。
こういう自然現象に関する記述は
後世の研究者にとって貴重な資料になるそうです。
七月十日の夜、雷が三度落ちた。
翁(秋成)はこれを恐れる事は無かったが、
しきりに動悸が起き、不安になり、探り探りで香を焚き、
「雲雷鼓制電」と唱える。
岡崎村に三つ、養(要)法寺に一つ落ちた。
この寺の中は大いに荒れて、庭はみすぼらしい様子になっていた。
岡崎にある本光寺の門前の松に、
また二つは我が友(松本)柳斎の庵室の東隣に落ちた。
庵の尼主が大いに騒いだ。柳斎は写字をしている机の前で、
「神鳴(かみなり)め早く帰れ。
遅れれば目に物見せるぞ。智了尼よ恐れるに足りんぞ」
と、木偶のように落ち着いていた。
また東隣の庵の留守居の女は、四十歳ほどで、小女一人と一緒にいた。
雷二つ、一つは軒に一つは壁の外に落ちた。
雷が治まると、そのまま三条の本家に走っていって、
「誰か見に来い。ひどい有様だ。修理してくれ」と言うと、
その朝に早速大工が来て、瓦を加え壁を塗ったという。
水屋(茶屋の台所)は砕けて跡形も無い。
(この女の)剛雄なる事柳斎以上だ。良い夫婦になるだろう。
老(秋成)は元々これに驚かない。
二十二歳の頃、室町通の四条の辻に雷が落ちたのを、
わずか十間(約18m)の所で聞いたが、正気を失わなかった。
また大阪にて、六月二十六日に三十六個落ちた事がある。
母と戸主とを蚊帳に入れて、自分はこれを守って身じろがずにいたが、
十町(約1km)ほど東かと聞いたところ、夜が明けて見に行ったところ、
我が住まいの南西の間に、三つ落ちたのを知らずにいた。
この夜は病で体調が悪く震動を苦に思った。
(少子部)蜾蠃が雄略天皇の命を受けて捕らえた雷神ほどではないが、
病気で無ければ捕らえていただろう。
こんな事を言うのも癇症による気のぼりのせいだ。
雷の話です。
「雲雷鼓制電」というのは、雷除けの呪詛だそうです。
松本柳斎は小沢芦庵門下の歌人です。
少子部蜾蠃(ちいさこべのすがる)は日本書紀や日本霊異記に出てくる人物で、
大蛇の姿をした雷神を捕らえたという逸話が残っているそうです。
こういう自然現象に関する記述は
後世の研究者にとって貴重な資料になるそうです。