胆大小心録 その126
百二十六
槐記を見れば、玉津島の神像に賛を願いに来るという。
乞われるに従い言葉を加え給う。
山科某が語るには、
「私はこの賛詞にて玉津島神を衣通姫だとする説の誤りが明らかになった」
という事だ。
それならば何故賛を断られなかったのか不思議だ。
玉津島の神は島の神である。衣通姫では無い。
聖武天皇が行幸中に、名勝を愛で、明光浦と名づけられ、あかのうらと読む。
和歌とはその音が混同したものだ。和歌の字を書く際に後世の人は迷った。
契沖の考察に、続日本紀に、賜津守連通姓とあるのを、姓の字を姫に間違い、
通姫としたという説がある。
衣通姫が和歌浦に神として鎮座するという根拠は無い。
允恭天皇の皇后が、妹の通姫の美艶を疎んだ為、天皇は(通姫を)都から去らせた。
(その後、通姫は)河内の国の血沼の浦(茅渟宮)に住んだという記載を見た。
帝は皇后を恐れて、しばらく通わなくなった。
姫はある夜に歌を詠んだ。
我がせこがくべきよひなりささ蟹の蛛のおこなひこよひしるしも
(今夜は夫が来るはずだ。
待ち人が来るのを知らせるという蜘蛛が動いているのがその証だ)
また「浦の浜藻の寄る時に」などと申す歌もある。全ては思い出せないが。
このいわれと、浜藻を名乗ったという事は、ともに日本書紀に記してある。
たった二首の歌を根拠に、和歌の神であるという説は疑わしい。
前半部分はほとんど意味がわかりません。
槐記というのは
太政大臣の近衛家熙の侍医である山科道安が編集した、家熙の言行録です。
玉津島というのは和歌山県の和歌浦にある玉津島神社の事で、
そこで祭られる三神の一つが衣通姫だという事ですが、
それに関する是非が今回のポイントらしいです。
衣通姫は日本書紀によると、允恭天皇の皇后の妹で、
姉と同じく天皇の妃です。
姉に嫉妬されたのが原因で、大阪の茅渟宮(ちぬのみや)に転居させられたそうです。
皇后の目もあってなかなか会いに行けなくなった状況で詠まれた歌が、
上記のものだそうです。
勉強不足のせいもあって理解できていない部分が多いので、
そのうちに時間をかけて取り組まなければいけないかなと思いつつ、
今日のところはこの辺で…。
槐記を見れば、玉津島の神像に賛を願いに来るという。
乞われるに従い言葉を加え給う。
山科某が語るには、
「私はこの賛詞にて玉津島神を衣通姫だとする説の誤りが明らかになった」
という事だ。
それならば何故賛を断られなかったのか不思議だ。
玉津島の神は島の神である。衣通姫では無い。
聖武天皇が行幸中に、名勝を愛で、明光浦と名づけられ、あかのうらと読む。
和歌とはその音が混同したものだ。和歌の字を書く際に後世の人は迷った。
契沖の考察に、続日本紀に、賜津守連通姓とあるのを、姓の字を姫に間違い、
通姫としたという説がある。
衣通姫が和歌浦に神として鎮座するという根拠は無い。
允恭天皇の皇后が、妹の通姫の美艶を疎んだ為、天皇は(通姫を)都から去らせた。
(その後、通姫は)河内の国の血沼の浦(茅渟宮)に住んだという記載を見た。
帝は皇后を恐れて、しばらく通わなくなった。
姫はある夜に歌を詠んだ。
我がせこがくべきよひなりささ蟹の蛛のおこなひこよひしるしも
(今夜は夫が来るはずだ。
待ち人が来るのを知らせるという蜘蛛が動いているのがその証だ)
また「浦の浜藻の寄る時に」などと申す歌もある。全ては思い出せないが。
このいわれと、浜藻を名乗ったという事は、ともに日本書紀に記してある。
たった二首の歌を根拠に、和歌の神であるという説は疑わしい。
前半部分はほとんど意味がわかりません。
槐記というのは
太政大臣の近衛家熙の侍医である山科道安が編集した、家熙の言行録です。
玉津島というのは和歌山県の和歌浦にある玉津島神社の事で、
そこで祭られる三神の一つが衣通姫だという事ですが、
それに関する是非が今回のポイントらしいです。
衣通姫は日本書紀によると、允恭天皇の皇后の妹で、
姉と同じく天皇の妃です。
姉に嫉妬されたのが原因で、大阪の茅渟宮(ちぬのみや)に転居させられたそうです。
皇后の目もあってなかなか会いに行けなくなった状況で詠まれた歌が、
上記のものだそうです。
勉強不足のせいもあって理解できていない部分が多いので、
そのうちに時間をかけて取り組まなければいけないかなと思いつつ、
今日のところはこの辺で…。