愛と平和の弾薬庫 -53ページ目

愛と平和の弾薬庫

心に弾丸を。腹の底に地雷原を。
目には笑みを。
刺激より愛を。
平穏より平和を。
音源⇨ https://eggs.mu/artist/roughblue

 キッチンの入り口あたりにもたれかかり、テレビ画面の中のブルース・スプリングスティーンを見ながら納豆を食った。もちろん白メシと一緒に。乗せて、ではなく、一緒になどと書かなくちゃならないのにはわけがあって、ご飯の下に納豆を隠し置いたのをひっくり返し掘り返し食ったのだ。そばを立って食ったことはあるが、納豆を立って食ったのははじめてだ。悪くない。

 しかしなぜ、出番の日の朝には必ず食っている納豆なんてもんを明け番の日にまで食っちまうのか。食わねばならんのか。理由は簡単だ。冷蔵庫を開けてそこに納豆があるとね、ああ、脳みそがその存在の中に吸い込まれていくのだよ。もうこうなると食わずにはいられない。全部吸い込まれてしまう前に。

 そう。俺はデンゼルワシントンの「ザ・ハリケーン」は以前にも見たことがあるのだ。しかし「いや!見たいみたいとは思ってて、やっと見たんだ!」などと妻に放言してしまった。あのスキンヘッドの裁判官(’02年没、合掌)が出てきた時にさえ、ああ、何か他の映画でもこんなふうな素晴らしい裁判官をやっててっけな、などとしみじみ微笑んで見ていたのだ。

 他の映画じゃない!この映画なのだ!妻はきっとその言葉は飲み込んだのだ。

 ああ、俺の脳みそは納豆に吸われていたのだ。毎朝毎朝俺に食われているような顔をしながら実はチューチューチューチュー俺のほうが吸われていたのだ。

 ああ、くだらない。こんなことを書くつもりはなかった。

 なぜ、きのうも食った納豆を俺は食いたくなるのか。これほどまでに食いたくなるのか。しかしそれにしてもうまかった。テーブルの前に座らずに立ったまま、すなわちスタンディングオベーション納豆。ブルース・スプリングスティーンを見ながらロックンロール納豆。視線の高さは外の、向かい側の駐車場の屋上だ。ああ、うまかった。

 よし、二膳目はお茶漬けだ!誰が何と言おうと二膳目を食うし、お茶漬けを食うのだ。誰も何にも言わんだろうが。

こんにちわ、もはやすっかり持病となったぎっくり腰真っ最中のizumisawaです。

いやあ、今回は長いなあ。しかもつい十分ほど前にもまた、掃除しようとして座椅子を持ち上げたら、その瞬間、グワッ!!ときた。

しつこいぞ、ぎっくり腰。たかがぎっくり腰野郎め。されどぎっくり腰野郎め。

しかしそんな腰でもプールに入れば楽チン楽チンなんだもんね、水に入っちゃえば関係ないんだもんね、いつもプールで直しちゃうんだもんね、ということでプールへ。ところが今回はどうしたことか!?泳ぎながらも腰のあたりがギスギス言っている。

しゃあねえなあとノルマの一キロを終えた後、歩き出した。いわゆる水中ウォーキング。これがあんがいくる。三往復もすると体が火照ってくるのだ。まあ、それ以前に充分泳いでいたからということもあるんだろうが。

十分も歩いたら、腰にだいぶスムースな感じが戻ってきた。おお、おお、いいぞいいぞ。

しかし座椅子を持ち上げたら……。

しつこいぞ、ぎっくり腰!たかがぎっくり腰!されどぎっくり腰!

ああ、あしたもマニュアル車乗務。

今さら言うのもバカバカしいのですが、このブログで書かれている

「〈創作〉おいおいおい」は我が人生と大いにダブらせてはいるものの

まったくのフィクションで実在の人物とはまったく関連ありませぬ、ので

そのへんご了承の上読んでね。

あしからず。

 トモイチと出会って間もない頃に言われた言葉がある。言った本人が忘れても、忘れたフリをしてスッとぼけてもかまわない。かえって忘れていてくれたほうがいいかもしれない。事実的にも記憶的にも、もうとっくにどうでもいい事実であり、記憶なのだ。

 肝心なのは、俺にとっては一生忘れられない言葉であり、忘れちゃならない言葉であり、ということだけなのだ。言われた、それだけでいい、そこにたしかに存在した、と俺だけが覚えていればいい言葉。

 部屋にはまだ別れる前の最初の妻がいた。ギターを抱えたトモイチ。そしてぼんやりした俺。話の脈絡がどこかでどうにかなって、トモイチは言った。

 「おれ、史塚さん、好きだよ」

 幼い言葉だ。まるで幼稚園児だ。その時はそう思った。俺はひとりで頬をほてらせた。部屋には奇妙な沈黙が流れた。言った当人だけはあっけらかんとしてギターを抱いていた。

 たびたび繰り返した俺の裏切りでトモイチが離れていってしまい、すでに友達でも何でもなくなっていたら、それは単なる「幼稚園児のような言葉」になってしまっていた。しかしそれから二十年、さんざんイヤな思いをさせられておきながら、いまだにやつは友達だ。俺は学ばないわけにはいかない。やつが、トモイチという存在が――無意識に、時には意識的に――俺に学ばせようとしているままに。

 父親の唯一の思い出は「蹴飛ばされたこと」。父親の分までと気張った母親に教えられたのは「有利に生きていくにはどうしたらいいか」。そんな殺風景な背景しか持たなかった俺はきっと、誰かに言われなくてはならなかったのだ。いや、俺だけじゃない。誰もが誰かに言われなくてはならない言葉なのだ。

 好きだよ。

 俺に関しては、それを言ってくれたのはトモイチだった。

 とても俺には言えない言葉だ。今の俺には、誰にも。世の中は、これを言うべき人間と言われるべき人間と、そのふた通りに分れているのかもしれない。

 俺はイヤなガキだった。本当にイヤなガキだった。

 週に一回だけ帰ってくる父親。その男から夕方、母親に電話がかかってくる。電話を変わってもらう。

 「おみやげはぁ!?」

 「ああ、わかってるわかってる!」

 しかし帰ってきた父親の手にはケーキしかない。俺にとっては食べればなくなるケーキなど「おみやげ」のうちには入らない。その手には野球盤とかゲームとかがないとダメなのだ。

 たぶんその日もケーキがお土産だったのだと思う。俺はぐずぐずとすね続けていた。父親の目をまともに見ようともせずに、ただひたすら、あーあ、ケーキかあ、ケーキかあ、という調子。するといきなりテーブルの下から伸びてきたものがあった。父親の足だった。蹴られたのだ。

 実は、これが俺の頭に残っている父親――山本博の唯一の生々しい記憶だ。あとは断片的に声や匂いなどを覚えているぐらいだ。ある日突然犬を連れてきたこと。子犬にはでかすぎる犬小屋を部下に作らせていたこと。左利きのグローブを買ってきてくれたこと。右利きよりは左利きのほうが重宝されるんだぞ、というようなことを言われたこと。どれも記憶としては残っているが、映像として残っているのは蹴られた時のことだけだ。唯一の思い出。中学、高校といろんな意識が芽生えてこればそれなりにいろんな話題を話したりできたのかもしれない。しかし小学四年の三学期に入ってすぐの頃、父親は鬼籍の人となった。蹴られたという思い出だけを残して。

 おみやげを買ってきてくれる人、という役割は父親の死後、母親に受け継がれた。父親ほどの収入を得られないのはわかっていたからさすがにそうたびたび何かを買ってもらえるとは思ってはいなかったが、特別に何かが欲しくなるとそれをすかさず口に出した。ファーストミット、バット、ヘルメットといった野球用具をどうしても必要なものとして母親に申告した。すぐに買ってやるとためにならない、そんな考えもあったようで即座に買ってくるということはしなかったが、母親は一週間から一ヶ月以内にはそれらを俺に与えた。

 この家で唯一の男なのだから、そんな言葉も聞いたように思うけれど、母親が俺に何よりも求めたのは成績を上げることだった。そのために中学二年では家庭教師もつけられた。その頃には母親は自分で店をやっており、週二回、俺に家庭教師をつけられるほどの収入を得ていた。

 その他に母親が俺に求めたのは見てくれだったかもしれない。野球部に入りたい、そのためには頭を刈らなければならない、と言った俺に母親の言った言葉はこうだった。

 「その頭で?やめときなさい」

 俺の頭はいびつだ。いわゆる、絶壁。しかも左側が目に見えてへこんでいる。

 「その頭で坊主刈りはやめなさい」

 イヤなガキには根性も意地もなかった。

 「そうだよね、やめとく」

 野球部などに入れば厳しい練習が待ちかまえている。心のどこかにそんな部活動に飛び込んでいくことに臆する気持ちが潜んでいた。母親の、今にして思えば子供を阻害する言葉に俺はここぞと飛びついたのだ。

 父性というものと無縁なガキの人生はそして、5才も年下の友人にそれを見つけるまでどんどん続いていった。「イヤなガキ」から「目つきの悪い青年」へとその姿を変えながら。

 人とのつきあいなんてものはわからないもので、などとはよく言うけれど俺のそれは人間性をてきめんに反映して実にまったく予測がつかない。この人とは一生モンになりそうだ!などと勢い込んだつきあいほどあっけなく消滅してしまう。はじめの思い込みが強ければ強いほど最後の衝突は激しい。

 まったく逆なのがトモイチとのつきあいだった。

 ブラウン・フェイスというバンドの素晴らしさ。そのバンドのボーカルとしてどこか純粋な光さえ感じさせる存在感。そんな一種まぶしささえ感じさせる男はしかも5才も年下で、長いつきあいになりそうだなどという感慨とはほど遠いところにあったのだ。

 このつきあいははじめ、決して太くはなかった。が、細くもならずになんとはなしに続いていた。そして知り合って二年ほど経った頃、あっちがこっちのアパートに転がり込んでくるという事態に至ったのだった。

 やつは大学生活を一年延長させていた。同時にアルバイトも仙台でやっていた。福島と仙台の中間地点にある自宅から通っている限り勉強もアルバイトもおぼつかないと判断したのかもしれなかった。

 五才年上の社会人の独身男の部屋に居候する。男同士で共同生活をする。それ自体はたいしたことではない。それぞれが勝手に動いていればそれですむことだった。しかし俺にとってそれは、あらかじめよそくされたことだったが、やはり「たいしたことじゃない」ですませられるものにはならなかった。

 俺の生活には、10才からトモイチが転がり込んでくる日まで男というものが存在しなかった。十才以前にしたって、父親は週に一度訪れるだけだった。母親と妹、そして一年ほど前に決別した最初の妻、女性としか暮らしを共にしたことがなかったのだ。俺は男が苦手だった。自分も男であるくせに、変な言い方になるが、男というものを知らなかったのだ。

 どんなふうに接したらいいのか、わからなかった。いくらお互いの興味が音楽に集中しているからと言ってアパートで毎日ギターを鳴らし続けるわけにもいかない。音楽に対する集中も続かない。トモイチは集中し続けられたのかもしれないが、俺はのんびりしていたいだけの時もあった。お互いのんびりしていればいいんだが、そこにある男の空気が俺を苛立たせた。

 トモイチは日がたつにつれて苦手だった猫――ターニャにも慣れていったが、俺はトモイチの発散する空気にまったく慣れることができなかった。居候させて三ヶ月ほど過ぎた頃、

 「そろそろ出て行ってくれないか」

 と俺は言った。

 「ああ……、わかった」

 とトモイチは二つ返事で答えた。

 今では、俺は「トモイチの空気」ではなくただ単に「男の空気」に苛立っていたのだと言うことができるが、その時は、自分はトモイチを受け入れられないんだ、と思いこんだ。ひとつの亀裂なんだ、と思いこんだ。友達として失格だ、と自分を責めた。俺の求める空気を察してくれないトモイチを責めた。

 しかしそのあともトモイチは自分の活動範囲の中から俺を閉め出さなかった。俺が歌い、やつがバックでギターを決めまくるという形のバンドも存続し続けた。

 まったくギターを持たなくなってしまった俺を察知するとやつはそんな俺を歌の中で責めた。何より俺を責めたのはそのことだった。しかしほかのことでは決してやつは俺を責めなかった。一人の人間として、自分の中に俺を住まわせ続けた。

 男同士の友達なんてそんなもんだろう、と当たり前のように言う人がいるかもしれない。しかし俺には奇跡のようにしか思えない。まるで何かを俺に教えようとしているかのようだ。そんなふうに感じる。まるで、父親が息子に大事なことを教えるように。

 大学の軽音楽サークルの仲間たちとブラウン・フェイスというバンドをやっていたトモイチは当時大学二年で俺は25才だった。25才で最初の結婚一年目だった。

 コンサートの打ち合わせで会ったり、連絡の電話でのやりとりをしたりはほとんどギターの甲斐くんとのあいだで行われていた。甲斐くんはアパートも近かったので一緒に飲んだりすることもあった。そんなこんなでブラウン・フェイスのメンバーでまず打ち解けたのは甲斐くんのほうだったけれど、トモイチもそのうち、当時仙台駅から歩いて十分程度という所に居をかまえていた我が家へ遊びに来るようになった。

 俺は歩いて5分の印刷所で写植を打って働いていた。写植はとにかく残業の多い仕事で、俺がいない家にトモイチがあがりこんで当時の妻にギターを弾いて聞かせているなんて状況も多々あった。

 はじめのうちはそれほど気にかけてもいなかったが、たびたび同じことが続くのでそのうち俺は本性を現してしまった。

 「俺が帰ってない時は上がらないでくれないかな」

 面と向かってそう言ったのだ。

 驚いた様子も見せずにトモイチは、

 「ああ、わかった」

 と言った。

 俺とトモイチの「育ちの違い」を明らかにした、まずひとつめのできごとだった。

 俺がトモイチにした「ひどいこと」のひとつめ、でもあった。

 それから一年後、最初の結婚生活を終わらせた。終わるべくして終わった暮らしだった。あっという間に退場していく最初の妻のことについてはまずは何も書くこともないので、これでまずはおさらば。

 後に残った一匹の黒猫、ターニャについては少し書かねばならないかもしれない。

 気がつくと俺はとあるデパートでエレベーターに乗らなければならない状況に置かれていて、目の前にあるのはいつものそのエレベーターなのだ。

 どうか、うまく降りられますようにと祈りながらちょっと大き目の箱に俺は乗り込む。しかしいつもそれは落ちる。

 デパートは今はもうない、むかし存在したデパートである。というかデパート自体は名を変え店を変え続いているのだが、いつもの夢で出てくるのは名を変えたり店を変えたりする前の、その場所に根を下ろした最初のデパートなのである。

 いつのまにかその昔なつかしいデパートに俺はいて、うぐぐどうしてもエレベーターに乗らなければならない!という状況にいたっていて、はて気がつくとそのエレベーターしか使えないことになってしまっているのだ。

 そして止まるべきところで止まらずに、落ちる。

 今はもう見なくなったが昔はよく見た、という夢が俺にはなぜかたくさんあって、そのうちのひとつがこのエレベーターの夢。思い出すだけでぞっとするが、とにかく俺は殺されはしなかった。

 五月初めのこの街の川べりには菜の花が咲き誇っている。そこいらじゅう一面というほどではないが、視界のほとんどが黄色に染まったように、歩いていると感じる。悪い気分ではない。

 青空の下、アスファルトの遊歩道には干からびたミミズや草むらから出てきたはよいがどっちに行こうかと迷ったままの太った毛虫たちがちらほらと視界に紛れ込んでくる。あまりいい気分ではないが、歩きなれた道である、そんな光景にも慣れてしまった。土いじりが好きなくせに虫の苦手な妻だったらきっと耐え切れないんだろうが。

 妻は一度だけこの川べり歩きに付き合ってくれたことがあった。しかしもともとが体を動かすのを億劫がる妻である、4キロほどのぶらぶら歩きに二度と付き合うことはなかった。冬の終わりごろなどに一緒に歩けば枯草の影から姿を現すふきのとうやらタラの芽やら、彼女も好きな山菜をいくらも摘めるだろうに。俺など目の前にそれを突き出されてもそれがふきのとうなのかそこらへんのただの草なのかさっぱりわからない。

 ふがふがスズキによって粉砕された心をふたたびひとつにまとめ、目の前の黄色い景色にこうして遊ばせているのは紛れもなくトモイチの声だった。こいつと出会ったのはもう20年前だ。コンサートの控え室をうろうろしていた俺をつかまえ、椅子に腰掛けたままこう言った。

 「これ書いたの史塚さんすか?」

 初対面である。どうもはじめましても何もなくいきなりこうきたのだ。しかしなぜか不快ではなかった。

 眼下から白目と黒目がはっきりした大きな目で見られ、こいつがヴォーカルかと思いつつ答えた。

 「うん」

 「ストーンズはやっぱりベガーズバンケットだよね」

 自ら主催したアマチュア・コンサート用のビラに俺がローリング・ストーンズで一番素晴らしいのは「レット・イット・ブリード」だと書いていた。それを読んだギョロ目野郎が初対面の開口一番、真っ向から否定してくれたのだった。

ここんところすっかり情緒的書き殴り駄創作文コーナーとなっているこのブログと言うか日記と言うかなのだが、小休止。とは言っても別に書くこともなし。と言うことで日々の小さな疑問をひとつ。


布団から出るほこりは、あれは一体いつの間に、どこから入り込んでいるのだろうか!?


叩けば叩くほど疑問がつのる!


まさか寝ている人間の体からじんわりじんわり移動しているのだろうか?

だったらいくら叩いても叩き足りないというのもわかるような気もするが……なんてバカなことを言っていると誰も相手にしてくれなくなるぞ。

現実的物理的に、な~んだ、それはね、と教えてくれる人を募集!