大学4年生で理論物理系の研究室に配属された。
4年生の研究テーマは,有名な雑誌の論文を読んで,論文の計算式や数値計算結果を再現させて,自分なりに理解するというものであった。端的に言えば,研究のモノマネである。
僕に与えられた論文は,結晶の温度を格子振動(原子の位置がゆれていること)と電子(原子の中に存在する負の電荷をもった雲のようなもの)に分割して,熱伝導方程式を解くことによって,格子振動から電子へ,あるいは電子から格子振動への熱の伝わりを理論的に調べたというものだった。
まず,最初に格子振動の温度と電子の温度の2種類の温度についての2種類の熱伝導方程式を数値計算で解く必要があった。
2種類の熱伝導方程式は,それぞれ時間に関する1階の微分方程式であるため,ルンゲ・クッタ法で解くことができると思った。
少しだけ複雑なのは,連立微分方程式にルンゲ・クッタ法をどのように適用するかという点だけだった。
でも,高校の数値情報処理の授業で連立微分方程式を解くFORTRANのプログラムを作ったことがあったので,論文を渡された翌日には,研究室の共用PCを使って,論文の中に図で示されている格子振動の温度と電子の温度の時間変化のグラフを再現することができた。
さっそく,計算結果の図を助教授に見せたところ,
「もうできたのか!」
と驚いていた。
僕は論文のグラフを再現できたことに有頂天であったが,いまから考えると,2種類の熱伝導方程式をどのように作ったのか,あるいは論文に書いてある熱伝導方程式ははたして正しいのかといった深い考察が皆無であったことに気付かされる。
実際のところ,僕は卒業研究よりも,8月に控えている大学院入試,通称,院試(いんし)のことで頭がいっぱいであり,それどころではなかった。
院試は大学院に入学するための試験であり,僕のいた学科では,数学解析,物理,応用物理Ⅰ,応用物理Ⅱ,英語が筆記試験の試験科目であった。
筆記試験の翌日に面接試験があった。
研究室には過去の先輩たちが,紙に書き写した院試の過去の試験問題がたくさん転がっていた。
数学解析は非常に簡単な問題であり,試験勉強が不要であった。
物理は電磁気学でやや難解な問題もあったが,それでも7割は固い感じだった。
問題は専門科目である応用物理Ⅰと応用物理Ⅱだった。
ほとんどの問題が,実験方法や実験装置について,「****について知るところを述べよ」といった問題であり,暗記してなきゃ解けないため,試験勉強をする気が失せた。
僕のいる研究室ではB4,すなわち学部4年生が7人いた。
でも院試を受けるのは,金沢から来ていたサワダ,長崎から来ていたモリタ,下関から来ていたイワモト,それに僕と4人だけだった。豊中から来ていたイサヤマがレーザー研を受験し,大阪から来ていたシライシがリクルートに就職し,もう一人名前は忘れたが留年生がトウシバに就職するという話だった。
M1やM2の先輩がそれぞれ3人いたので,おのずと,この研究室の定員は3人だと推測できた。
つまりは,4人のうち3人が,いまいる研究室に合格するというわけだ。
受験までの期間,研究室では,ラウンジの黒板に数学の問題を出し合って,研究室みんなでその問題を解くというのが流行っていた。
数学が得意な僕はいつも問題を出す側であった。
ある日,指数関数と三角関数の積の積分の問題を出した。
これは院試レベルではなく,大学入試レベルの簡単な問題だ。
イワモトが,得意げにその積分の解答を黒板に書いた。
僕は,彼に,
「なぜこの問題を出したかというと,高校ではこの問題は部分積分という方法を2回繰り返すことによって解くんやけど,大学では三角関数の部分を複素数の入った指数関数に変形して,より簡単に解けるんや。」
と彼に説明した。
彼は,小ばかにされたと感じたのか,急に怒り出して,
「何か間違ってるちゅうんか?」
とわめきたてた。
僕は内心,
"典型的な受験勉強だけやってきたダメな人間だな"
と思って,Eulerの式を使った簡単な解き方を教えることをやめた。
大学に入って,唯一仲良くなったオガタとは研究室が異なっていたため,めったに会うことはなくなっていた。
オガタも院試を受けるのだが,希望する研究室は,オガタがいまいる実験系の研究室だった。
たまにオガタと廊下ですれ違うと,院試の勉強について話すことがあった。
オガタが,
「理論電磁気学でさ~。エーテルの話がでてくるわけよ,その概念がもう訳わかんなくってさ」
と僕に説明を始めた。
「いや,そんなところは院試に絶対,出えへんから,出そうな分野からやった方がええよ」
と半ばあきれ気味に答えた。
オガタは,
「そう?」
と言って笑っていた。
オガタはいいヤツだが,試験勉強の要領が悪そうに思えた。
3年生の時に少しだけ仲良くなった大阪の茨木から来ていたフジワラが院試を受けず,シャープに就職するという話を聞いた。
「うちは母子家庭で,浪人もさせてもらったから,働くしかないんや」
と寂しそうに語っていた。
シャープは平均年齢が30代前半であり,離職率が多いのでよくないんじゃないかというウワサが広がっていた。
ただ,僕の行っていた学科では,M2が就職で優先されるため,B4のフジワラはM2が誰も希望しなかったシャープを選んだとのことだった。
同じくM2から給料が安いとの理由で敬遠されているヒタチやトウシバもあったが,母子家庭で関西から離れるわけにはいかないとの話だった。
3年生の時に少しだけ仲良くなった大阪の堺から来ていたツクリミチが,スミセイに行くという話を聞いた。
スミセイを選んだのは,メーカより給料がいいのと大阪勤務であるからという理由だった。
そうこうしているうちに,院試の日がやってきた。
院試は,いつも通っている大学の教室でおこなわれるので,あまり緊張感がなかった。
数学解析と物理が例年以上に簡単で,僕はがっかりした。
たぶん,ほぼ100点だろうけど,他の人たちも高得点を取るように思えたからである。
応用物理は案の定,わからない問題ばかりで,適当な嘘っぱちの説明を殴り書きして終わった。
面接試験では,僕ら理論物理系の研究室の受験生は,いつものTシャツとジーパンといった服装で挑んだ。
他の研究室の受験生は,面接のときだけは黒のスーツを着こんで挑んでいた。
残念ながら,何を質問されたのか全く覚えていないが,日本育英会の奨学金が当たれば,もらうかどうかは聞かれたと思う。
僕は二つ返事でもらうと答えた。
合格発表は,いつも見る大学の掲示板にA4の紙が貼りつけてあるだけだった。
その前に3人も立たれると,後頭部のせいで貼り紙は全く見えなかった。
僕の隣にはオガタの姿もあり,合格者の受験番号を目をぱちくりさせて見ていた。
合格発表が終わった後,僕らは教授室に呼び出された。
面接での服装の話になり,
「面接試験のときだけスーツなんか着ても,何の意味もあらへん」
と言って教授は笑った。
教授から僕は,
「アンタは院試3番やったよ。明日からまた卒業研究をがんばりぃ」
と言われた。
同級生4人受験して,イワモトだけが僕らのいる研究室には合格せず,第2希望の産研の実験系の研究室に行くことになった。
当時,産研は各学科の院試を落ちた人のすべり止め的存在だった。
数日後,日本育英会の奨学金が当たったと知らせがあり,僕は学科の事務室に呼び出された。
僕の学科では院試の成績の上位15%に日本育英会の奨学金があたるという仕組みであり,僕の年は7人が当たった。
奨学金と言っても,タダでくれるわけではなく,月7万5千円貸してもらう無利子の借金であった。
したがって,大学院2年間では180万円の借金を背負うことになる。
僕はそれほどの巨額の借金を背負うことにためらいがあり,学科の掲示板に募集のあった企業の奨学金に目を付けた。
トウレの奨学金は月15万円無償でもらえるので,日本育英会とトウレの両方の奨学金をもらいたいと考えたのだ。
しかも,会社の奨学金をもらっていれば,M2のときに就職活動する必要がなく,そのまま就職すればよいので気が楽だとも考えた。
そのため,研究室の教授にトウレの奨学金の推薦書を書いてもらえるように頼みに行った。
すると,教授は烈火のごとく怒りだし,
「企業の奨学金は育英会に当たらなかった者のためのもので,君は育英会に当たっとるやないか!」
「いままで,そんなことを言い出した欲深い学生は一人もいなかった。さっさと出て行け!」
と怒鳴られた。
僕は日本育英会の奨学金だけで我慢することとなった。
しばらくして,オガタが教授の力でダイニッポンスクリーンに就職することになったと聞いた。
また,同志社から2名の受験があり,1名だけ合格して入学してくるという話も聞いた。
とにかく,B4の最大のイベントである院試が終わった。