むかし日記

むかし日記

僕の古い日記です。

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大学4年生で理論物理系の研究室に配属された。
4年生の研究テーマは,有名な雑誌の論文を読んで,論文の計算式や数値計算結果を再現させて,自分なりに理解するというものであった。端的に言えば,研究のモノマネである。

僕に与えられた論文は,結晶の温度を格子振動(原子の位置がゆれていること)と電子(原子の中に存在する負の電荷をもった雲のようなもの)に分割して,熱伝導方程式を解くことによって,格子振動から電子へ,あるいは電子から格子振動への熱の伝わりを理論的に調べたというものだった。
まず,最初に格子振動の温度と電子の温度の2種類の温度についての2種類の熱伝導方程式を数値計算で解く必要があった。
2種類の熱伝導方程式は,それぞれ時間に関する1階の微分方程式であるため,ルンゲ・クッタ法で解くことができると思った。
少しだけ複雑なのは,連立微分方程式にルンゲ・クッタ法をどのように適用するかという点だけだった。
でも,高校の数値情報処理の授業で連立微分方程式を解くFORTRANのプログラムを作ったことがあったので,論文を渡された翌日には,研究室の共用PCを使って,論文の中に図で示されている格子振動の温度と電子の温度の時間変化のグラフを再現することができた。
さっそく,計算結果の図を助教授に見せたところ,
「もうできたのか!」
と驚いていた。
僕は論文のグラフを再現できたことに有頂天であったが,いまから考えると,2種類の熱伝導方程式をどのように作ったのか,あるいは論文に書いてある熱伝導方程式ははたして正しいのかといった深い考察が皆無であったことに気付かされる。
実際のところ,僕は卒業研究よりも,8月に控えている大学院入試,通称,院試(いんし)のことで頭がいっぱいであり,それどころではなかった。

院試は大学院に入学するための試験であり,僕のいた学科では,数学解析,物理,応用物理Ⅰ,応用物理Ⅱ,英語が筆記試験の試験科目であった。
筆記試験の翌日に面接試験があった。

研究室には過去の先輩たちが,紙に書き写した院試の過去の試験問題がたくさん転がっていた。
数学解析は非常に簡単な問題であり,試験勉強が不要であった。
物理は電磁気学でやや難解な問題もあったが,それでも7割は固い感じだった。
問題は専門科目である応用物理Ⅰと応用物理Ⅱだった。
ほとんどの問題が,実験方法や実験装置について,「****について知るところを述べよ」といった問題であり,暗記してなきゃ解けないため,試験勉強をする気が失せた。

僕のいる研究室ではB4,すなわち学部4年生が7人いた。
でも院試を受けるのは,金沢から来ていたサワダ,長崎から来ていたモリタ,下関から来ていたイワモト,それに僕と4人だけだった。豊中から来ていたイサヤマがレーザー研を受験し,大阪から来ていたシライシがリクルートに就職し,もう一人名前は忘れたが留年生がトウシバに就職するという話だった。
M1やM2の先輩がそれぞれ3人いたので,おのずと,この研究室の定員は3人だと推測できた。
つまりは,4人のうち3人が,いまいる研究室に合格するというわけだ。

受験までの期間,研究室では,ラウンジの黒板に数学の問題を出し合って,研究室みんなでその問題を解くというのが流行っていた。
数学が得意な僕はいつも問題を出す側であった。
ある日,指数関数と三角関数の積の積分の問題を出した。
これは院試レベルではなく,大学入試レベルの簡単な問題だ。
イワモトが,得意げにその積分の解答を黒板に書いた。
僕は,彼に,
「なぜこの問題を出したかというと,高校ではこの問題は部分積分という方法を2回繰り返すことによって解くんやけど,大学では三角関数の部分を複素数の入った指数関数に変形して,より簡単に解けるんや。」
と彼に説明した。
彼は,小ばかにされたと感じたのか,急に怒り出して,
「何か間違ってるちゅうんか?」
とわめきたてた。
僕は内心,
"典型的な受験勉強だけやってきたダメな人間だな"
と思って,Eulerの式を使った簡単な解き方を教えることをやめた。

大学に入って,唯一仲良くなったオガタとは研究室が異なっていたため,めったに会うことはなくなっていた。
オガタも院試を受けるのだが,希望する研究室は,オガタがいまいる実験系の研究室だった。
たまにオガタと廊下ですれ違うと,院試の勉強について話すことがあった。
オガタが,
「理論電磁気学でさ~。エーテルの話がでてくるわけよ,その概念がもう訳わかんなくってさ」
と僕に説明を始めた。
「いや,そんなところは院試に絶対,出えへんから,出そうな分野からやった方がええよ」
と半ばあきれ気味に答えた。
オガタは,
「そう?」
と言って笑っていた。
オガタはいいヤツだが,試験勉強の要領が悪そうに思えた。

3年生の時に少しだけ仲良くなった大阪の茨木から来ていたフジワラが院試を受けず,シャープに就職するという話を聞いた。
「うちは母子家庭で,浪人もさせてもらったから,働くしかないんや」
と寂しそうに語っていた。
シャープは平均年齢が30代前半であり,離職率が多いのでよくないんじゃないかというウワサが広がっていた。
ただ,僕の行っていた学科では,M2が就職で優先されるため,B4のフジワラはM2が誰も希望しなかったシャープを選んだとのことだった。
同じくM2から給料が安いとの理由で敬遠されているヒタチやトウシバもあったが,母子家庭で関西から離れるわけにはいかないとの話だった。
3年生の時に少しだけ仲良くなった大阪の堺から来ていたツクリミチが,スミセイに行くという話を聞いた。

スミセイを選んだのは,メーカより給料がいいのと大阪勤務であるからという理由だった。

そうこうしているうちに,院試の日がやってきた。
院試は,いつも通っている大学の教室でおこなわれるので,あまり緊張感がなかった。
数学解析と物理が例年以上に簡単で,僕はがっかりした。
たぶん,ほぼ100点だろうけど,他の人たちも高得点を取るように思えたからである。
応用物理は案の定,わからない問題ばかりで,適当な嘘っぱちの説明を殴り書きして終わった。

面接試験では,僕ら理論物理系の研究室の受験生は,いつものTシャツとジーパンといった服装で挑んだ。
他の研究室の受験生は,面接のときだけは黒のスーツを着こんで挑んでいた。
残念ながら,何を質問されたのか全く覚えていないが,日本育英会の奨学金が当たれば,もらうかどうかは聞かれたと思う。
僕は二つ返事でもらうと答えた。

合格発表は,いつも見る大学の掲示板にA4の紙が貼りつけてあるだけだった。
その前に3人も立たれると,後頭部のせいで貼り紙は全く見えなかった。
僕の隣にはオガタの姿もあり,合格者の受験番号を目をぱちくりさせて見ていた。

合格発表が終わった後,僕らは教授室に呼び出された。
面接での服装の話になり,
「面接試験のときだけスーツなんか着ても,何の意味もあらへん」
と言って教授は笑った。
教授から僕は,
「アンタは院試3番やったよ。明日からまた卒業研究をがんばりぃ」
と言われた。
同級生4人受験して,イワモトだけが僕らのいる研究室には合格せず,第2希望の産研の実験系の研究室に行くことになった。
当時,産研は各学科の院試を落ちた人のすべり止め的存在だった。

数日後,日本育英会の奨学金が当たったと知らせがあり,僕は学科の事務室に呼び出された。
僕の学科では院試の成績の上位15%に日本育英会の奨学金があたるという仕組みであり,僕の年は7人が当たった。
奨学金と言っても,タダでくれるわけではなく,月7万5千円貸してもらう無利子の借金であった。
したがって,大学院2年間では180万円の借金を背負うことになる。

僕はそれほどの巨額の借金を背負うことにためらいがあり,学科の掲示板に募集のあった企業の奨学金に目を付けた。
トウレの奨学金は月15万円無償でもらえるので,日本育英会とトウレの両方の奨学金をもらいたいと考えたのだ。
しかも,会社の奨学金をもらっていれば,M2のときに就職活動する必要がなく,そのまま就職すればよいので気が楽だとも考えた。
そのため,研究室の教授にトウレの奨学金の推薦書を書いてもらえるように頼みに行った。
すると,教授は烈火のごとく怒りだし,
「企業の奨学金は育英会に当たらなかった者のためのもので,君は育英会に当たっとるやないか!」
「いままで,そんなことを言い出した欲深い学生は一人もいなかった。さっさと出て行け!」
と怒鳴られた。
僕は日本育英会の奨学金だけで我慢することとなった。

しばらくして,オガタが教授の力でダイニッポンスクリーンに就職することになったと聞いた。
また,同志社から2名の受験があり,1名だけ合格して入学してくるという話も聞いた。

とにかく,B4の最大のイベントである院試が終わった。

 

 

 

大学の研究室では,休みがほとんどなく,年末年始でさえ,元旦の1日と2日だけが休みというありさまだった。

ただ,8月には2日間の夏休みがあり,その2日間は教授を除いた研究室全員で,泊りがけの海水浴に行くのが恒例行事であった。

僕がB4のときには,福井の海水浴場に行くことになった。

宿泊先は民宿であり,研究室全員,20人弱が大部屋に雑魚寝で寝る感じだった。

僕らB4は,スイカ割りのスイカや花火の買い出しがあるため,みんなより先に福井に向かって出発した。

B4は全員で7人いたので,サワダともう一人(名前は忘れてしまったが,リクルートに就職したヤツ)が車を出すことになった。

僕は行きはもう一人の人の車に,帰りにはサワダの車に乗せてもらった。

 

先に着いた僕らは,先輩たちが来るのを待った。

そして,晩御飯は民宿で大量の刺身を食べた。

新鮮な魚だと言っていたが,少し生臭かった。

食後は,スイカ割り,花火大会となった。

ちょうど,僕らの研究室が花火大会をやっている近くで,大学の部活のグループも花火大会をしていた。

部活のグループは僕らと違って,女子もいて,何となく華やかであった。

花火大会が終わると,民宿に戻って,研究室のラウンジでだべっているとの同じように,お酒を飲みながら,みんなでワイワイ雑談となった。

一応,テレビがついていたが,テレビを見る者はいなかった。

 

12時を過ぎたころであろう,「19XX」という昔の音楽を垂れ流す番組が始まった。

「19XX」の最後に,何か野外のライブの映像が映し出された。

観客が”ギャーギャー”わめきたて,その歌手も絶叫していた。

よしだたくろうが「人間なんて」を歌っていたのだ。

たくろうと観客の一種異様な興奮状態が延々,続いていた。

ヨシダタクロウのことは,フォークのプリンスということで何となく知っていたが,初めてライブ映像を見た。

鉢巻をして,絶叫している姿は,どう見てもフォークという感じではなかった。

 

翌日,僕はサワダの車に乗せてもらって,大阪に帰ることになった。

途中で,天橋立に立ち寄ることになって,初めて天橋立に行った。

股ぐらから眺めるなんてバカバカしいなと思って,普通に眺めていたことを憶えている。

そして,閑散とした遊園地まがいのところも立ち寄り,ジェットコースターに乗った。

 

初めての研究室旅行は,結構,楽しかった。

 

 

 

僕の入学した大学の学科には女子学生が一人いた。

東京から関西に進学してきた人で,ヒライさんと言った。
同級生の話によると,もう一人,休学している女子がいるとの話だった。
彼女は45人くらいいるクラスで最大な派閥,つまりは,大阪出身者の派閥の中心にいた。

ある日,講義が終わり,いつものように下宿のある箕面に向かって心臓破りの急な坂道を自転車を押しながら歩いていた。
すると,坂道の後ろから僕を呼ぶ声がした。
振り返ると,ヒライさんであった。
彼女も同じ箕面方面に住んでいるようだった。
彼女は饒舌な感じで,僕に好きな音楽とか,趣味の話を聞いてきた。
僕は,
「ナガブチツヨシやサダマサシとかのフォークソングが好きだ」
と言うと,
「高校の頃,先輩にナガブチツヨシのCDを借りたことがあって,あ~いしてるよ おほほほっていうのをよく聞いてたよ」
と言った。
「あ~ジダイハボクラニアメヲフラシテルのCDやね」
と僕は答えた。
「漫画はブッダとかアドルフニツグとかテヅカオサムの作品が好きだ」
と言うと,
「ブッダは先輩から教養として読んでおいた方がいいって言われて,読んだよ」
と彼女は語った。
僕は彼女との会話に少し息苦しさを覚えた。
この人は何かと言えば,先輩からということを口にするんだなという,自分の好みってもんがないのかねっていう感じ。
高校の頃,先輩はおろか,同級生とも断絶していた僕には,かなり彼女と相容れないものであった。
「雨の日は,くせ毛なので,髪がゴワゴワしてセットが大変なのよね」
と僕がまるで興味のない話をひとり言のように彼女は話した。
そして,彼女は自分のアパートがあそこだと場所を教えてくれた。
どうやら,女子学生のみのアパートらしい。
僕は特に興味もなかったので,
「へぇ~」
と答えるのみだった。

数日して,研究室にいた僕のところにヒライさんはやってきた。
彼女は僕がいつ頃,家に帰るのかを聞いてきた。
ちょうど帰るところだった僕は,また彼女といっしょに急な坂道を自転車を押しながら登った。
どうやら,不審な男が彼女の後をつけているような気がするので,これからできれば一緒に帰って欲しいというようなことを彼女は言った。
僕はまた彼女といっしょに下宿に帰った。
今度はほとんど講義の話だった。
別れ際に,
「よかったら,ナガブチのCD聞いてみる?」
と僕は言った。
彼女は貸して欲しいと答えた。
次の日,ナガブチツヨシのジダイハボクラニアメヲフラシテルのCDを彼女に貸した。

その後も,彼女は僕の研究室にいっしょに帰らないかと尋ねてきた。
彼女は悪い人ではないが,やはり相容れないものがあると感じていたので,
「研究があるので,いつ帰るかその日にならないとわからないし・・・」
と言葉を濁した。
彼女は,
「そうだよね」
と僕の言葉に納得したようであった。
以降,彼女が僕の研究室に尋ねてくることはなかった。

それから,数週間が過ぎても,彼女に貸したCDはなかなか僕のもとに返ってこなかった。
CDなんて,MDにダビングするのは30分もかからないのに,なかなかCDを返さない彼女に苛立ちを覚えた。
3か月くらいたった頃,研究室の僕の机の上に貸したCDといっしょにお菓子が置かれていた。

僕は中学の頃,クラスの女子にアダチミツルのミユキやタッチの単行本を貸して,なかなか返してくれなかったことが思い出された。
やっぱり,女子に漫画やCDを貸すもんじゃないなという思いを強くしたのだった。

 

 

 

僕は無事に大学3年生までに取るべき単位を取得し,めでたく4年生に進級した。
僕が配属された研究室は,希望していた理論物理の研究室であった。

理論物理の研究室は,例年,ブレインと称される成績上位者が配属されているという話であったが,僕らの学年ではあまり人気がなく,希望すれば配属されたようだ。
配属されたのは,留年生1名を入れて合計7名であった。
研究室は3階にあり,僕ら7人は奥にある教授室に通された。
教授は白髪で少し小太りの老人であった。
その老人は,ふかふかの椅子に座り,葉巻を吸っていた。
そして,僕らは一人一人は,自己紹介をさせられた。
周りには,助教授一人と助手二人が神妙な面持ちで控えていた。

僕は途中入学したことを告げると,教授は僕の話に興味を示した。
「就職する道もあったのに,なぜ大学に進学したのか?」
という面接試験のような質問を受けた。
「僕は数学が好きで,量子力学に興味を持ったので進学しました。」
と答えた。
教授は,
「君の学校では,数学はどんな教え方しとったんや?」
と質問した。
僕は,
「小学校のときのような数学ドリルがあって,微分せよ,不定積分せよ,定積分せよ,といった問題が各300問ほどあって,そういうのをひたすら解くような勉強です。」
と答えると,教授は,
「まるで発展途上国のような教育のやり方やな。発展途上国は,とにかく技術者を早急に量産する必要があるから,算術計算を身につけさせるためにひたすら問題集を解かせるんだ」
「そういう教育が,普通に大学受験して入った学生より算術ができるということか」
と感想を述べた。
教授の口ぶりから,どうやら,僕の数学解析の成績を知っているようであった。
そして,
「僕も算術計算は得意で,理学部の数学科に行ったが,あまりにも抽象的なので,嫌気をさして,理学部物理に行き直したんや」
と言っていた。
教授は工学部でやるような数学解析は,本当の意味で数学ではなく,ただの算術計算だ言っていた。
確かに,数学科でやるような数論や幾何学などと比べると,ほとんど理論的思考をともなわず,規則性だけを使って解を求めているだけだからであろう。
高校時代に数学が得意であったほとんど人間が,大学に入ると数学嫌いになるのだから,教授の言う算術計算すらできない理系が多いということだ。

帝国大学時代,つまり戦時中に数学科を卒業して,物理学科に行き直すってどんだけ,お金持ちなんやと僕は驚いた。
のちに,教授はお坊さんの息子で,お金で苦労したことがないと語っていたことを知って,納得した。

7人の面談が終わると,各自が指導を受ける教官が告げられた。
僕はカサイという助教授に付くことになった。
この助教授と後年,激しい確執をくり広げることになるのだが,そのときは露知らずであった。

次いで,研究の実務的な面倒を見てくれる博士課程と修士課程の先輩たちを紹介された。
そして,僕がこれから研究生活をおくる座席に案内された。
僕の座席は他の人と違い,2階の計算機室の隣にあるナカニシ助手の部屋であった。
ずんぐり太ってメガネをかけたナカニシさんは,一見気難しい人のように見えた。

その後,研究室の先輩との挨拶があった。
M1とM2がそれぞれ3人ずつ,D1が1人,D3がチェコからの留学生を入れて2人いた。
D1のミズノさんが僕とサワダのお世話係ということで,研究のことを相談するように言われた。

M1とM2が3人ずつということなので,院試でのこの研究室の定員が3名であると察しが付いた。
僕らB4が7人なので,全員がこの研究室を希望して院試を受けると,4人が落ちるということかと思った。

とりあえず,これから3年間の研究室生活の始まりであった。

 

 

 


大学3年生では電気回路の実験の講義があった。
4人が1つのグループになって課題に取り組むのだが,途中入学した僕は,ワタナベやワダというあいうえお順で最後の方の人と同じグループに入れられた。
僕ははんだこては使ったことがあったが,電子部品を組み立てるような細かい作業はやったことがなく,かなり手間取っていた。
すると,僕の机から少し離れたところにいる実験に手慣れた同級生と助教授がこちらの様子を伺っているのが見えた。
「ちょっと,苦手なようだから,プライド傷つけないように教えてあげてくれ」
とささやく先生の言葉が聞こえた。

その助教授は,学科主任の教授,つまりは面接試験で僕に質問していた面接官の研究室の人であった。
たぶん,途中入学の僕のことを学科主任の教授から聞いていたのであろう。
すると,その同級生がやってきて電子部品の組み立てを手伝ってくれた。

実験の講義も3回目くらいになった頃,実験室には手の遅い僕とオガタだけが居残っており,時間も夕方5時くらいになっていた。
オガタが晩御飯をいっしょに食べないかと誘ってきた。
僕はいつも一人で食べていたが,オガタと晩御飯を食べることになった。
夕方の学食は人がまばらだ。
僕とオガタは,人がほとんどいなくなってがらんとした学食で,せきを切ったように話した。
オガタは留年生で一浪していたので,2つ年上であった。
僕は,
「途中から大学に来ると,派閥ができていてなかなか入れないな」
と言うと,オガタは,
「そう,オレなんか留年生なので,まるで外国に来たみたいですよ。ちょっと話しかけてもシラーって眼で見られて・・・。ここはどこ?って感じですよ」
と答えた。
僕が,
「大学ってもうちょっと明るく楽しい感じだと思ったけど,どんよりした感じやな」
と言うと,オガタが,
「このウップンをどこかで晴らさないとやってられないでしょ」
と言ってきた。僕が,
「なんかサークルとか入りたいなあ」
と言うと,
「サークルは石橋にしかないから,吹田じゃ無理ですよ」
「それに,留年したオレが言うのもなんだけど,これだけ講義があったら,サークルなんて行けない。入んないほうがいいよ」
とオガタは反対した。
「そっかあ。ますます,どんよりだなあ」
とため息まじりの言葉を吐いた。

オガタは,親の仕事の関係であちこち引っ越ししており,高校は札幌の高校から来ていた。
当時,付き合っていた彼女といっしょに札幌の大学を受験したが,オガタだけ合格せず浪人した。
それで,再受験のときは彼女が一学年上にいる札幌の大学を受験せず,吹田の大学を受験して合格したそうだ。
大学に入ってからは音楽三昧で,講義に全く出席しなかったため,留年してしまったと照れたように笑った。

オガタとの話は,これまでのもやもやをスッキリさせてくれた。

はっきり言って,楽しかったんだ。

しばらくして,オガタは僕の下宿に遊びに来た。
そのとき,オガタがタバコを吸うことを初めて知った。
大学や学食ではタバコを吸っていなかったからだ。
オガタは,タバコの灰を入れる容器を持参していて,僕と話すときはその容器を片手に持ちながら,いつも風下に移動した。
僕にタバコの煙がいかないように。
オガタは,そういう配慮ができるヤツだったことを憶えている。

 

 

大学に入学して1か月ほどしたある日,途中入学した人だけの集まりがあった。

といっても,僕の学年が2期生なので,1つ上の学年と僕らの学年の2学年だけのこじんまりとした集まりだった。

 

その集まり,いわゆる飲み会に行くと,大阪出身の1つ上の学年の女子学生がいた。

どうやら,この女子の先輩が音頭をとって,今回の集まりを企画したようであった。

この女子の先輩は基礎工学部に入学したようで,基礎工学部は3年次に入学しても,単位が不足しているため留年することになると話していた。

京都の大学や名古屋の大学も3年次に入学しても,単位が不足しているため留年することになるとの話だった。東京の大学ははなっから,2年次入学なので,受験の時に留年を承知で受験するといった具合だ。

つまり,僕たち7名が入学した工学部が,留年することなしに卒業できる数少ない学部であることを知った。

やはり,僕はついていたのだ。

 

これは,さらに数年後知ることだが,就職の時に基礎工学部は理学部の扱いとなり,すなわち教授推薦がもらえないため,僕たち工学部に比べて,非常に苦労するということだった。

 

米国でも,理学部は科学を学ぶところ,工学部は,職業訓練学校という位置づけであり,就職や国家試験の受験の時に区別される。いうまでもないが,工学部という肩書は,就職の時に絶大な威力を発揮する。

僕がいった応用物理は,職業訓練学校である工学部でありながら,中身は科学をやるという,いかにも日本的な玉虫色のところだった。

学ぶことは興味のある量子力学や統計力学をやりながら,就職の時には職業訓練学校の仮面をかぶって,理学部や基礎工学部を後目に楽々と大企業に入るというわけである。

 

こういう非常に重要なことを高校生など受験生に全く知らされていないというのが,いかがなものかと思うが,そこが日本という国の特性なのだろう。

 

話はずいぶん横に逸れたが,その集まりで,久留米から電気工学科に入学したフジモト,鹿児島から電子情報機械に入学したクボ,大阪から材料工学に入学した***(名前を忘れた)の3名と共通した科目をとっているということで仲良くなった。

 

のちに材料工学に入学した***が言っていたが,彼は大阪の高校の電気工学科で席次が2番であり,この大学の電気工学科を第1希望で受験したが,合格せず,第2希望の材料工学に入学することになったということだ。

残念ながら彼は,久留米のフジモトに駆逐されたようだ。

電気工学科で席次が1番の者は京都の大学を受験し,合格したという話だった。

なお,大阪の高校では,電気工学科で席次が3番の者と工業化学で席次が1番の者が,この大学の応用物理を受験したらしい。

残念ながら,彼らは和歌山の田舎者に駆逐されたようだ。

 

その後,第2回の途中入学者の集まりがあるかなと思っていたが,どうやら女子学生が気分が乗らなかったのか,この会,1回限りで終わってしまった。

もともと専攻が違うし,接点もほとんどないので,こういう会は続かないわな。

僕は入学のため,3月下旬に大阪に出てきた。
住むことになったのは,豊津駅から歩いて10分くらいのところにあるボロアパートで,部屋代は5万円であった。
親の仕事の知り合いの息子が,吹田の大学院を修了して出ていくため,彼の後に入ることになった部屋だ。

そのアパートは,これまで住んでいた高校の寮とは大違いで,お風呂がなく,洗面台もなく,トイレの小さい手洗い場で歯磨きをするという感じだった。
寮のように3食750円というわけにはいかず,アパートから少し遠いが,豊津駅の隣駅の関大前駅から関大に続く飲食店で夕食を食べることになった。
お風呂はアパートから自転車で数分の所にあったが,毎日,風呂桶を持って風呂屋に行くのが結構,苦痛だった。
アパートの入り口は急な階段になっており,雨の日など自転車を上げ下げするのにも一苦労であった。
それでも,大阪に出てきた喜びで,そんな不便さはあまり苦にならなかった。

4月になって,大学3年生として通うことになった。
大学の学科ビルに入ると,何やら人だかりができていて,みんなしきりとメモを取っていた。
どうやら,掲示板に休講や講義の教室変更,試験についての情報が貼り出されており,それらをメモしているようだった。
僕はメモを取っていた同じ3年生らしき人に話しかけたが,無視された。
何となくイヤな感じだった。

どうやら,3年生にもなると派閥らしきものができていて,いくつかのグループで休憩時間に雑談をしているようであった。
知り合いのいない僕はそのグループを眺めるだけだった。

光学の講義で,光の光路を計算しなければならない宿題が出された。
こういう問題はプログラムを組めば,一撃で答えが出ることがわかった。
ところが,僕はパソコンを実家に置いてあったため,仕方なく,大学生協で2万円のポケコンを買った。
ポケコンはBASICでプログラムが組めるためだ。

さっそく,ポケコンで光路を計算するプログラムを組んで,結果を出した。
ポケコンだけでは結果を印刷することができなかったので,答えだけわかった状態で講義に出た。
クラスの中で,パソコンで計算した者がいて,みんなにその結果を披露していた。
彼が,僕がポケコンをいじくっているのを見て,話しかけてきた。
そして,僕が作った宿題を解くためのBASICのプログラムを見た。
「こういうの,できるんや」
と驚いていたことをいまも覚えている。

僕はその日の講義が終わって下宿に帰ると,試験勉強に明け暮れた。
それは,3年生で2年生と3年生に取るべき18科目の試験に合格,つまりは”可”以上の評価を受けなければならないためである。
試験勉強をしていると,部屋のドアを叩く音がした。
ドアを開けると,若い男女がいた。
真光の宗教の勧誘であった。

どうやら関大のサークルに,真光のサークルがあり,勧誘に来ているとのことだった。
体よく追い払ったが,またドアを叩く音がした。
今度は若い女子が,サークルの勧誘であるという。
部屋に上がらせて欲しいということで,その女子と後輩らしき男子の2人が部屋に入ってきた。
今度はキリスト教のサークル勧誘であった。

男子学生の方が,僕の机の上の教科書や学生証を見て,関大の学生でないと気づいた。
「関大生じゃなく,**大の人でしたか」
と急におじけづいた口調になり,
「トップ大学にも同じ系列サークルがあるので,そちらにでも入ってもらえればいいです」
と言って,彼らはそそくさと帰っていった。

すると,またドアを叩く音がした。
今度はドスの効いたおっさんの声であった。
出ると,ヤクザのような男が立っていた。
朝日新聞の勧誘だという。
そのおっさんはズケズケと部屋に入ってきて,
「にいちゃん,ここにハンコついてくれや!」
と脅してきた。

いまは勉強中なので,数日後に返事するということでそのおっさんを追い返した。
数日後,今度は同じような別のヤクザ風の男が部屋にやってきた。
今度は読売新聞の勧誘だという。
結局,読売新聞のヤクザに押し切られ,来月から3か月だけ読売新聞を取る契約にハンコを押した。

このようなサークルの勧誘や新聞の押し売りに嫌気がさした僕は,大阪に来て1週間もしないうちに引っ越しをする決心をした。

いつも北千里の駅まで一緒に帰る同級生がいた。
彼は長岡京から来ていたおとなしめの男で,彼に下宿のことについて相談した。
すると,彼は,
「よく知らないけど,みんな吹田じゃなくて,学校の北側にある箕面に住んでる人が多いみたいだよ」
「大学の本部に行けば,部屋を紹介してくれるって聞いたことあるよ」
と教えてくれた。
僕はさっそく,翌日,講義が終わった後,大学の本部に行った。
レーザー研のビルを抜けて,少し行ったところにあるレンガ色のビルが本部であった。

受付のお姉さんに,
「あの~下宿とか紹介してくれるって聞いたんですけど・・・」
と聞いてみた。
すると,彼女は,
「もう4月になっているから,ほとんどいい部屋は埋まってしまってるけど・・・」
といいながら,下宿先がつづられている分厚いキングファイルを見せてくれた。

僕は,教えてもらった箕面の小野原地区で部屋を探した。
すると,一番安い下宿で2万3千円の部屋が残っていた。
いま住んでる部屋の半額以下で,お風呂と洗面台付きである。
僕はここを見てみたいですと,お姉さんに申し出た。
すると,彼女はすぐに部屋の大家に電話してくれて,地図のコピーをくれた。

夕方5時くらいになっていたので,少し薄暗かったが,一刻も早くいまの部屋を出たかったので,その日に箕面の部屋に行ってみた。
すると,30歳くらいのお姉さん,多分,大家の娘らしき女性がアパートの前で待っていてくれた。
アパートの入り口は,履物が散乱しており,お世辞にもきれいな所ではなかった。
部屋に案内されると,窓はあるが,隣の家の塀によって光が遮られていた。
洗濯機は1回100円必要とのことで,ガスコンロは無料ということだった。
お風呂場は結構広かった。
洗濯物はアパートの隣の物置の2階に干すとのことであった。
彼女は,
「どうしますか?迷っているならキープでもいいですよ」
と尋ねてきた。僕は,
「ここでいいです」
と答えた。すると,大家が住んでいる隣の大きな屋敷の応接間に通された。
大家らしき年老いたおじいさんが出てきた。
大家と少し話した後,契約書にハンコを押した。

次は引っ越しであるが,引っ越し業者のことは全くわからなかった。
すると,鹿児島から同じように編入していたクボ君が,赤帽でバイトしていて,
「ここの番号に電話して,クボからの紹介と言えば,割引してくれるから頼んでみたら」
と言って,赤帽を紹介してくれた。
早速,赤帽に電話した。
電話口から,
「この番号をどこで聞いたんや?」
といぶかし気な声がしたが,割引値段で引き受けてくれた。

結局,読売新聞と契約した3日後に吹田のアパートを引き払うことになった。
僕は赤帽のトラックが来た引っ越しの当日に,吹田のアパートの大家のおばちゃんに出ていくことを告げた。
すると,おばちゃんは烈火のごとく怒り出した。
しかし,もうすでに荷物はトラックに積んだ後であり,僕はそのまま助手席に乗って,吹田のアパートを後にした。
いまから考えると,賃貸の退去は普通,1か月前という契約であったのに,1か月分の家賃を踏み倒したことになるのだろう。
でも,こんなボロアパートで朝日新聞や読売新聞のヤクザに勉強を邪魔されていた僕は,全く罪悪感などなかった。
いや,むしろ大阪はひどいところだという印象を強く持ち,高校時代の大阪の連中のことも相まって,大阪に対する敵意を持った。
もちろん,朝日新聞と読売新聞に対しても絶対許さないという怒りを持った。
 

特にすべての事の発端は,親が仕事上の知り合いの人の子供が住んでいた部屋を下宿先に決めたことだった。

僕はそのことで相当,親を恨んだ。
これ以降,親の言うことは一切聞きいれないと決めた。

 

大阪に来て学んだことは,
・都会のことを全く理解していない親の紹介ほど当てにならないものはない
・大阪の新聞販売員はヤクザまがいの連中である
・いかがわしい宗教は大学のサークルにはびこっている
・同級生や大学こそ頼れる存在だ
ということだった。


わずか2週間の豊津での生活を経て,箕面での4年間の下宿生活が始まったのである。
 

 

 

 

大学編入試験も終わった頃,僕は学科主任の教授に呼び出された。
その教授から,
「入学する大学が決まったんなら,行かない大学に入学辞退届を書かなあかんな」
「辞退届もなしに来なかったら,次の年から取ってくれなくなるからな」
と言われた。
僕は入学辞退届のことなんて全く思いもしなかったので,少し驚いた。
先に受験した宇部の大学と東京の工科大学の2校に
「私は一身上の理由で,就職することになりましたので,御校への入学を辞退いたします。」
と簡単な文章で入学辞退届を書いて,郵送した。

僕は3年次編入について気になることがあった。

それは大学の単位についてのことだ。

僕は大学の1年と2年に行っていないので,3年次に編入した後,2年分の単位がどういう扱いになるのか気になっていた。

卒業まじかの2月頃に,親が仕事している先の子供が吹田の大学の電気工学科に在籍しているとのことで,一度,その人を介して入学する前に応用物理学科を尋ね,単位のことを聞くことにした。

待ち合わせをした人は,顔が浅黒く,お世辞にも賢こそうには見えなかった。
案の定,大学院には行ってるもののバイトに明け暮れていると話していた。
編入学後に,三国ヶ丘から来ていたツクリミチに聞いたことだが,電気工学科は電気系の学科の中でもアホが配属されることで有名で,カンニングの達人ばかりのどうしようもない連中がいる学科という話だった。

応用物理学科の建物は電気工学科の隣の4階建ての古臭いビルであった。
教務係で,学科主任の教授の部屋を聞くと,3階だと言う。
そして僕らは教授室に向かった。

教授室の扉を開けると,2次試験の面接で僕に質問した面接官がいた。

その面接官が学科主任の教授であった。
付き添いの大学院生は,自分は教授と会うのは恐れ多いと言い,教授室には入らず,外で待っていた。
教授は,
「いらっしゃい」
とにこやかに僕を迎えてくれた。
「この学校の学生は全然,講義に出ないからね。まじめに講義に出てくれたら,ちゃんと卒業できるようにします」
と切り出した。

僕が単位にことについて聞くと,その場で単位の読み替えをしてくれることになった。
つまりは,僕の高校の単位と似た名前の応用物理学科の単位を”認定”という形で取得したことにしてくれるという話だった。

例えば,高校の”熱化学”という科目は,”熱力学”の単位と読み替えるといった具合である。

僕は化学系でだったので,なかなか応用物理学科の履修単位と似た名前がなかった。
すると,教授から単位の読み替えについて取引をもちかけられた。

数学解析は全部,大学で取得して欲しい,その代わりに専門科目のいくつかを認定しようというものだった。
これは僕にとって,願ってもない提案であった。

数学解析の大学レベルの内容なら,いまこの場で試験問題を出されて,ほぼ全問解ける自信があったからだ。
それでも3年次に編入学したときには,取得すべき単位の合計科目数が18にものぼった。

つまり,前期後期,それぞれ18科目の試験を受けなければならないということだ。
僕は,
「18科目もあるので,試験日が重なることはないでしょうか?」
と尋ねた。すると,教授は,
「君がすべて試験を受けられるように,試験のスケジュールを組みます。」
と教授は答えた。
「講義が重なって受講できない場合は,試験だけ受けることでも問題ないですか?」
と尋ねると,
「そのことについても,配慮するように先生方に言っておきます。」
という答えだった。
教授室を出て,別れ際に,
「とにかく,2年間で卒業できるようにするので,真面目に大学に来て欲しい。」
と教授から念押しされた。

付き添いの大学院生もバイトに明け暮れているようだし,よっぽど,ここの大学の学生は講義に出ないサボりが多いのだなという印象を持った。
とにかく,2年間で卒業できるという確約をもらった僕は,内心ホッとした。
実はこの密室で取引のようにおこなわれた単位の読み替えは非常に重要な意味を持つことを後で知った。
というのも,京都の大学,名古屋の大学,大阪の石橋の大学は,この単位の読み替えに寛容ではなく,3年次に編入したとしても,4年生に進級するための単位が足らず,実質,3年生で留年することになるという話であった。
つまりは,吹田の大学に入学した僕らより1年卒業が遅れることになる。
そんなことを全く知らずに,量子力学を専門にしている教授が唯一いるという理由で,吹田の大学を受験した僕は,非常についていたわけだ。

あとは下宿先である。
その付き添えの人がちょうど大学院を修了するので,親の勧めで,彼のあとに入ることになった。
これがのちに大問題を引き起こすとは,そのときは露知らずであった。

結局,僕の化学系で大学進学者は,御坊市出身のカンニングの女と大阪泉南市のムラタの2名が武蔵小金井の工科大学,大阪岸和田市出身のジョウヤマと和歌山市出身のモリの2名が豊橋の大学,御坊市出身の2名が長岡の大学,そして和歌山の田舎出身の僕が吹田の大学であった。
大学進学者は,地元の御坊市が3名,大阪が2名,和歌山市が1名,そして和歌山の田舎出身の僕と全員で7名であった。

 

寮では,いつもは挨拶も交わさない大阪の連中が,すれ違いざまに,
「4月から吹田の大学生かあ。ええな」
とうらやむ言葉を投げかけられた。
化学系の先生は,僕の進学について何も言ってこなかった。
化学を捨てて,物理に行く人間に贈る言葉などないということだろう。
一般教養の英語と国語の先生は,廊下ですれ違いざまに,
「大学合格おめでとう」
と言ってくれた。

5年間住んだ土地を離れ,いよいよ新しい土地での生活が始まるうれしさと不安が入り混じった時間が過ぎて行った。

 

 

3つめに受けた大学は,1次試験である筆記試験と2次試験である口頭試問まで2週間あった。
2次試験は,日帰りが可能であったため,朝早く試験会場に向かった。
口頭試問の待合室には,明石の高校が通信と電子で2名,久留米の高校が電気と建築で2名,鹿児島の高校が機械で1名,和歌山が応用物理で1名,大阪の高校が材料で1名,神戸の高校が材料で1名と合計8名の男の受験生がいた。
大阪と神戸の高校の2人が,第1志望の電気工学科には受からなかったと言っていた。

面接室に入ると,10人ほどの教授とおぼしき面接官がいた。
面接を受ける側は,着席せず,発表者のように机にマイクが備えられている前に立った。
口頭試問ということで,受験する学科の学問的内容が尋ねられるとか身構えていた。
しかし,質問内容はいたって普通であった。
面接官から志望動機を尋ねられ,
「量子力学の理論の勉強をしたいためです」
と答えた。すると,
「量子力学以外の分野で興味があるものは?」
と聞かれた。
「いまは,量子力学の理論を勉強すること以外あまり考えていません」
と答えた。
大学院への進学希望を尋ねられ,
「進学したいです」
と答えた。

受験者8名の面接が終わると,全員解散となった。
鹿児島から来ていた機械工学科のヤツは,1次試験のときに僕の真横に座っていた男だった。
隣のヤツがシャーペンを右手の親指の付け根の上で回す音が,うるさくて,よく覚えていたのだ。
そのことを彼に告げると,
「ああ,それオレだ。すまん,すまん」
と認めた。

2次試験の合格発表は,夏休みが終わって,2学期が始まる頃だった。
学校に戻ると,ムラタが吹田の大学に受かったそうだと大阪の連中が騒いでいた。
ドイという助手が,自分の母校である吹田の大学に電話で問い合わせて合格者の名前を聞いたという話だった。
僕は2次試験の面接会場にムラタがいないかったこと,つまり1次試験で不合格であったことを知っていた。

しかし,大阪の連中と断絶していた僕はそのことについてあえて何も言わなかった。

僕らの寮の郵便物は,寮の事務室の自分の学年の学科のロッカーに入れてくれることになっていた。
合格発表の日の翌日,昼休みにロッカーを見に行ったが,僕への郵便物がなかった。
僕が寮の事務室を立ち去ろうとするとき,事務の栄養士をしているお姉さんに呼び止められた。
「大学から郵便物が来てますよ」
お姉さんがいる事務室に入って,郵便物を見ると分厚いA4の封筒があった。

僕はお姉さんからハサミを借りて,封筒を開封した。
取り出した封書の中身を見ると,入学金免除や授業料免除,バイクや車の駐車場の申請などの書類が大量に入っていた。
 

「合否の発表の瞬間を見るなんてものすごい,ドキドキしたよ」
とお姉さんが言っていたことを憶えている。

この日をもって,僕の大学編入の受験はすべて終わった。
 

 

 




 


僕の高校は5年制の学校であった。
ほとんどの人が就職するが,一部,進学する人もいる。
その場合,大学3年生に編入学することになる。

これまで受験した2校の学科は,いずれも高校と同じ化学系の学科であった。
実は,僕は化学が好きではなかった。
というのも,有機化学の仕事をしている人の半数がガンで亡くなると聞いていたからだ。
有機合成の実験でよく使うエーテル,アセトン,シクロヘキサンなどが発がん性物質と言われていた。
がんは抗がん剤の副作用がひどく,痛い思いをすると聞かされていたので,絶対無理と考えていた。
しかも,5年生の卒業研究の研究室は有機合成化学が専門であり,毎日,実験の日々であったからユウツなことこの上なかった。
4年生で習っていた量子化学という授業だけは,少し興味を引いた。
量子化学とは,量子力学の化学版のようなもので,化学反応を物理の法則を使って,数値計算で予測しようという学問である。

数学が得意だった僕は,おのずと量子化学寄りになっていた。
量子化学が,量子力学の化学版ということなので,本流の量子力学を勉強できる学科,物理学科に行きたいと考えた。
物理学科は普通,理学部に属しており,僕が編入試験を受験している工学部にはない学科である。
そこで,全国の主要な大学の理学部に編入試験をやっていないかハガキで問い合わせた。
ハガキだと電話と違って,お金がかからないからである。
その結果,東京と大阪の2校の大学から封書で返事が来た。
東京の大学の手紙には,理学部では編入試験をやっていないが,工学部でやっているようなので,そちらを受験し,大学院で理学研究科を目指してはどうかと書かれていた。
大阪の大学の手紙には,理学部では編入試験をやっていないが,工学部に応用物理学科という学科があるので,そちらを受験してはどうかと書かれていた。
高校の図書室で,全国大学職員録なる本を見て,応用物理学科を探した。
札幌,仙台,名古屋,吹田,福岡の大学にその学科名があった。
教員の専門分野を見てみると,ほとんどが半導体や分光学などの実験系が専門の先生ばかりであった。
ところが,吹田の大学には,専門が”量子力学,物性理論”と書かれた教授が一人いた。
そういうわけで,本命をその大学に決めた。

受験する大学の1次試験の試験科目が数学,物理,化学,英語,ドイツ語の5科目で,2次試験が口頭試問と書かれていた。
ドイツ語は辞書の持ち込み可であった。
僕のいっていた高校では2年生から4年生までドイツ語があり,ドイツ語にも自信があったのでラッキーだと思った。
試験科目に専門科目がなかったためか,第1希望から第3希望まで志望学科を書くことができた。

僕は,第1希望を応用物理学科,第2希望を応用化学科にした。

同じ頃,武蔵小金井にある工科大学をいっしょに受験したムラタも同じの大学の応用化学科を受験するということを聞いた。
その頃,ムラタは助手のドイという人と懇意にしていた。

ドイという人は,僕らの先輩にあたり,編入試験で武蔵小金井にある工科大学に編入し,その後,吹田の大学院に進学し,僕らの高校に教員として来ていた。
おそらくムラタはドイという人に影響を受けて受験を決めたのだろう。
僕はドイという助手については,太った浅黒いヤツという印象くらいしかなかった。

宇部,武蔵小金井と宿もとらずに受験会場に向かったが,さすがに吹田はホテルらしきものがなかったので,梅田のホテルを予約して1泊することにした。
ホテルの1階が普通のレストランになっていて,レストランの店内を通り抜けてフロントに入っていくような一風変わったホテルであった。
翌朝,阪急電車で試験会場に向かった。
この電車の色が,軍用列車のような色をしていて少し驚いた。
しかも降りる駅に近づいてくると,まるで囚人が入っているような番号が割り振られたビル群が現れた。
いまから思えば,そのビル群は府営の住宅だったのだろう。

受験会場は,これまで受験した大学の教室と違って広く,4人掛けの長机の右と左の端に1人ずつ座った配置であった。
これまでの大学は専門科目があったため,何となく自分と同じ学科を受験する人がわかったが,今回は全員が同じ試験科目なので,ランダムに配置されているようであった。
試験内容は,これまでの大学より難しく感じた。

得意な数学でさえ,最後まで解けない問題が1問あった。
ムラタも来ていた思うが,出会うことがなかった。

受験から2週間が過ぎた頃,大学から小さく薄っぺらい封書が届いた。
封筒を開けると,”応用物理学科”の部分だけが,ハンコで押されたA4の紙が1枚入っていた。
僕はそのA4の紙を何度も見つめた。
2次試験の日まで,まだ2週間もあった。