『セデック・バレ 第一部 太陽旗』 | やりすぎ限界映画入門

やりすぎ限界映画入門

ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『セデック・バレ 第一部 太陽旗』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

2011年/台湾映画/144分
監督:ウェイ・ダーション
出演:リン・チンタイ/マー・ジーシアン/ビビアン・スー/安藤政信/ルオ・メイリン/ダーチン/ランディ・ウェン/木村祐一/春田純一/田中千絵/マー・ルーロン/ウー・ポンフォン/リン・ユアンジエ/日比野玲/山口琉/松本実


[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。



やりすぎ限界男優賞:リン・チンタイ


やりすぎ限界男優賞:ダーチン


やりすぎ限界男優賞:リン・ユアンジエ


やりすぎ限界男優賞:松本実


やりすぎ限界男優賞:山口琉


[「大日本帝国外地台湾」3部作]




恐るべき「やりすぎ限界映画」『KANO 1931海の向こうの甲子園』を見て「これでもか泣かないか」まで、『ハナ 奇跡の46日間』級「極限領域」恐るべき「泣かし」に追い込まれ、「震撼」「驚愕」「圧倒」「尊敬」「絶句」+「敬意」「賞賛」「崇拝」で「怖さ」にビビって「泣きながら」震え上がり大きい方を漏らしたあげく「出るもの全部出て何も出るものがなくなった」。




『KANO 1931海の向こうの甲子園』「マー・ジーシアン監督」を調べたら、『セデック・バレ 第一部 太陽旗』『セデック・バレ 第二部 虹の橋』の「タイモ・ワリス」「俳優」だった。さらに調べると『KANO 1931海の向こうの甲子園』の「脚本」「製作」は、『セデック・バレ』2部作の「ウェイ・ダーション監督」だった。




実は『セデック・バレ』2部作と『KANO 1931海の向こうの甲子園』は、「ウェイ・ダーション監督」の「大日本帝国外地台湾」3部作なのだと「何一つ殆ど砂粒ほども知らなかった」。『KANO 1931海の向こうの甲子園』は「ウェイ・ダーション監督」がプロデューサーとなって、「若いマー監督にメガホンを託し、長編デビューを陰から支えた」ことを「今頃」「初めて」思い知り「反省」「懺悔」「償い」しかなす術がなかった。

[「人間が絶対やっちゃいけないこと」]




■「台湾島は
  大日本帝国の新たな領土であり
  未だ天皇陛下の御恩を
  浴びせぬ土地である
  島の民は血の気が多く野蛮で
  すでに武装し皇軍に
  抵抗するなどと聞いておるが
  統率のない雑魚兵など
  恐れぬに足りぬ
  基隆港に上陸した後は
  北から南まで
  一掃する」





■「2度と奴らに狎侮の心を
  与えてはならん
  大日本帝国に忠誠を誓わせ
  臣下として従わせなくては」





■「愚かな蕃人により割拠された
  台湾の心臓地帯
  この高山辺りに林産 鉱物
  無限の資源が眠っている」







今まで「ちゃんと」勉強してこなかったから、「今頃」「下関条約」を調べたら、殆ど「詐欺」か「恐喝」としか思えない。現代の情報化社会とは大違いだった時代「大日本帝国」は、「近代化」を「知らなかった」「清」から「台湾」を略奪した。「人間が絶対やっちゃいけないこと」をやった。

[「史実を基に脚色した」「衝撃」殆ど「実話」]




「1895年」から「1945年」までの「50年間」、台湾は「大日本帝国外地台湾」として日本に統治されてた。「鶏程度」の脳みそで生きてたから、「満州」とか「大日本帝国朝鮮半島」とか、「うっすら」聞いたことあったが実際「日本人がどんなことしたか」、「今日まで」「何一つ殆ど砂粒ほども知らなかった」。




『セデック・バレ』2部作を見て、台湾で「日本人がどんなことしたか」、「今頃」「初めて」思い知って「死ぬほど」「反省」「懺悔」「償い」。「ごめんなさい」「本当に申し訳ありませんでした」「心から謝罪致します」。




『セデック・バレ』2部作は、「1930年」台湾で起きた台湾先住民族「セデック族」による抗日蜂起事件「霧社事件」の「史実を基に脚色した」となってるが、「上映時間短縮」とかの理由で、「5人分」のエピソードを「1人分」に省略して「創作」となる場合がある。つまり「背景」は「衝撃」殆ど「実話」で、セデック族に「日本人がどんなことしたか」の史実は、「5倍」から「10倍」以上、「残虐」「非道」「人間じゃない」ことをやった可能性が「かなり」「高い」。「全部見せたら」「276分じゃ終わらない」から「史実を基に脚色した」のかもしれない。

[「首狩り族」]




幼少期「鶏そのもの時代」、「グァルティエロ・ヤコペッティ監督」の「ドキュメンタリー映画」『世界残酷物語』が「超話題作」「超大ヒット」。だが「首狩り族」とか、世界の「際物」映像を集めた程度の映画だと、「見もしないで」勝手に決めつけ「完全無意識スルー」。




「首狩り族」という言葉を初めて聞いたのがその頃だった。だがまさかセデック族こそが、“本物” の「首狩り族」だと「何一つ殆ど砂粒ほども知らなかった」。「今頃」「初めて」思い知り「怖さ」にビビって「大きい方垂れ流し」。だが「首狩り族」の「真実」は、「鶏そのもの時代」の「偏見」「先入観」「思い込み」などぶっ飛ぶ、「震撼」「驚愕」「圧倒」「尊敬」「絶句」+「敬意」「賞賛」「崇拝」すべき崇高な「誇り」、「信念」「価値観」「倫理観」を持つ種族だった。




■「“橋を渡るがいい”
  “お前は真のセデックだ”
  “先祖の家に入ることを許す“
  “名誉ある狩り場を-
  “永遠に守るにふさわしい”」


「首を狩ったことがない男と- 布が織れない女は- 顔に刺青を入れる資格がない」。「 “立ち去れ 橋を渡ることは許さん” “お前は 真のセデックではない” “先祖の家に入る資格は-” “お前たちにはない” 」。




セデック族の最も崇高な「誇り」、「信念」「価値観」「倫理観」とは、「橋を守る先祖の霊」に恥じない生き方を貫き「虹の橋を渡る」こと。




セデック族は死ぬと、男は「洗っても落ちない 血の痕がある」 “まさしく真の男の手だ” か、女は「こすっても取れない タコができている」 “お前こそ真の女だ” か、「橋を守る先祖の霊」に “さあ 渡りなさい” と言われる「資格」を認められるか、「検分」される。




「宗教」の違いで起きた戦争が世界で「今」まだ続いてる。「清」から略奪した「大日本帝国外地台湾」で日本人は、「先祖の霊」の崇高な「掟」、「信念」「価値観」「倫理観」に従い生きるセデック族を「虐殺」し「狩り場」を奪った。




昔日本がしたことは「ヒトラー」がしたことの「一歩手前」。「第二次世界大戦」を強行した当時の「日本政府」を僕は「恥」に思う。殆ど「他人のことを考えない人間」達で集結した当時の「日本政府」が、「天皇陛下万歳」などと国を操り、「満州」とか「大日本帝国朝鮮半島」とか「大日本帝国外地台湾」とか、「残虐」「非道」「人間じゃない」「人間が絶対やっちゃいけないこと」をしてきた。




だが今「謝罪」「言い訳」をしたい。「日本人全員が悪じゃない」。今の日本には「他人のことを考える人間」も大勢いる。『家へ帰ろう』のような「ドイツ人がユダヤ人を救う時代」に、日本も「今」到達できたのだと思う。




■「勝ち目がないと知りながら
  なぜ戦う?」
 「掟のためだ
  刺青ひとつない
  若者たちの顔を見ろ
  この子たちは
  虹の橋を渡れない
  真の男になる力があっても
  証がない」
 「掟か」
 「そうだ」
 「日本人と戦えば殺される
  死んで何が得られる?」
 「セデックの誇りだ」





僕は日本人で、「絶対自殺してはいけない」という「信念」「価値観」「倫理観」を「正しいこと」だと信じてる。だがこの世にはいろんな「宗教」や「思想」、「信念」「価値観」「倫理観」が存在し、僕が「正しいこと」と思ってる思想を「正しいこと」と思わない「国」「民族」が実在する。自分が信じる「信念」「価値観」「倫理観」が「通用しない世界」を思い知り「大きい方垂れ流し」。




「300人の戦士」を指揮して「数千人の大軍」を倒したモーナ・ルダオ(リン・チンタイ)が貫いた、「虹の橋を渡る」「掟」は、セデック族にとって「死」をも超える最も「崇高」な「誇り」、「信念」「価値観」「倫理観」だった。




先に「戦争」を仕掛けた、「ケンカ売った」のは日本。「もしも」僕が霧社にいたら、「絶対死を覚悟する」しかない。「霧社事件」が「因果応報」「自業自得」でしかない「仏様の裁き」にしか見えない。

[「殺される覚悟と決意」]




「死ぬのが怖くないのか?」

「日本人がセデック族にしたことは、いずれ全部日本人に返ってくる」。セデック族に実際「日本人がどんなことしたか」は、「死ぬのが怖くない」「勇気」「精神力」、絶対揺るがない「殺される覚悟と決意」を持てる人間でもなければできないこと。「だと」僕は思う。






■「モーナ
  よそ者を狩り場に入れるな
  絶対に入れてはならん」


日本軍はモーナ・ルダオ(ダーチン)の父親を殺した。他に親戚、友達も殺したかもしれない。「先祖」の「狩り場」も奪った。「死ぬのが怖くない」「勇気」「精神力」、「殺される覚悟と決意」が絶対揺るがない人間でもなければできない。




■「大丈夫ですよ 彼ら生蕃は
  頑丈な身体をしていますから
  いくらかの金を与えて
  酒でも買いに行かせてやれば
  それで喜んでいますよ」





■「どうしてこんなに
  バカなのかね」





日本人はセデック族を「奴隷」のように「バカにした」「見下した」。植民地なら何をしてもいいのか? 「想像力」を持つ「人間」なら雇い主だって従業員には気を遣う。「死ぬのが怖くない」「勇気」「精神力」、「殺される覚悟と決意」が絶対揺るがない人間でもなければできない。




■「丸太は引きずるなと
  言っとるのが分からんのか」





■「お前ら蕃人は
  何度言ったら分かるんだ」





■「何だ 文句あんのか?」




■「落ちた?
  丸太1本いくらすると…」





■「何様だ モーナ・ルダオ
  マヘボの大将は
  あんたじゃないだろう
  わしだよ」





■「お前の狩り場 俺の狩り場だって?
  すべては俺たち日本人の
  ものじゃないか」


小島の子供(山口琉)の「大人顔負け」「極限領域」「死ぬのが怖くない」「勇気」「精神力」、絶対揺るがない「殺される覚悟と決意」に「怖さ」「恐怖」でビビって震え上がり大きい方を漏らしたあげく「出るもの全部出て何も出るものがなくなった」。僕には「絶対真似できない」。




小島の子供の「信念」「価値観」「倫理観」は父親の「教え」。小島の「家族全員死亡」の「因果応報」「自業自得」は、子供を教育した父親への「仏様の裁き」にしか見えない。






■「要らんて!
  そんな汚い 唾で作った…」
 「好意で酒を勧めたのに」
 「血だらけの手で!」
 「酒を勧めているのに
  私をぶつのか!」
 「ぶたんと分からんだろう
  ぶたんと!」





■「貴様ら もう終わりだぞ
  警察 敵に回したぞ」





■「我らは必ず貴様ら
  マヘボ社を焼き尽くすぞ」





■「モーナ・ルダオが何だ
  まだ自分が蕃王か何かだとでも
  思っているのか?」


「衝撃」殆ど「実話」「霧社事件」は、「日本人警察官との間で起こった小さないざこざが原因」で起きた。




吉村(松本実)の「死ぬのが怖くない」「勇気」「精神力」、絶対揺るがない「殺される覚悟と決意」に「怖さ」「恐怖」でビビって震え上がり大きい方を漏らしたあげく「出るもの全部出て何も出るものがなくなった」。僕には「絶対真似できない」。






関ケ原で薩摩国が負けた。大政奉還で幕府が崩壊した。「過去」「歴史」を冷静に見れば、いつの時代もこの世に「絶対安全」など「絶対ない」。今だって明日どんなテロが起きるか解からない。何で吉村は「大日本帝国外地台湾」なら「絶対安全」だと「確信」できたのか? 実は「自殺願望」だったのか? もはや僕には「気が狂ってる」「正気じゃない」にしか見えない。




■「日本人を殺す?
  俺の家族がなぜ死んだか
  知ってるだろ?
  親父が日本人を殺した
  そのために
  一家全員が焼き殺されたんだ」







■「整列中に動くな
  何度言ったら分かるんだ
  最後尾に並べ」







「史実を基に脚色した」ということは、吉村、小島の子供、先生、………………………………、と「同じこと」か「それ以上」やった日本人が、「×5人」「×10人」、いや「もっといた」可能性が「かなり」「高い」。日本人が殺されるの見て「絶対うれしいはずない」が、これでは「仏様の裁き」「絶対死を覚悟する」以外もはや「選択肢」はない。

『セデック・バレ 第二部 虹の橋』につづく




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画像 2022年 1月