『マッドマックス2』 | やりすぎ限界映画入門

やりすぎ限界映画入門

ダイナマイト・ボンバー・ギャル @ パスタ功次郎

■「やりすぎ限界映画工房」
■「自称 “本物” のエド・ウッド」


■『マッドマックス2』
やりすぎ限界映画:☆☆☆☆★★★[95]

1981年/オーストラリア映画/96分
監督:ジョージ・ミラー
出演:メル・ギブソン/ブルース・スペンス/マイク・プレストン/ケル・ニルソン/ヴァーノン・ウェルズ/マックス・フィップス/ヴァージニア・ヘイ/ウィリアム・ゼッパ/スティーブ・J・スピアーズ/アーキー・ホワイトリー/シド・ヘイレン/エミール・ミンティ

D.B.G.生涯の映画ベスト50
第22位『マッドマックス』
(『マッドマックス2』『マッドマックス サンダードーム』『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の全4部作を含めて)



[ネタバレ注意!]※見終わった人が読んで下さい。



やりすぎ限界男優賞:メル・ギブソン


やりすぎ限界男優賞:エミル・ミンティ


やりすぎ限界女優賞:ヴァージニア・ヘイ


やりすぎ限界男優賞:ヴァーノン・ウェルズ


■第3稿 2021年 11月2日 版

[「おれが運転する」]




■「よかったら-
  おれが運転する」
 「今さら取り引きには応じない」
 「取り引きじゃない」
 「何で気が変わったんだ?」
 「役に立ててくれ」
 「その体でか?
  車イスも運転できまい」
 「そうだよ とても無理だ」
 「ぐずぐず言うな
  おれの腕を信じろ」







「おれが運転する」。僕はこのシーンを何回繰り返し見たか数え切れない。






『マッドマックス2』の「全て」が、「おれが運転する」の台詞に収斂されてるように見える。きっと僕の『マッドマックス』4部作「ベスト1」は『マッドマックス2』に違いない。だが僕自身「今」でも、「自分で自分が解からない」部分が多い。何で「おれが運転する」を見て「これでもか」まで恐るべき「泣かし」に追い込まれるのか? 何で「100回」近くも繰り返して見てしまったのか? だがとうとう、自分でも解からなかった「理由」を解かる時がきた。

[「だけど君は 外のクズどもと同じだ」]




■「人を殺したか
  家族をなくしたか?
  それは
  君だけのことじゃないぞ
  聞けよ
  不幸は君だけじゃない
  おれたちも同じだが
  絶望はしない
  人間の誇りがある
  だけど君は
  外のクズどもと同じだ」





トーカッターに「妻」と「子供」を惨殺され、荒野を彷徨うしかなかった。「社会」「文明」が崩壊した「警察が消えた世界」「暴力が支配する世界」でマックス(メル・ギブソン)は、「絶望」に堕ちて生きる「希望」を失った。






■「あのマックスも-
  一瞬にすべてを失った
  彼は偏屈になり-
  過去の亡霊に
  追われたかのように-
  1人で荒野へ
  さまよい込んだ
  そして そこに
  生を見い出したのである」





「自殺」する勇気もない。「社会」「文明」が崩壊した「警察が消えた世界」「暴力が支配する世界」の中で、マックスの「警察官」だった「誇り」、「信念」「価値観」「倫理観」は死んだ。いつしか「ガソリン」「食料」を奪うだけの「他人のことを考えない人間」に成り果ててた。

[「他人のことを考える人間」「絶対正義は消えない」]






ヒューマンガスのような「悪人」が実在の人間なら、キリストのような「善人」も実在の人間。「警察が消えた世界」「暴力が支配する世界」に堕ちても、この世から「他人のことを考える人間」は「絶対消えない」。






「絶対正義は消えない」恐るべき極限のくそリアリズムを『マッドマックス2』に見た。「もしも」本当に「警察が消えた世界」「暴力が支配する世界」となっても、暴力に立ち向かう人間は絶対現れるはず。パッパガーロや女戦士(ヴァージニア・ヘイ)達の「信念」「価値観」「倫理観」のように、どんな状況に置かれても人間は絶対「希望」を失わない。

[「8人も失敗してる」「最強」の「運転技術」]




■「取り引きしよう
  それを持って来てやるから
  車にガソリンを入れて返せ」
 「8人も失敗してる」







「警察」で「お前は腕が立つ- 誰よりも」だった「最強」の「運転技術」。たった「V8」1台だけでトーカッターの組織を壊滅させた。




「8人も失敗してる」誰にも成し遂げられなかったことを、いとも簡単にやってのけた。「絶対誰にも真似できない」。恐るべき「最強」の「運転技術」「反射神経」で、「死の谷」の「皆」を「震撼」「驚愕」「圧倒」「尊敬」「絶句」+「敬意」「賞賛」「崇拝」まで追い込んだ。




だが「お前は腕が立つ- 誰よりも」な「最強」の「運転技術」が「最強」である認識は、「最強」であることを「評価」「賞賛」してくれる人間がいて初めて「最強」だと認識される。「もしも」この世の人間が「たった一人」、自分しかいなかったら、「評価」「賞賛」してくれる人間など誰もいなくなってしまうということ。




「最強」の「運転技術」が「評価」「賞賛」されるのは、「自分以外の他人」がいて初めて「成立」する。「自分以外の他人」がいなければ、「最強」の「運転技術」など何の役にも立たない。

[「絶対一人では生きれない」]






だが実際に「タンクローリー」があっても、「運転できる人間」がいなければ「本末転倒」。「絶対脱出できない」。




「人間」が「人間」である “本質”、「半分に分ける」という「思想」を持つ「他人のことを考える人間」、「警察官」となった「信念」「価値観」「倫理観」は、「崇高」な「志」の「脳みそ」「想像力」を持つ人間にしか生まれない。「警察官」だったマックスの「信念」「価値観」「倫理観」は、この世の誰よりも「人間らしさ」を持つ「崇高」な「志」だった。




だが「絶望」で「崇高」な「志」、「人間らしさ」は死んだ。頼まれた「タンクローリー」の「運転」を断ったのは「自分さえ助かればいい」から。「他人のことを考えない人間」に成り果て、「死に谷」の「皆」を「見捨てた」「見殺しにした」。






人間は「絶対一人では生きれない」。誰も「マズローの欲求5段解説」「第3段階」「社会的欲求」から逃れられない。「絶対一人では生きれない」のは、「最強」の「運転技術」を「評価」「賞賛」してくれる人間がいなくなるからだけじゃない。






「不幸は君だけじゃない」「おれたちも同じ」。「不幸はマックスだけじゃない」。「V8」が撃破され瀕死の重傷を負ったのは「仏様の裁き」か? 「見捨てた」「見殺しにした」「皆」に命を救われたマックスは、どんな心境だっただろう? 「最強」の「運転技術」など持ってない「弱者」が、「絶望」しないで生きてる。これ以上「恥ずかしい」「反省」「懺悔」「償い」の気持ちはなかったかもしれない。

[「おれが運転する」]



■「よかったら-
  おれが運転する」
 「今さら取り引きには応じない」
 「取り引きじゃない」
 「何で気が変わったんだ?」
 「役に立ててくれ」
 「その体でか?
  車イスも運転できまい」
 「そうだよ とても無理だ」
 「ぐずぐず言うな
  おれの腕を信じろ」







何で「おれが運転する」を見て「これでもか」まで恐るべき「泣かし」に追い込まれるのか? この「社会」「文明」が崩壊した「警察が消えた世界」「暴力が支配する世界」の中でマックスが、「警察官」に「戻った」から。



この「警察が消えた世界」「暴力が支配する世界」の「絶望」の中で、マックスは「弱者」を救う「半分に分ける」「他人のことを考える人間」、最も「人間らしい」、「崇高」な「志」の「信念」「価値観」「倫理観」を持つ「警察官」に「復帰」した。






“THE ROAD WARRIOR” 『道の武人』と化した「警察」「最強」の「運転技術」が、「極限領域」で「爆発」する。




『マッドマックス』
『マッドマックス2』
『マッドマックス サンダードーム』
『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

画像 2021年 11月