高杉晋作さん:「お主!萩へよう来とるのに、未だ『野山獄(のやまごく)跡』を訪ねとらんとは、何事か!」
久坂玄瑞さん:「早う、行け!」
…ということで、野山獄跡へ行く事になったRieruです。(←なんじゃそりゃ)
野山獄…吉田松陰先生がアメリカへの密航を企て、投獄されていたことで有名な場所ですよね。
高杉晋作さんや富永有隣さんなども投獄されたことがあるそうです。
投獄中にも関わらず、他の囚人たちに孟子を講義していたのだとか。
その講義を獄吏も廊下で耳を傾けていたというから、驚きます。
そして、あの萩でも震度6相当の揺れがあったという、『安政南海地震』も投獄中に経験されたそうです。
『杉梅太郎・吉田松陰往復書状』にその時のことが記されていました。
杉梅太郎(松蔭先生の兄)が“今日地震が起きて自然の摂理がどうなっているのか 恐ろしい恐ろしい”と書いた書状に対して、松蔭先生の記述には、『天下大変』とあり、“この大きな地震は、天下の大変革になるだろうと…国が変わるような変革が起きるかもしれない”とあるようです。
その3年後に『萩の地震』が起こるわけですが、この時の地震についても、松蔭先生が山県半蔵(宍戸璣)に宛てた書状に記載されていました。
“きのうの一震 山陽道きては希有のこと 幸いにも雨が降らなかったので大きな被害に至らず良かった”
はぁ〜、松蔭先生が2度も大きな地震を経験されていたとは知りませんでした。
2度目の投獄中には、高須久子さんとのプラトニックラヴ…
話が逸れましたが、こちらが野山獄跡になります。
あら、思っていたより狭いですね。
説明板に、当時の略図がありました。
野山獄より、岩倉獄の方が狭いのですか。…岩倉獄?は、次回。
牢だけではなく、刑場もあったんですね。刑場ということは…
切ないです。
跡地には、『野山獄十有一烈士之碑』が建っていました。
高さ2m15cm、幅1m35cmの自然石で、大正13(1924)年に建てられ、篆額は毛利元昭さんによるものです。
元治元(1864)年に、正義派の11名(前田さん含む)が禁門の変の責任を責められて、俗論派によって処刑された人たちへの追悼碑。
原田貞男の撰で、安藤紀一の書。
手元に拓本があるので、なんとか読めました。
正面向かって右側には、『十一烈士絶命之處』という碑がありました。
『十一烈士』とは、例の11名のことで、先に11月に4名が、後の7名(前田さん含む)は12月に処刑されました。
高杉晋作さんが中心となって打ち上げられた、俗論派打倒ののろしで正義派諸隊の勢力が増してきたので、俗論派がそれを恐れて処刑に至ったのだとか。
左手奥には、野山獄ゆかりの方たちの慰霊のため、松蔭先生の筆蹟の文字を組み合わせて作った『合霊碑』と刻まれた碑が建っていました。
ふと、空を見上げると、桜の葉が。
春は綺麗な桜の花が見られるのでしょうか。こちらで亡くなられた方たちの慰みになれば良いですね。
松蔭先生:「てか、Rieruどの!ここに駐車場が無いからと、旦那をコンビニで待機させるとは何事か。そして見学が終わったら、連絡して迎えに来てもらうとは!なんとちゃっかり…夫婦仲良うせんといけんぞ。
晋作、玄瑞、お前らも何か言うちゃれ!」
奥さま以外に、おうのさんと♡だったひと。
↓↓↓↑↑↑
松蔭先生の妹と結婚したけど、京都のお辰さんと♡だったひと。
2人:「・・・」
松蔭先生:「アイタタタ」
(茶化すのは、ほどほどにm(_ _)m)
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