梅雨時の萩城跡に地震の痕跡を見た女(+萩城の写真について) | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。



先日、萩城跡へ行ってきたRieruです★

駐車場から城跡に向かう途中、輝元(てるもっ)ちゃんの座像が迎えてくれます。


そういえば、輝元ちゃんの墓所に参ったことがありません。今まで、どうして訪ねたことが無かったんでしょうか?
検索してみたら、まさかの萩城三の丸 北門屋敷の近くに見つけましたよ。


話しは戻り、萩城跡へ。


雨予報とコロナの影響か、とても静かでした。

静かなおかげで、鳩たちが水浴びをしたりして寛いでいます。


お掘りには鯉や亀もいて、生き物がいっぱい☆

先に訪ねた大照院では、カニがいました。


怖がらせないように、ズームにして撮影。

かに座  かに座  かに座


入城料210円を払い、城址跡を歩きます。受付ではマスク着用でやり取りしましたが、離れたらすぐにマスクを外しました。退城するまでに観光客を4〜5人見掛けましたが、10m以上離れていたのでそのまま。
ん〜、綺麗な空気は美味しいですキラキラ


ややっ!あんな場所に亀が。

この、反り上がった石垣の部分に…


亀さん:「コンニチハ☆」

こんにちは♪多くの亀を見掛けましたが、大概泳ぐかプカプカ浮いている亀ばかり。

別の石垣には…


白鷺さん:「コンニチハ☆」


こんにちは♪まぁ、あんな場所に止まってる…小魚等がいるんですかね?

じつは萩城址に来たのは2回目になります。やはり(2年前の)GW期間中でした。

崩れた石垣の部分は、黒っぽい玄武岩で修復されたのだとか。


ああっ、あれっぽい。


足場を組んで修理されたのですかね。やはり、上物(城)も被害にあったのでしょうか?
南海トラフ地震から今年で166年、萩の地震からは163年。
全国的に山口県は地震による被害は少ないように思われがちですが、この先もそうとは言いきれないので、昔起きた地震の被害の痕跡を見て恐れることで、備えの意識を高める機会になれば良いですね。
しかし、備えても当然どこかで被害は起きてしまいます。それが自宅も含まれているかもしれません。
それぞれ萩と下関と山口と周防大島と岩国に、別邸を建てておきましょうかね〜♪←なに、夢語ってるんだ?


イテテ


(備えあれば憂いなし!ですが、お金がかかる。)



天守閣跡に上がってみましょう。


あら、もしかしてこの階段も?


…後から造られた?かどうかはわかりませんが、城解体跡に元々そこにあった石を使ったっぽいです。違っていたら、すみません。

上に上がると、(知ってたけど)誰もいない!


贅沢なことに貸し切り状態でした。実際にこちらを貸し切りにしたら、おいくら万円ぐらい必要なのでしょうか。

天守閣跡から、本丸門を臨みました。


ここに、まだ天守閣があったら、どんな感じなのでしょうか。

階段を降りた近くの場所に、『萩城天守』という説明プレートがあり、そこに明治時代初期に撮影された萩城がありました。


説明には…萩城は、関ヶ原の戦いに敗れた毛利輝元が防長二州・三十六万石の居城として慶長9(1604)年に起工し、同13(1608)年に完工した。
白亜五層の天守は、高さ8間(14.4m)。初層平面規模は東西11間(19.8m)、南北9間(16.2m)、最上層は東西3間半(6.3m)、南北3間(5.4m)である。初層は石垣全体にわたって半間分を張り出し、俯射装置(石落とし)とした。
明治7(1874)年に解体されるまでの270年間 天守は、毛利氏13代にわたる萩城の象徴として偉容を誇っていた。
…とあります。
じつはこの萩城の写真は個人蔵なのですが、萩博物館をはじめ、某屋敷等、いろんな場所で見る機会があります。そして(スマホ)カメラを向ける前に、撮影は控えてくださいと注意されたことがありました。
個人蔵、というのがネックなのでしょうが、そもそも、なぜそんなに貴重な写真なのでしょうか?
不思議に思っていたら、以前 萩のボランティアさんが教えてくださいました。

…が、ほぼ忘れました。


イテテ


(すみません、忘れっぽいんです。)


その後もずっと忘れたままでしたが、ひょんなことから思い出すことに。
それは緊急事態宣言が出る前に訪ねた、光市にある玉井喜作さんのお墓のことを調べた書籍に、凡そこのような事が書かれていたことから。


日本とドイツの友好の架け橋となっていた喜作さんのベルリンの家には、多くの人が訪れていたのですが、その中に長崎医学校教授(後の日本医学校初代教授、現 日本医科大学)の山根正次さんもいらっしゃいました。
明治33(1900)年の秋に開催された、パリ万国博覧会の出張の際に寄られたようです。
山根さんは萩市椿東(ちんとう)出身で、お父さまが松下村塾で吉田松陰先生に師事していた!という方なんだとか。
萩中学校時代にラインホルト・ヒレルというドイツ人教師からドイツ語を習ったことがあるのですが、喜作さんもヒルレさんと知り合いであるという縁から、2人を再会させたのでした。(長岡外史さんも親交があったようです)
ヒレルさんは奥さまと3年ほど萩に住み、生まれた娘さんに『オヨネ』と名付けたりして、日本にとても友好的な方だったようです。
なので思いがけず自国での教え子との再会に喜んだヒレルさんは、日本に滞在していた時のアルバムを2人に見せます。そのアルバムの写真の中の1枚に、まだ健在だった頃の萩城の写真があるので、山根さんは大変驚きました。
懐かしがる山根さん(安政4(1858)年生まれ)を見た喜作さん(慶応2(1866)年生まれ)は、ヒレルさんから写真を借りて絵葉書にし、日本に帰国した山根さんに送りました。や、優しすぎる、喜作さん!
…あ!な〜んとなく、思い出しましたよ。

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そうでしたね。喜作さんが写真を絵葉書にして送らなければ、後世の人々に萩城の姿を伝えることは無く、東萩駅に萩城のレプリカが造られることも無かったんですよね。

…萩城跡に近いのは玉江駅ですが?


アイタタタ


(萩市の中で1番大きい駅にだからですよ、きっと。)