映画『低開発の記憶』は、思いがけず様々な出会いを私にもたらしてくれましたが、きょうは、マリア・ロサ・アルメンドロスについて書きます。
「スペインでは戦いに負けたけれど、キューバで勝利した」
今からずいぶん前にネットでこの発言を見たとき、スペイン内戦
が1959年のキューバ革命と無縁ではないことに気付かされました。
発言者は、マリア・ロサ・アルメンドロス。拙ブログに何度か登場したネストール・アルメンドロス
の姉で、エドムンド・デスノエス
の最初の妻、スペイン出身の女性です。
1939年、スペイン内戦で進歩的勢力だった共和派が負けたことにより、大勢の知識人が亡命を余儀なくされ、ラテンアメリカ諸国(特にメキシコ)に散りました。彼らスペイン人亡命者が、ラテンアメリカの知的世界の活性化に大いに貢献したことは衆知の事実。
キューバもその例外ではなく、スペインからの亡命者が出版社を起こしたり、教育に携わるなど、知的・文化的発展に尽力しました。
マリア・ロサの父、故エルミニオ・アルメンドロス
(1898~1974年)もそうした亡命スペイン知識人。
エルミニオ・A.氏は、スペインでフランスのフレネ方式と呼ばれる自由教育を推進した人物。キューバに亡命後は、教育者として活躍する一方、児童書を著すなど執筆活動に従事。
教育省でも働きました。
日本では氏の著書「椰子より高く正義をかかげよ―ホセ・マルティの思想と生涯」(海風書房)
が翻訳・出版されています。
さて、アルメンドロス一家は、エルミニオA.氏のキューバ亡命後10年近く離れ離れの生活を送りますが、1948年にまずネストールが、翌年にはロサ・マリアを含め一家全員がハバナに移住します。
右の写真(2008年2月)について、マリア・ロサ(M.R.)は「離れ離れで暮らす父に子供たちの成長ぶりを見せるために写真を撮って送っていたのよ」と教えてくれました。
申し遅れましたが、2008年、(デスノエスやミゲル・コユーラ
の紹介で)ハバナ映画祭の折にお宅を訪ねた私に、彼女はアルバムを用意をして待っていてくれました。
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10180381157.html
アレア
のファンの私が早速「アレアとはいつ知り合いましたか?」
と訊くと、「ハバナに来てすぐよ。ネストールの友達だったから、プレゼントを持って家に挨拶に来たの。でも変なスペイン語でね(キューバのスペイン語は独特の訛りや言葉遣いがあるから)、何を言っているのかと思ったわ」
私:「エドムンド・デスノエスとの出会いは?」
M.R.「シネ・クラブよ。ネストールが彼のことを“変人”呼ばわりしていたし、作家といえば“女っぽい(maricón)”というイメージがあったから、最初、母は私と彼が付き合うことに反対していたの。でも実際に彼に会ってからはとても気に入って、“mi príncipe(私の王子)”と呼ぶようになったのよ。私にとっては、男性として初めて何もかも気に入った人だった(ただし、マリア・ロサいわく、デスノエスは神経過敏)」
ちなみにデスノエスは男ばかりの4人兄弟の末っ子で、今(2008年)生き残っている兄弟は一人だけ。革命前のキューバで兄弟は皆社会的に恵まれた地位に付いており、作家志望のデスノエスだけが不安定だったようです。
マリア・ロサ、
一人置いてデスノエス
ネストール
左端はエルミニオ
*厳格なスペインからキューバに来たマリア・ロサは、写真を撮る際、男性が肩に手を廻すことを断固、拒否
こうして結ばれたデスノエスとマリア・ロサは、ベネズエラ~バハマ~マイアミ~ニューヨークと転々とします。バティスタの圧制下では、父のエルミニオも弟のネストールもキューバを離れていました。
そして革命成就(1959年)―
マリア・ロサいわく「革命で命を落とした人がたくさんいるのに、のこのことキューバに戻るなんて出来なかった。革命のために何もしなかったという思いに苛まれて、恥ずかしかったから。先にネストールが帰ったわ。そして“革命を守るためにキューバに帰るよう”言われて帰国したの。アメリカがキューバを中傷し攻撃し始めたから」。
キューバに帰国後、デスノエスは教育省に勤める傍ら「ルネス」等で執筆活動を、マリア・ロサはカサ・デ・ラス・アメリカス(文化活動機関)で働きます。同時に、「民兵、サトウキビ刈り、新聞売りなど革命のためなら何でもした」と言います。
一方「ルネス」の活動には、デスノエスだけでなく、父のエルミニオも関与、サルトルをキューバに招聘することに貢献しました。
(写真右・右からエルミニオ、ボーヴォワール、サルトル)
やがて、1962年の「キューバ危機」が訪れます。
M.R.「作家達は空軍基地となる飛行場に送られたわ。エドムンドはサン・アントニオ・デ・ロス・バニョス飛行場に」
私:「そのときどんな気持ちで彼を送り出したんですか?」
M.R.「全く恐れは感じなかった。普段と全く変わりなく送り出したわ。革命の陶酔感に満たされていたから」
こうして彼女の話を聞くと、改めてデスノエスの小説『低開発の記憶』 の主人公とデスノエスの行動が全く違うものであったことが確認できます。
その意味で小説も映画も“経験”と“想像”の産物。
アレアとデスノエスは、楽しみながら映画の脚本を練っていたそうです。
(ただし、セルヒオはアレアとデスノエスのアルター・エゴ:自己の別面、あり得た自分)
それから何年後か知りませんが、デスノエスとマリア・ロサの結婚は破綻します。
理由はあえて聞きませんでしたが、マリア・ロサが「元夫(可能性は2人)の女友達が相談事をしに訪ねて来て、彼女と仲良くなってしまうこともあったわ」と話すときの表情は、実にサバサバとしていました。さっぱりとした気性で、頼れる姉ご肌の持ち主。
さて、デスノエスと別れた後に再婚したのは、またも作家のアントニオ・ベニテス・ロホ
。
デスノエス同様、彼も後にアメリカに亡命してしまいます。
そして最後の夫となったのが、彼女より10歳以上若い、(今度は作家ではなく)エンジニア。彼はアンゴラやベトナムにも派遣されたそうです。約10年続いた結婚生活。「一番相性が良かった」のに、残念ながら彼女より先に(2002年?)亡くなってしまいます。テーブルの上には彼と写したスナップ写真が飾られていました。
こうして一人になってしまったマリア・ロサですが、キューバ国民として今もかの地に留まっています。父エルミニオの死後、家族は皆スペインに戻ってしまったのに、なぜでしょう?
「キューバ革命の前はスペイン内戦のことなど、トラウマになっていて誰にも話せなかったけれど、キューバ革命のあとは怖いものが何もなくなった」。
「革命は正義と尊厳を勝ち取ったわ。私は革命に感謝しているの。父の命と仕事の恩人でもあるわ。出て行きたい人は自由に出て行けばいい」
「ネストールは私に何度もキューバを去るよう迫ったわ。それこそ一時は精神的に参ってしまうほどだった… 物質的な誘惑で甥にも出国を促したのよ。甥はスペインで自殺したわ。弟のセルヒオもスペインに戻ったけど、一度も仕事に就けなかった。ネストールが養っていたのよ」
拙ブログ参考記事:http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10053676379.html
ところで、こうした彼女の揺るぎない革命を支持する姿勢を知るきっかけとなった記事があります。
同記事の中には、「カサ・デ・ラス・アメリカスの仕事はストレスが多く、転職を願い出たの。新しく就いた<地方の住環境改善プログラム>の仕事はとても遣り甲斐があったわ」というなかで、視察にきたフィデルと会ったときのエピソードなども語られています。
http://journalism.berkeley.edu/projects/cubans2001/story-revolution.html
私も何度かこの記事を読み、その度に「今この女性はどんな気持ちでハバナで暮らしているのだろうか」と想像したものです。まさか、本当に家を訪ね、ご本人と話ができるとは夢にも思わず…
さて、このほかに彼女から聞いた話としては、画家のレネ・ポルトカレロ
の死を見取ったこと。
アイデー・サンタ・マリア(カサ・デ・ラス・アメリカスの初代館長)の自殺は、モンカダ襲撃で無残な死を遂げた兄の悲劇によるトラウマが原因だという自説。
ギジェルモ・カブレラ・インファンテ
が(遂に明かしてしまいますが)、人の欠点や弱点をあげつらい集中的に攻撃する“鼻持ちならない人”だったこと、などなど。
結果的にこの日、マリア・ロサのお宅には4時間以上いて、ずっと彼女が語るのを聞いていたのですが、自分の意思をしっかりもち、周囲の人、キューバの人々のために働くことに生きがいを感じていた人だという印象を強く抱きました。
“自分以外のために尽くした人生”―
それゆえに、様々な悲しみや理不尽な苦悩も味わったでしょう。でも亡夫との幸せな思い出に癒されていることと思います。もちろん、彼女を温かく支える人たちも周囲にいます。
それに実際、マリア・ロサは感傷に浸る間もないくらい80歳を超えた今も、活動的な人生を送っています。というのも、父の故郷にエルミニオ・アルメンドロスの名を冠した財団が出来るから―
エルミニオ・アルメンドロス財団:http://www.qmasc.es/centro-documental-y-festero-fundacion-herminio-almendros.html
アルマンサ市での調印式(2008年)
http://www.laverdad.es/albacete/20081011/provincia/almansa-familia-herminio-almendros-20081011.html
キューバ史を彩る多くの人たちと交流のあったマリア・ロサは「絶対に自伝を書くべき」と皆から言われるそうですが、「読むのは好きだけど、書くのはキライ」
「プライベートになら話すけど、公には話さない」と応じません。
すっかり家の外も中も暗くなった頃、彼女が私に言いました。
「あなたが訊きたいことは分かっているわ。私が今どう思っているか知りたいんでしょ?」
私が彼女の目を見てうなづくと、マリア・ロサはこう言いました。
「Yo me siento bastante realizada(かなり達成感を感じているわ)」。
その言葉を聞いて安心した私は、笑顔でお暇を告げました。
すると「待ってて」と言って、持ってきてくれたのが下の写真の品々。
エルミニオ・アルメンドロス氏の著書(ホセ・マルティと子供向けの読み物)と、
彼女が仕事で滞在したオリエンテ地方の木彫りのフクロウ。
感謝の気持ちと「もう二度と会えないかもしれない」という複雑な思いでお別れしてドアを閉めると、向かった先は“恐怖のエレベーター”。
意を決して一人で乗りこみ、途中で止まるのではないかという怖れに耐えながら、無事2階に到着(壊れていて1階まで降りないのです)。
そのあとは明かりのない真っ暗な中を、崩れかけている階段を一段一段
“足さぐり”で降りながら、ようやく出口にたどり着きました。
ああ、マリア・ロサは毎日どうやって暮らしているのだろう?
折に触れ、彼女のことが思い出されます。
後日談:
昨年、彼女と再会しました。嬉しかった!
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10743806227.html