息子りんが
元夫と
初めて
療育手帳をもらったのは
2歳半のときで
息子が
診断され
1ヶ月入院し
その後
様子をみた
約半年後だった
そして当時
世界一の脳障害の情報を持ち
天才でない子どもには
一人も会ったことが無いという
アメリカの研究所の
脳障害の
リハビリをする
準備も進めていたので
療育手帳の判定結果が
全てではないのは
分かっていたが
自閉傾向のある
測定不可能の
最重度の知的障害児
と判定されたときは
その場で泣いた
そしてその後
二年ごとに
そして
わたしは
馬鹿げたことだと
よく分かっているが
一生息子に手当てを
貰うつもりはなく
いつか
療育手帳から卒業し
息子は自分の才能で
生きていってほしい
と思っていたので
息子が
アーティストという
天職を見つけて
数年後の
20歳を前に
関係者の方から
面談と判定の
連絡を頂いたときは
卒業もそう遠くないなら
分かち合える
分かち合えない関係なく
この経験を
楽しもうと思った
そして
初めて
ワクワクしながら
面談に向かうと
若い男性の
担当者さんを見て
わたしは一瞬で
「この人、好きだ」
と思った
だから
わたしは
いつもより
本音で話し続けると
わたしは
信じられなかった
そして
息子のことだけでなく
わたしの
生き方に触れると
わたしたちには
直感で生きている
という共通項も
見つかり
この会話を
楽しいとまで言って下さり
わたしも
楽しくて楽しくて
仕方がなかった
そして
息子を知ってもらう
材料の一つとして
このブログと
その中の
自叙伝というテーマを
お伝えすると
「読みます」
と言って下さり
「ああ、この方は
本当にそれをして下さる」
とわかり
わたしは初めて
信じられないような
満たされた気持ちで
帰路に着いた
次回の
息子と行く予定だった
療育判定は
わたしも
〝行かない〟と思ったが
息子も「行かない」
と言った
だからそれを
その方に
二、三ヵ月後電話で
正直に伝えると
その方は
わたしのブログの
108話までの
自叙伝だけでなく
当時
800以上ある記事の
「全てを読みました」
と言った
そして
最初わたしが
療育手帳をいつか
卒業しようと思う
と言ったときは
「まだ先だろうと思ったが
ブログを読んで
それが近いと思いました」
と言い
わたしはその
分かち合いしかない
奇跡に
電話を切って
泣き崩れた
だから
「息子が20歳を過ぎて
流れやタイミングを見て
いつか
療育手帳を卒業するときは
訪問させて貰います」
と言うと
担当の方は
「お話がしたいです」
と言ってくれ
「わたしもです」
と言い
電話を切り
そして
その後も
その分かち合いを
思い出すたびに
何度も何度も
何度も何度も
泣き発狂し
それは
この世に
わたしたちしかいないくらいの
静かなやりとりだったが
その内側は
世界中を
一瞬で巻き込むほどの
爆発が起こっていて
息子の絵や
無限の芸術の世界のように
地上天国どころではなかった