でも
このときは既に
リハビリに出会い
その準備を始めており
リハビリ資金が
必要だったので
最も障害が重く
最も手当てが多い
この事実を
わたしは
有り難く
割り切って受け入れる
ことにした
そして
その後は
二年ごとの
更新のたびに
息子は
判定を受けた
そして
わたしも
そのとき
息子の様子を
聞かれ
聞かれたことに
答えつつも
息子の
など
わたしが
本当に話したいことも
伝え続けた
それは
純粋に伝えたい
という
わたしの欲求から
だったが
その時の
関係者の方との
やり取りでは
知識は豊富だが
同じくらい
体験や智慧がある
と感じる方や
わたしは
わたしの体験は
わたしだけの物ではない
と思っていたので
それが
関係者の方の
視野の拡大になればいい
と思っていたし
他の家族の
可能性になればいい
とも思っていた
そして
関係者の方は
聞いてくれ
備考欄などに
書き留めてくれ
息子の
リハビリの変化などは
喜んでくれ
変化が知りたいからと
半年ごとに
面接をした時期も
あった
また
療育判定では
なかったが
息子が
養護学校中等部か
普通中学の特別支援学級かの
選択の面談では
面談者の方が
いつもの
耳で聞く
聞き方でなく
市内の支援学級の
ベテランの先生で
現場で常に壁にぶち当たり
同じ悩みを
共有していたからか
特別熱心に
わたしの話を
心で聴いて
感動して下さったことも
あり
わたしはずっと
その分かち合いを
求めてきたので
それが嬉しくて
面談を終えて
一人車で
号泣したこともあった
でも
療育手帳を
もらい続けた
17年のほとんどは
普通の
一般的な
やり取りで
もちろん
それが当たり前で
それに関して
嫌な思いをしたことは
一度も無く
それは本当に
有り難かった
でも
わたしは
息子の変化や成長
だけでなく
子育てや
療育や
人間にとって
大切な
直感として
受け取っていた
共通意識も
話していて
本音ではいつも
行政と保護者という
枠を越えて
共有したいと
思っていた
でも
それを
仕事ではなく
一人の人間として
心で感じる人や
直感で感じる人や
共有できる人は
ほとんどいなかった
だから
これが行政か
これが世の中か
これが普通か
これが今のわたしの現実か
と受け入れながらも
わたしは
自分が
望み過ぎていて
諦めが悪いことを
自覚をしながらも
いつも
悔しさと
悲しさと
自分の力の無さに
泣きながら
家に帰っていた