親愛なる先生へ

昨日のお手紙では、「『有限→足りない』といったような認識こそ、何とかすべき」というような話になったのでした。

ここでちょっと思いついたのですが。
一般的な印象として、「『有限→足りない』といったような認識」でいるのは、もっぱら「大人」って感じ、しませんか? 
子ども(とくに年齢が一桁くらい)だと、概して自由だから、あんまり制限って感じてなさそうですけど。
現に自分も、「つもりごっこ」っていうのかな? 
何かになりきったりして遊ぶの、大好きでした……はずでした。

さて、なぜここで「……はずでした」と付け加えたのか
それは、すっかり屈託なく「つもりごっこ
」の類を楽しむわけにはいかなかったから。
なんか、「そういうのは幼稚だからやっちゃダメ」みたいな圧力をかけられてた、っていうか……妹たちの手前、とくにそうだったのかな? 
つまり、“大人”でいないといけない感じだったのです。
だからといって、ホントに大人扱いなんてされるわけもなく。よく親同士の話に口をはさもうとして「子どもは黙ってなさい」と怒られたもんだったっけ。

要するに「都合のいいときだけ“大人”でいさせられてた」っていうことなのかなあ。
なんかつくづく、居場所がなかったんだよなあ……と思ってしまうのです。

では、今日はこのへんで。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

親愛なる先生へ

昨日のお手紙では、5月8日のお手紙にあった「辛い側」についての、いわば仮説? について、少し検証してみました。
そしてそれは、「幼少期の不幸な体験の抑圧」に起因するんでしたよね。

ここで、ちょっとここ最近のお手紙の流れを振りかえってみますと……。
もし、「無限」と認識していたのなら(証拠はないのだけど)、むやみに焦ったりしなくていいなど好印象(?)になるけれども、それが逆に、「有限→足りない」といったような認識になってしまうと、「椅子取りゲーム」に代表されるような、ともすればネガティブとも受け取られかねない状況が生じてしまうのではないか……てな感じでしたかね(乱暴なまとめ方過ぎ? )

この流れを、踏まえる、となると。
「幼少期の不幸な体験の抑圧」をどうするか? とはいっても、なんのことはない、「『有限→足りない』といったような認識」をこそ、何とかすべきじゃないか? って気がしてきちゃうんですよね。

やっぱり、引き続き考えを要する状態のようですが……。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

親愛なる先生へ


昨日のお手紙で書いた「考察」をはじめるにあたって、まず思い出したのが、だいぶ前にネットで拾っていた、つぎの文のことです。

 

  幼少期の不幸な体験の抑圧は、その後の人生に多大な影響を残します。
  たとえば小学生や中学生のとき、ちょっとしたことで怒ったり泣き出したりする子が、まわりにいなかったでしょうか。
  あるいは、ありふれた言葉なのに、ひどく傷ついてしまう子供が、まわりにいなかったでしょうか。

 

  そうした子供は、そのちょっとしたことやありふれた言葉に関係した、抑圧された体験があると考えられます。そのせいで、異常なまでの反応を示してしまうのです。

 

  それだけではありません。その異常なまでの反応のせいで、まわりの子供たちから、さらに傷つけられたり敬遠されたりして、また新たな心の傷をつくってしまうことにもなりかねません。
  そうなると、新たな耐えがたい状況から、また新たな抑圧が発生することにもなってしまいます。

 

  このように、抑圧された幼少期の不幸な体験は、次から次へと心の傷と抑圧を増やし続ける元凶ともなるわけです。

 

第1章第1節 (続き) (葛藤と不安、幼少期の不幸な体験、不安の克服)

 

もしかすると、この「ちょっとしたことで怒ったり泣き出したりする子」というのが、昨日のお手紙で言う「辛い側」にあたるってことになるのかな? と、思い付いたのです。


だってそうですよね、「椅子取りゲーム」とか「ドッジボール」とかって、本来、みんなで楽しいひとときを過ごすためにこそ存在してる、って考えるのが妥当なところなのに(きっと先生はそういう認識でおられるでしょうね)、イヤな思いをしたり怖がったりするのは、明らかに「異常なまでの反応」になってしまいますよね……。


まあとにかく、引き続き考えてみることにします。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineより


親愛なる先生へ


昨日のお手紙に書いた、「もっと桁違いに忌避していたモノ」というのは……。


なにをかくそう、「ドッジボール」なんです。

詳しいことには少なくとも今はふれるつもりはありませんが、とにかくイヤでイヤでたまらなかった。


一方で、先生はといえば、明らかにお好きなんですよね。そういうようなことを、ちょっと自慢気? に書いてらっしゃるの、拝見したことがあるもの。

もしかすると、リアルバージョンの先生とわたしとは、この点においては、全く相容れなかったかもしれないですね……。


もっとも、「ドッジボール」については、「椅子取りゲーム」とは違って、少し前にネットで論争になってたことが、ありましたっけ。

例えば、こんなブログ記事のように。

 

ドッジボール、学校での強制参加を禁止にするべきでは? | 勝部元気のラブフェミ論

 

 このブログ記事、とにかく盛りだくさんで、しかも、いちいち頷けるところ満載なのですが、中でも一番気になるのは、次の箇所です。

 

今回の一件を通して、ドッジボールほど、やって楽しい側とやられて辛い側がこれほど明確に分かれる競技は無いと感じました。楽しくやっている側は悪気は無いのですが、自己の優位性を自覚することが難しく、辛い側の心の痛みが理解しにくい。ですが、逆にそれが、余計に苦手な人が声をあげにくい雰囲気を招いているように思います。

 

 この、「楽しい側」と「辛い側」というのは、いったいどうして分かれてしまうのでしょう? 

なんかこれって、ドッジボールに限ったことではなくて、人生のあらゆる面において無縁ではないような、ひいては、それこそ先生とわたしとの違いの核心に迫れそうなほどの、重要な問題となりえる予感がしちゃったりして!?


ここはひとつ、じっくりと考察をはじめてみることにしようと思います。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineより


親愛なる先生へ


……えっと、後になってから、よく考えてみて気づいたのだけど、昨日のお手紙のような話、はたして先生に対して、してよかったのかどうか?
てか、ちょっと言い過ぎちゃったかもしれないですね!?

そもそも先生って、ご職業柄、いわゆる「レク」をされることが多いんでしょ?
そしたら当然、くだんの「椅子取りゲーム」だって、選択肢に入ってきますよね。

そんなときに、もし昨日のお手紙のようなことをグチグチ言ってベソかいてるような子がいたら、絶対困っちゃうんじゃないでしょうか。
少なくとも、場が白けちゃうのは確実ですわね。
(まあ、こーゆーのはリアルな場合の話ね。わたしの心の中だけにいる、史実を基にしたフィクションバージョンの先生は、決してそんなことはなく、常にわたしの心情にこそ寄り添ってくれるのだけれど。)

そうそう。
よく考えていて思い当たったのですが、「椅子取りゲーム」がイヤだったとはいっても、じつはまだそれほどではなく、もっと桁違いに忌避していたモノが有ったのでした……。
それについては、また次回以降に書くことにします。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより