親愛なる先生へ


昨日のお手紙にて予告した通り、「幼稚園での椅子取りゲームの問題点」について、書いてみます。


じつは、わたしが行っていた幼稚園って、キリスト教系(カトリック)だったんですよ。

(もっともわたしはクリスチャンではありません、普段西暦を使ってるけど。たまたまその地域に他に幼稚園がなかったので、仕方なくそこに行ってた、って感じでしょうか。)


で、キリスト教といえば、聖書。

以下に引用するような、たとえ話が含まれてるんですよね。

 

子どもたちは、幼稚園でたくさんの聖書の話を聞きます。 「九十九匹の羊と一匹の羊」  のたとえ 〈マタイによる福音書18章10~14節 (新約聖書35頁 「迷い出た羊の話」 ) 〉 は、その中の代表的な話です。百匹の羊の一匹が迷子になり、羊飼いが捜しに行き、見つけると、その一匹のことを喜ぶという話です。

 

一匹の羊

 

……まあ、この引用した文を書いた幼稚園(むろん、わたしが行ってた幼稚園とは違う)で「椅子取りゲーム」をやっているのかどうかはわかりません。

でも、もし「椅子取りゲーム」を積極的に行っているとしたら、おかしなことになってる気がするんですが。

だって、「一匹の羊が迷子になって捜しに行く」どころか、一人の園児をわざわざ「のけ者」にして、「敗者」の烙印を押すようなマネをしている、とも受けとれやしませんか? 下手すりゃイジメにだってつながりかねない。

「これはゲームにすぎないんだから」ってのはオトナの言い分。ちっちゃい子のなかには、そういうのわかんなくて傷ついちゃうようなタイプだってザラにいると思う。

だから、言ってることとやってることとが、かけ離れてる。「キリスト教系が聞いて呆れる」ってんですよ。


……なんだか長くなってしまったので、続きはまた次回以降に。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineより


親愛なる先生へ


昨日のお手紙の中に、久しぶりに「動作が遅い」という言葉が出てきたので、この言葉と、それに加えて5月1日のお手紙中の、何かが足りないとか、欠乏しているとか、限りがあるとか、そういう要素」とを絡めて連想すると思いつくことについて、書いてみます。


それは何かというと……例えば、「椅子取りゲーム」。

「動作が遅い」と、とにかく不利。

そして、椅子の数は、参加者の数よりも、必然的に一脚だけ「足りない」。

 

子供の頃、椅子取りゲームが嫌いだった - プチメタ3.0

 

このブログ記事、「よくぞここまで書いてくれた! 」って感じで、すごくうなずけるんです。


まあ、実社会においては、こんなゲームなんてくらべものにならないくらいに激しいポストの奪い合いってザラなんだろうから、そんな目くじらたてることはないのかもしれないですけど。


ただですね。

この「椅子取りゲーム」、自分の印象では、もっぱら幼稚園でやってた感じなのですが、このことをよく考えてみると、ある問題点が浮上してくるんです。

詳しくは、次回以降に書くことにしますね。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineより


親愛なる先生へ


昨日のお手紙に書いた「はじまりのまえ・おわりのあと」ってのは、通俗的には「前世・来世」と言えるかもしれないですね。


でもわたしは、「前世・来世」という言葉には、いまいち賛同できないんです。

だって、あまりに決めつけすぎちゃってはいないですか?


だから、決めつけないというスタンスにおいて、それでも“まえ”や“あと”が何かしらの状態であるんだ、と思っていたいんですね。


そういうふうな心境だと、なんか、例えばやたら焦るというようなことが減らせていいんじゃないか、という気がします。

とりわけ、1月14日のお手紙のとおり、「動作が遅い」のが悩みのタネだった自分としてはなおさら、ね。


さらに、つぎの文のような発想もプラスすると、なんだかもっと、ゆとりが持てる感じになります。

 

今世は試しに生まれただけかもしれない、暇つぶしに。暇つぶしなら今世が完璧じゃなくてもいいか。

 

苦しい人生を幸せに変える究極の方法とは? | ゆめうつつブログ

 

さて、今日のところは、このへんで。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineより


親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙には、こんなようなことを書いたんですよね。

あらゆるものが無限にあるなんて状況、ありえない。証拠がないから。」


でもね。

いわゆる“証拠”というのとは、ちょっと違うでしょうけど、じつは、こんなふうに考えてみると、納得できそうな気がしてくる方法があると思うんです。


それは、いわば“はじまりのまえ・おわりのあと”に着目する、ということ。

何かが存在するようになるには、必ずその前段階があるはずだし、同様に、何かが無くなったとしても、必ずその続きはあるはず。

それらを、どんどんどんどん繰り返していったら、結局無限になっちゃうんじゃないか? って。


もっとも、そんなこと、日常生活において意識するなんて、滅多にないでしょうがね。

とはいえ、わたしは子どものころ、どうやらそういうようなことを周りの大人に問い詰めて、煙たがられてたふしがあるんです。

もしかして、そういうようなとこが、「屁理屈ばっかり言う」と受け取られてたところだったのかもなあ。


それでは、今日はこのへんで。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineより


親愛なる先生へ

 

昨日のお手紙で、「『合理性』を貴ぶ背景には、何かが足りないとか、欠乏しているとか、限りがあるとか、そういう要素が大前提としてあるのでは? 」という仮説について書きました。

これについて、どういうことなのか、もっと説明しますね。


わかりやすくするために、逆に考えてみるといいと思うんですが。

もしですよ。時間もお金も体力も、もうありとあらゆるものが無限にあって、どれだけでも好きなだけ使えるのだとしたら。

そしたら、「すっきり」と「むだや無理がない」のって、とたんに凄くつまらなくなっちゃうのでは? という気がするんですよ。


だけど実際には、そんな「時間もお金も体力も、もうありとあらゆるものが無限にあって、どれだけでも好きなだけ使える」なんて状況、あるわけない。

もし、たとえほんとうはそうなのだとしても、そんな証拠、全く見当たらないですもんね。


そう、この「証拠が見当たらないからだめ」ってのも、まさにくだんの「理性による合理的思考」のなせるわざ、ってわけですよ。

そして、この「証拠」うんぬんって考え方って、やたら幅を利かせちゃってる感がある。これのせいで、いったいどれだけ窮屈な思いをしていることやら……。


ではでは。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineより