親愛なる先生へ

昨日のお手紙のような、「“奴隷”みたいになっているのは、“楽になる”から」という考え方は、どうも自分には合わないみたいです……。
というのは、「周りからウルサくいわれるのに根負けするのは、自分のせいだからだ……。」て感じに、自己嫌悪状態がどつぼにはまりそうなんだもの。

そんなこんなで考えてるうちに、ふと疑問に思ったのですが、ほかでもない、先生はいったいどうされてるんだろう? と。
(まあ、いくらこんなふうに問いかけたって、連絡の取りようがない以上、結局は自問自答に過ぎないんですが。)
わたしの見たところによれば、先生は、他の人がどう言ってこようと、いつも快活にたのしげなご様子だったのだから。

しばらくは、少しこうしたことについて、思いを巡らすことにしてみましょうか、ね……。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

親愛なる先生へ

昨日のお手紙の中に「奴隷」という言葉が出てきたのが気になって、少しググってみたところ、こんな文を見つけました。
ちょっと長めですが、引用しますね。

 

一般的には、
『奴隷の人生』というものを、
率先して選択する人などいないと、ほとんどの人が考えると思います。

 

でも、
実際は、その環境に慣れてしまうと、
人は簡単に『奴隷の人生』を強く望むようになるんです。

 

例えば、次のような言葉を聞いたことはありませんか??

 

親・親族が強く進言したから、その人と結婚した。
(あるいは、その人と結婚しなかった。)

 

配偶者・周囲の人から強く止められたので、独立・起業を諦めた。
(あるいは、他人に言われて独立・開業した。)

 

会社・上司から命じられたので、その仕事・役職を甘んじて受け入れた。
(あるいは、その仕事・役職に挑戦しなかった。)

 

友人・知人たちから批判を受けたので、自身の『夢』への挑戦を諦めた。
(あるいは、自身の意に沿わない道に進んだ。)

 

などなど。

 

おそらく、一般社会にはこれらの言葉が溢れていて、
こういった考え方をしている人は、全体の大半を占めるのかも知れません。

 

そして、
こういった方々は『大きな考え違い』をしていて、
『私は周囲の期待に応えてきた、良い子』と思っているのかも知れない。

 

しかし、
少しだけ厳しいけれど、率直な意見を言わせて頂くと、
彼ら・彼女らは、自分で『決断』して進むことの『責任』から逃げ、
他者にその『責任』を転嫁してきた『卑怯者』だと思うんです。

 

自ら『決断』して『行動』すると、
否が応でも、何かしらの『結果』が出てくるのは当然です。

 

『良い結果』が生まれることもあれば、
もちろん、『悪い結果』が生じてしまうことも、人生にはありますよね。

 

…(中略)…

 

『良い結果』が生まれた時は、喜び、自分の『権利』を主張し、
『悪い結果』が生まれた時は、他者を批判して、ぶうぶう言っていれば良い。

 

『奴隷の人生』を送ることは、慣れ切ってしまった人間からしたら、
『挑戦の人生』『自由な人生(自己責任の人生)』を生きるよりも、楽になるのです。

 

支配するサイドは『生かさず』『殺さず』与えるので、
その中で生活している分には、過度に『リスク』を取ることもありません。

 

ちょうど、『水槽の中の金魚』『檻の中のライオン』といった所でしょうか??

 

『奴隷の人生』を選択しているのは、自分自身。 | 井上耕太事務所 公式サイト

 

なんと、“奴隷”みたいになっているのは、“楽になる”から、だったなんて!? 

ちょっと意外だったけど、言われてみれば思い当たるふしがあるかも。


というのは、周りからあまりにああだこうだとウルサくいわれると、それに抗うのは、メチャメチャくたびれるのだもの。


だから、結局根負けして、しぶしぶ言われる通りにした……というありさまは、捉え方によっては、「楽になる」方を選んだということになってしまうのかも? 


なんだか、考えることが増えてしまったみたいですね!?

なにはともあれ、今日のところはこのへんで。


あなたの一番弟子(でありたい) elaineより


親愛なる先生へ

昨日のお手紙の最後の方に、「どうしても、人の言うことに従わざるをえなくなっちゃってた」と書いたのですが……。

もしかして、そういう状態って、ハッキリいって“奴隷”なんじゃないの!? なんて思いついてしまいました。(ちょっと、穏やかならぬ表現かもしれないけど。)

でもまあ、そういうふうに気づけて、むしろよかったとも言えますね。
なぜなら、何とかして“逃げ”よう! と痛感できるのだから。

問題は、今までの惰性で、また逆戻りになってしまったらどうするか? ですかね。

ちょっと時間をおいて、考えてみることにしようと思います。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

親愛なる先生へ

昨日のお手紙、ちょっと分かりにくかったと思うので、補足説明しますね。

昨日のお手紙の中の、「『なんで』ときいても『なんででもっ!(怒)』で打ち切られ」って箇所は、いわば、4月2日のお手紙に通じるところがあるのかな、と思います。
つまり、「きっぱりと言い切る表情、口調、声等の態度と、それを聞いている人たちの間に何ら不協和が見受けられなかったこと、そういった『それ…(中略)…を当然とする場の雰囲気』」に抗えなかった、て感じですかね。

それと、もしかすると、3月14日のお手紙のことも、かかわってきそうです。
というのは、
自分では、ひとからどう見えるのかが、さっぱりわかんないということ」
「いくら自分ではそうじゃないつもりでいても、誰かから例えば『見た目が不快だ』などと指摘されたら、そうなんだと認めざるを得ない」って点ですね。
要するに、どうしても、人の言うことに従わざるをえなくなっちゃってた、ていうか……。

こんなんで、説明になりましたでしょうか?
ますます意味不明になってしまっていたとしたら、スミマセン……。

ではでは。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより

親愛なる先生へ

昨日のお手紙では、「『有限→足りない』といったような認識」というのは、もっぱら「大人」が持ってるような印象で、じつは自分は変に“大人”でいさせられたのではないか……というような話になってたんじゃないかと思います。

ここでですね。
この「『有限→足りない』といったような認識」って、いわば、4月28日のお手紙で触れた「ローカルルール」といえるものに該当するのかも、と思えるのですよ。

で、自分は、「変に“大人”でいさせられた」ってのもあったのはもちろんのこと、そのほかに、こういうこともあったわけで。
例えば、納得いかないようなことがあったとして、「なんで」ときいても「なんででもっ!(怒)」で打ち切られ、納得行く返答をもらえたためしがなかった、とか……。

そういうことの積み重ねの結果、『理不尽でもローカルルール通りにするしかないんだ』と痛感するに至ったのでは? などと、思い付いたのですよね。

……なんか、分かりにくいですか? すみません。
でも、この続きはまた次回以降ってことで。

あなたの一番弟子(でありたい) elaineより