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神宮館運勢暦を読む

高島易断所本部編纂の運勢暦をややその気になって読んで見ました。


十年以上前から私は毎年、近所の高幡御不動尊で、新年の御参りの際に神宮館運勢暦を一冊買い求めることにしていたのです。


運勢暦を買ってから、神殿に向かって今年の幸せを祈り、時には般若心経などを口ずさんで、境内を回ります。


もう一つ、必ずやることは、毎年定位置に控えている甘酒屋さんから、紙コップで甘酒を一杯200円で買い、それを味わいつつ、いくつかの御堂を巡るのです。京王線の高幡不動駅から10分程度の距離にあるお不動さんは、最近、年々と参拝者の数が増え、お正月から4,5日間は客が多すぎて、参拝することも難しい状態なのです。


私は今年は1月6日に初詣をいたしました。この日は参拝客の数も手ごろで、ゆっくり楽しむことが出来ました、



神宮館運勢暦は、親の影響もあって、字が良く読めなくても、子供のころから何となく親しみがありました。


内容は、大昔に中国で発展した知恵が基になっているのであろうと思われるのですが、日本でも「中国哲学」として教えられており、明治時代には、東京大学で、宇野哲人という大先生が中国哲学として教えていたそうです。


ここで扱う神宮館運勢暦は、時間の変化と天体の動き、それに気候の変化などを巧みに組み合わせ、その組み合わせによって、人生を論じたもので、かなり強烈に人の心を動かす力があったようです。


また、その力によって、人の運勢を予測、予言する場合もありました。



私が真っ先に見るページは、九つの星の位置によって、その人の、この一年間の運勢を予測するページです。


「九星別年運・月運」と言われていますが、

それは  {一白水星・二黒土星・三碧木星・四緑木星・五黄土星・六白金星・七赤金星・八白土星・九紫火星}に分類され、この星の九個の組み合わせの中で、対応する九歳ステップの年齢者の年間の運勢を、三百六十五日(閏年では三百六十六日)で予測するのです。


毎日の予測では大変ではないかと思われますが、まず予め、年間を通しての運勢の大きな流れを解説し、日日の違いは、一言だけにする、ということで、全体がカバーされております。神宮館運勢暦を買った時に、私はまず、九星別年運月運の自分の年のページを開けます。


そして、今年は真っ白な二重丸が付けられていることを知り、驚喜します。


私は一白水星です。


そして今年一年は福徳運にあるのです。


これで、私は今年も頑張ろうという気を強くしたのです。



運勢暦の中で、もう一つ興味のあるのは、「節気」です。これは古代中国でつくられた季節区分法で、二十四節気あります。


太陽が春分点を出て再び春分点に戻るまでの動きを黄経三百六十度とします。


これを二十四等分した位置にそれぞれの節気を配置して、一か年の気候の推移を知るようにしたものです。


各節気の一区間は‘約十五日’と見做され、それが一か月に二節ずつ配置され、その前半を正節と呼び、地球がその時期に入った時を節入りといいます。


節入りには、立春、立夏、立秋、立冬、或いは、春分、夏至、秋分、冬至などがあります。



平成28年2月1日 瀬川 爾朗


岩手県人の集いにお迎えした御来賓の方々

創立以来40年以上を経た岩手県人連合会は、これまでに多くの御来賓をお招きしてまいりました。

古くは昭和50年、連合会結成時の会長ご自身が、滝沢村出身の方でありながら、全国紙毎日新聞社社長の立場に居られ、来賓としての光を放っていた参加者でもあった訳です。

また、
5年後の昭和55年には、山田町出身の鈴木善幸衆議院議員が総理大臣となられたのを機会に、ご子息の鈴木俊一現衆議院議員ご夫妻とともに来賓として参加していただいたという記録があります。

昨年(平成27年)の6月7日に例年通りの県人の集いを持ちましたが、この時にも、多くの御来賓の中にお二人のめずらしい方がおられましたので、ここで少しご紹介したいと思います。


まず御一方は、

岩手県人連合会では忘れることは出来ない岩手日報社の新社長 東根千万億(あずまね ちまお)氏です。

早稲田大学出身で、まだ大変にお若く見える方で、お名前から察せられるように、これから何でもやるぞという雰囲気が感じられるのです。

いつもと同様、昨年も大変にお世話になっている岩手日報に、今後も東北をカバーする新聞社になってもらいたいと願うばかりです。

ご本人も、自らの名前に恥じない新聞にしようとお思いではないかと期待しております。


もう一方は、

昨年岩手県立大学の学長になられた鈴木厚人(すずき あつと)氏です。

この方は新潟県の出身で、新潟大学、東北大学、東京大学、高エネルギー加速器研究機構長(KEK)などの経歴があり、また仁科記念賞、学士院賞等の受賞歴があります。

実は つくば にあるKEKの研究長は、1997年から6年間、私の東京大学物理学科の同級生 菅原寛孝氏が務めていましたが、その後、業半ばで亡くなられた戸塚洋二氏が引き継ぎ、その次に、鈴木厚人氏が引き受けられたのです。

これらの方々は、いずれも群馬県の山中、カミオカンデの施設の中で、ニュートリノの質量の研究に携わり、その最初の結論が、東京大学宇宙線研究所の梶田隆章氏によって示されたことになります。

同級生の菅原寛孝氏は仙台のお寺の息子であったと思いますが、この種の研究に、彼は大きく関わったのだなと改めて感じました。

梶田隆章氏のノーベル賞受賞の際には、鈴木厚人氏も受賞者の候補になっていたそうで、その結論が伝えられるまでは、岩手県立大学の学長室は、大勢の取材記者で、大変であったと言う話でした。


この様な話を聴くにつけ、岩手県人会レベルの集会でも、招待された来賓の名簿(職務も含めて)は、ちゃんと記録に残し、リアルタイムで参会者に知らせることが必要だと思いました。

これが参会者にとって得難いチャンスとなり、新しい生活に繋がるということも無きにしも非ず、ということで、今後大事にするべきでしょう。


岩手県人連合会のように、会を性格付けるものが「地域」だけである場合、会を構成する人材は、多岐に及びます。

地域の平均的な人材が集まると同時に、上下の差もかなりある。

この問題を解決するものは、情報を開示して、全員に実情を知らせることだと思います。


今後会の運営をこの方向で進めたいと思います。


平成28年1月1日  瀬川 爾朗

喪中のご挨拶について考える

今年も12月になると、新年の挨拶を失礼させていただきます、という喪中のハガキが増える。

年賀状を書き始める時、毎年、今年の喪中ハガキの該当者がいるのかどうかを、まず検討するのですが、親類、縁者、友人のどこまでを考えるべきなのか悩みが多い。

通常、自分ないしは妻の両親や兄弟姉妹および自分の子供たち、がそれらに含まれるでしょう。

しかし、人によっては親類縁者等知人のすべてに適用しようとする方も居られ、ある年齢を超すと喪中が増えすぎて、年賀を出せなくなる恐れがあります。

もっとも、逆のセンスの方も居られて、喪中が増えると、葉書の文面が単純になり、年賀ハガキを機械的に作れるので楽だ、などと不謹慎な考えを持っている方も居られます。


それにしても、私の所に届く喪中の対象となる方の年齢が90歳、100歳と言う方がものすごく増えてきたことに驚きます。

私の父は1895年生まれ(明治28年生れ)で69歳で亡くなりました。将に日本でのオリンピックの年でした。

母は1905年生まれ(明治38年生れ)で89歳で亡くなりました。

年齢差を考えると、母は父よりも約30年間長生きをしたのですね。

どうも、私の親の時代は、現在の超高齢者時代に至る直前の世代だったのでしょうか。


ところで、
以前にも述べたことがあるのですが、近親者の一人が亡くなった時に、年賀はその方のためにあり、他の関係者は無視して良い、ということには問題があります。

何年か前に、年賀を半分に分割し、右半分には喪中年賀を、左半分には今年の年賀を、と言うように、2種類の年賀を同時に書き込んで、発送したことがあります。

これに対する著しい反応もなく、一回限りで終わってしまいました。

しかし、喪中年賀の欠陥は、相手の喪中年賀に対して、自分からは年賀を出さない、あるいは出せないということになり、今後の年賀リストからその名前が消えてしまうことになるのです。

年賀を数百通出されている方にとって、リストから一時でも名前が消えてしまうと、永久に消えてしまう恐れがあるので、好ましくありません。


以上、年賀についていろいろ議論しましたが、数10年以上の歴史を刻んでいる人間にとって、いや、年齢が100歳を超えようとしている人類にとって、年に一度、自分や好ましい相手の想いが交換できるのは、最高の生き甲斐ではないかと思います。

私は、今改めて、年に1回の国民レベルの個人情報交換システム---年賀郵便---の得難い価値を今回敢えて特別に評価したいと思います。


個人情報の交換方法については、最近は一層高能率のシステムが普及しつつあります。

このためには、タブレットやスマートフォンなど、音声や画面によって、一瞬の内に3次元的に情報を得ることが出来ます。

このことと、年に1度だけの年賀情報とが、人の頭脳の中で見事に仕分けされて、人間の完成した行為として価値を発揮するのではないかと、考えております。



平成27年12月1日
瀬川 爾朗