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久しぶりの大卒同級会

私は東京大学物理学科を昭和36年に卒業して、38年に理学修士号、43年に理学博士号を頂いたのです。

私の時代は、関連学科が少しずつ融合する傾向にあったので、物理学科の中身は、物理学、天文学、そして地球物理学でありました。

学生の構成を見ると、物理学志望が30名程度、天文学志望が7名程度、地球物理学志望が12名程度と言う振り分けでありました。

この振り分けは、専門学科で1年半続き、残りの半年で、必修専攻科目、実習などに取り組むことになっていました。


私は始め、教養学部の時期に物理学を目指したのですが、志願者の成績の中では中位だったので、これではものにならないと思い、その次に関心のあった地球物理学に変更しました。

しかし、学部の専攻科目では、何といっても、物理数学と量子力学の授業が最も難しく、また、その習得にエネルギーを必要とする授業でした。

特に量子力学演習を担当されたF先生は、まだ若い先生でしたが、授業の後半には毎回量子力学演習の筆記試験を課したのです。

私もこれには相当に痛めつけられまして、とにかく書けばいいのでしょうとばかり、紙面一杯に書き連ねたところが、返却された解答用紙に、「分からない時には、素直に、ただ、解かりません、とだけ書いてくださいね」とのコメントがありました。

この先生は予備校の先生に似たような雰囲気がありましたが、その後、多くの業績を残した風もなく、どうなったか分からない先生です。


その後、地球物理学科プロパーの授業が始まりましたが、ここの先生方は、夏目漱石先生や寺田寅彦先生の影響を受けた方々が多く、坪井忠二先生、宮村摂三先生、永田 武先生、竹内 均、日高孝次先生などがおられました。

坪井忠二先生は私の指導教官でしたが、理学部長などもやられ、著作も多く、大変に忙しい先生でした。先生からは地球重力場論、地震発生論などを教えていただいたのです。


さて、
かつて同じ部屋で学んだ物理学関連の同級生が、その後どうなったかを振り返って見ると、9割以上が学者生活を送ったことは確かなのですが、学会が異なるために、会う機会もなく、会っても次第に話が通じなくなるという傾向がありました。

物理と天文は多少関連性が強く、話が合う部分も多いのですが、地球物理学は物理もさることながら、地質学との関連もかなり強くなり、話が通じない部分が多くなっています。

昔は、物理系と地質系は口を利くことは無い、などという、今日では間違った考えが常識とされた時代があったので、私共もその影響をある程度受けているのです。


私どもの同級会は、本年4月、本郷の東京大学の側の‘フォーレスト本郷’、これは昔の文部省共済本郷会館だったそうですが、そこで開催されました。

かつての物理、天文、地物が全員49名集まるはずですが、実際はすでに9人が亡くなっており、集まった方は30名ほどでした。

東京大学も、大学の建物が昔とは大幅に変わりましたので、私も久しぶりに行って、かなり道に迷いました。

会ではまず、30人の参加者が名前とこれまでの仕事などの話をした訳ですが、なにしろ、全員現役を退いて20年近くになるものですから、話がさっとつながらず、5年ぶりに聞く話が5分程度では、本当の気持ちは伝わらない訳です。

私にとって一番困ったのは、名前を思い出せない友達がかなり多いことだったのですが、席に1時間程居る間に、次第に昔の顔を思い出し、少し話が分かるようになったのです。

やはり、違う学会に所属しており、5年、10年と会わないでいると、話が通じないのも当然だと思います。

あと1~2年すると全員が80歳を過ぎることになるので、同級会をもっと面白くするすべを、皆で考えなければならないと、痛感いたしました。


2016年5月1日
瀬川 爾朗

わが愛する墓石

昔から人は死んで土になると言われております。

この言葉は人間の心を大変に和らげる効果があります。
石になると言うと何か固くて息が苦しくなり、水になると言うと、やがて我も人も溶け混じって頼りの無いものになりそうに思います。


我が家には子供が3人いるのですが、実は最初の2人の子供(男)は早世致しました。

私も研究生活に気を取られ、育児について家内にアドバイスできなかったものですから、早朝に研究室から戻ってきたところ、子供は亡くなっていたということがありました。

結局5人生れて3人が残ったということになります。

そして、最近では、もし生き延びていれば五十前後の年になっていたであろうと、息子達のことを時々思い出します。


先月末、天候と時間の調整が難しくてなかなか行くことが出来なかった多磨墓地の子供のお墓にお参りをしました。

多磨墓地は我が家から車で30分ほどの所に在り、我が家の墓の隣には、作家の菊池 寛(きくちひろし1888~1948、一高で芥川龍之介と同期)の墓がたまたま在った、という良い場所がくじ引きで当たったのです。

この多摩墓地をくじ引きで当てたのも大分前になるのですが、その環境の良さから、我が家としては得難い宝だと思っています。


さて、多摩墓地の我が家の墓地は、8平米の面積で、多摩墓地の中では、中の上ぐらいの広さです。

毎年の草取りは結構大変です。我が家では年に一度、家内と墓掃除に行くのですが、日頃、子供たちの住まいはバラバラなものですから、全員一緒に行くということは殆どないのです。

以前には、私も、家内と二人だけで、楽に墓掃除が出来たのですが、今回は結構大変でした。

家内は元気なのですが、私は最近ひざを痛めていて、墓を掃除することが大変な負担になって仕舞ったのです。


実は私は岩手県の寺院の生まれなので、お墓については馴染みがあり、十数代も続く寺の住職

---例えば江戸時代から今日まで---

のお墓を毎日眺めていたものです。

年代の長さで言うと200年ぐらいでしょうか。

私がいたお寺は、現在第十八代目の住職が務めております。

創立は江戸時代なのですが、十七の住職の墓石が整然と並べられております。

造りの旧新はあっても、それぞれ時代に応じた姿をとどめていることには、感激すら覚えるのです。

この姿を見るごとに、最近のプラスチックで出来ているような墓石を見るたびに、人の心は、これでは浮かばれないと、繰り返し、繰り返し思っています。


ヨーロッパでは、イスラム教とキリスト教との争いなどで、1000年、2000年に跨る遺跡が、無残にも破壊され、人類の歴史を消滅させようとする勢力が絶えません。

私もこれほど憎むべき行為はないと考えます。

私は斯かる忌まわしい行為に対しては、良識ある人類の憤りをぶつけて闘うべきであると考えております。


多磨霊園には、これまでに日本を支えた偉大なる方々の石碑、墓石が立ち並んでおります。

私共は斯かる多くの墓石に対して、人類の願いを訴えて行こうと思っています。



平成28年4月1日
瀬川 爾朗

自動車運転者のこころざし

人間が個人的にコントロールできる乗り物の代表は自動車であるが、それが大規模で、高機能となったものは電車や飛行機である。

しかし、乗り物の進化の過程において、それを運転する立場の人間が、運転を弄ぶ気になったり、運転を甘く見る癖が付いたりした時に、とんでもない事故を招くことがあります。

この事故は運転者のみならず、それとは無縁な周辺の人々に、救いがたい、また長期的な被害を与えることが常なのです。


ここ半年ほど、我が家の個人的な事情により、私が月に1000㎞ほどの走行をしなければならない状態が続いていました。

しかも、走行する地域は東京の16号線が主で、そこには自動車専用道路や、高速道路があり、スピードも時速80㎞を超す場合が多かったのです。

その結果として、自動車の運転者が、人により、或いは道路環境により、異常な運転をし、事故すれすれの、無責任な運転をしてしまうことがよくありました。


この様な体験があるものですから、自動車に関していろいろと気付いたことを二、三採りあげて見ようと思います。

まず、日時による走行の違いが目に付きます。

最も顕著なのは、日時、あるいは曜日による違いです。

通常の日と土日祭日では走行車の種類が大きく変わる事と、走り方の違いが起こります。

顕著な違いの一つは、土日祭日にはトラックや作業車の数が激減することです。

この日に限ってトラックもゆったり走っているように見えます。

それとは対照的に、乗用車、特に形の良い乗用車ほど規則に反するスピードを出し、急激な変針、変速をしながら走るように見えます。

私のように安全第一の走り方をすると、前後を走っている車は、非常にイライラするのか、あるいは格好良さを見せたいと思うのか、後ろでライトを点滅し、ホーンを鳴らし、そして左側からすれすれに追い越し、突然右前方に出る、という危ない運転をします。

最近の運転で、しばしば狭くてカーブの多い山道を運転することがあったのですが、往復一車線で、車一台やっと通れる道で、深夜に走行したときには、一車線の道を、対向車線を使って右側の道幅すれすれに追い越すという無法運転をする車に遭遇しました。

取締りの少ない深夜になると、この様な無法の車が競うようにして増えてくるようです。


自動車の扱いで、不思議に思うことは、前照灯(ライト)の使い方です。

最近、夜間運転の時、「ライトを上げて走る」車がものすごく増えたと感じています。

数十年前に受けた運転の講習では、前照灯を上げるのは、必要最小限の時だけと教えられたのですが、今はそうではない。

夜の運転では、対向車の殆どが前照灯をUPにしていて、我が方の車では、大変に眩しく、時には対向車がライトの陰になり、見えなくなることがしばしばあります。

昔は、そのような時には、自分のライトを二---三回点滅させて、相手に気づかせる、という方法をとったものですが、どうも、最近は、そうしろとは教えていないようです。

ある自動車教習所の先生に聴いたところ、教習所ではライトを上げろとは教えていないという。

ということは、運転者が自動的にライトを上げる癖が出来て、教習所では特にそれを注意しては居ないということになります。



平成28年3月1日 瀬川 爾朗