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そうだ「君が代」を唄わなければ

10月1日は、本年、たまたま46年ぶりに岩手県が担当することになった日本国民体育大会の開会式の日でありました。

 

開会式は岩手県の北上市にある北上総合運動公園北上陸上競技場というかなり広大な敷地で行われたのです。


我々岩手県人連合会からの旅行参加者は30名でしたが、9月30日の午前中に東京から新幹線で仙台に行き、そこから観光バスで岩手県入りをしたのです。

 

翌日早朝の国民体育大会開会式に間に合わせるために、30日は近くの水沢にある大寺院などを拝ませていただき、翌日に備えました。

 

初日の宿は人口6000人と言う西和賀町の静かな宿舎でした。この宿、ホテル対滝閣では町の職員によって町内を案内していただき、西和賀町の特徴を良く説明していただきました。

 

この町は、高齢者の医療費無料化及び乳児の死亡率0%を日本で初めて達成した自治体としても有名だそうです。

 

 

旅二日目である10月1日に、バスで北上陸上競技場を目指しました。周辺駐車場は予約済みの国体関係車両で満杯です。

 

会場では天皇、皇后両陛下をお迎えするという事で、一般人はIDカードと身分証明書の検査が厳しく、その厳しさは飛行場よりも大変であったと思います。

 

私共は決められた席に着席させられ、両陛下がお出でになってからは、トイレにも行けないという雰囲気でした。

 

北上陸上競技場は一万人以上の客を収容でき、選手層は数千人が収容できる場所でした。

 

会が始まると、数千人の幼児、小中高大学生、および一般人の選手たちが集合し、全員グラウンドに整列しましたが、その姿は私も久しぶりに見る、身の引き締まる光景でした。

 

70年以上前、全日本人が戦いに巻き込まれていた時代を私も微かに記憶しているのですが、「天皇陛下」という言葉を聞く、あるいは声に出す瞬間には、直立不動の体形を取り、敬礼をすることが当然であり、それを怠ると先生に殴られる、と言う時代でした。

 

岩手が主催した今回の国体では、行われた競技の得点が、東京が一位、岩手が二位という事になりました。

 

岩手としては稀に見る高得点だったのです。

 

通常、このシリーズの国体では、東京が常に一位で、主催県は8位前後(?)であれば良し、と言うのが常識なのだそうですが、今回は、先日のリオデジャネロ・オリンピックの勢いが残っていたのか、成績が良すぎたと言われております。

 

 

ところで、ただ一つだけ、私の気になることがあります。

 

このような国家的、あるいは国際的な競技会では、日本国国歌を全員で唄うのが常識となっております。

 

国際的な競技会では、大国、小国に関わらず、ほぼ全員が、しかるべき時には、大きな声でそれぞれの国歌を唄います。

 

今回の国体でも、競技の初めと終わりには、日本国の歌を唄う訳ですが、どうも、日本の選手たちの半分以上が、国歌のセリフを知らない、あるいは節を知らない、あるいは、何故か、はにかんでうつむく、と言う傾向があるのです。

 

私自身も、小学生の時代に、先生から、日本国歌を唄えと言われたかと思うと、他の先生から唄うなと言われたりした時代に育ったものですから、確かに、いまでも口ごもることがあります。

 

戦後は、文部大臣の天野貞祐が昭和20年代(吉田茂内閣時代)に、日本の国歌は「君が代」だから皆で唄いましょうという事になったのですが、日本教職員組合が「君とは現棲する天皇のことだ」といって今日まで反対の姿勢を示しているのです。

 

君が代のセリフや、メロディーなどは、大変に日本的であると言って外国からも評価されているのですが、国民全体としては考えの違いがあるのです。

 

ただ、私としては、スポーツのような、国と国とが力を競うような場合には、一国としての力を結集させる歌「君が代」をまず決めて、それに向かって、全国民が力を合わせるよう努力したいものです。
 

 

平成28年11月1日 瀬川 爾朗

 

学者や作家の著名度を諮る

人が有名になるかならないかは、必ずしも実力に依るだけではなくて、マスコミの中に躍り込んでいく気性であるのか、あるいは、その時のマスコミの「期待度」によって決まるように見えます。

 

いずれにしても、「有名度」は恐ろしいほどvarietyに富んでいて、有名になる側と、有名にする側との呼吸が一致したときに、初めて成り立つ現象だと思います。

 

従って、有名であることが、必ずしも普遍的な真理の表現ではないと考えられるのです。

 

有名であることには無数のパターンがあります。その数は将に生き物の数に匹敵すると言っても良いので、それを問題にすること自体が可笑しいのかもしれません。

 

世の中にある、自分にとって面白い事あるいは関心のある事は大変に限られているのですが、そのことが自分の胸一杯に広がっているために、それを解明することが、世の中の全てを解明するかのごとく錯覚するのです。

 

一般論はやめるとして、ここで私にとって関心のある二つのグループの人たちを紹介しましよう。

 

 

一つのグループは夏目漱石(1867---1916)を中心とする人たち、もう一つは石川啄木(1886---1912)を中心とする人たちです。

 

これらの方々は、詩人、歌人、小説家、そして学者に属する方々で、明治、大正にまたがる時代の方々なのです。

 


夏目漱石は東京で明治元年生まれ、一高、東大を出て五高教師から、英国に留学、その後、小泉八雲の後を受けて、東大の講師となりました。これ以後、「吾輩は猫である」を初めとして多くの名作を公表しました。

 

夏目漱石は文系の学者ですが、地球物理学者であり随筆家としても知られた寺田寅彦(筆名 吉村冬彦1878---1935)とも親しく、寺田寅彦の弟子である雪の博士と言われた中谷宇吉郎(1900---1962)、地震学の大家であった坪井忠二(1902---1983)などともいろいろな形で交流があったようです。

 

 

私が紹介しようとするもう一組のグループ、石川啄木、宮沢賢治(1896---1933)、そして佐々木喜善(1886---1933)の3氏は、ともに岩手県の出身で、啄木は玉山村、賢治は花巻市、そして喜善は遠野市なのです。

 

生まれが最も遅いのは宮沢賢治なのですが、啄木は早死にで、喜善は長寿なのです。

 

この中で、啄木と賢治は、日本、いや世界で和歌、俳句その他の唄で有名なのですが、佐々木喜善は、遠野物語や遠野のザシキワラシの話など、大変に郷土色の強い作品を公表しているのですが、その結果からは、岩手、日本そして世界に対するアピールが大変に弱いように見えるのです。

 

夏目漱石のグループは、大学と言うアカデミズムの中での繋がりでしたが、岩手県のような、個性の強い地域で生まれた文芸が、作家によってアピールの仕方がかなり異なるという事が、その結果を大きく左右するのかな、と思います。

 

 

ここで私が大変に関心を持っていることは、幾人かの作家が、それぞれ個人的な事情によって、取り組み方がかなり異なる時に、その地域で影響力の大きいマスコミの組織が、地域を公平に見る立場から、複数の作家(タレント)に関して、公平な記事を造るという努力をされることを期待するものです。

 

 

2016年10月1日 瀬川 爾朗

 

9月1日の関東大地震(1923年)

 

時代は少し前ですが、日本では、東京、横浜等が火の海になり、死者、負傷者、行方不明者を含めると25万人以上の犠牲者が出た 関東大地震を忘れることができません。

 

そこで、91日を防災の日と定め、国を挙げての祭日として、関係者により厳粛な儀式が行われたのです。

 

この日には、気象庁長官、地震予知連絡会会長、また内閣では総理大臣も参加して、大地震に関わる災害の制御を祈念したのでした。

 

関東大地震で被害が拡大した要因は、発震時刻が昼食時の1158分であったためでした。

 

この時、多数の家屋が火災で延焼し、5万人を超す都民が焼死してこの世を去ったのでした。

 

そこで、やや遅きに失した観があるのですが、国では、10数年前に、防災の日を新たにつくり、国を挙げての祭日にしました。

 

この儀式は年中行事とも言えたのですが、ここ10年ほど影が薄くなり、TVのニュースでは防災の日として一言話題にはいたしますが、それだけで終わってしまうような状況です。

 

 

思うに、関東大地震以後の地震学では、地震災害を防ぐには地震発生を予知することが必要であるという考えが当時の学者の主流となったので、そのため、1960年代に、萩原尊礼、坪井忠二、永田 武、日高孝次、浅田 敏 等(東大理学部と東大地震研究所)の大先生方が地震予知研究会を発足させて、地震予知は可能であるという提案書を政府に提出し、地震予知研究のための予算を政府に認めさせるという成果を上げたのでした。

 

地震予知研究費は毎年増額になりましたが、どうしても地震発生の場所、時刻、および地震規模(震度とマグニチュード)の精度が、人が求めるレベルまで到達せず、結局、予知は役に立たないと思われるようになったのです。

 

例えば、関東では今後30年以内に、マグニチュード6.9の地震が起こる、と言われても、人間には何を手掛かりにすべきかが分からず、それに対する準備の仕様がない、という事になるのです。

 

 

地震予知が腰砕けになったもう一つの要因は、あの東日本大震災(20113111445分)に対して、地震学先進国と自認していた日本が、日本海溝の軸上で発生したマグニチュード9.0の巨大地震を言い当てることが出来なかったと言う、日本の程度の悪さであったのです。

 

気象庁の担当者が最初に言った言葉は、気象庁の計測機器にはマグニチュードは、8まで、となっていたというのです。

 

その直後、米国から、マグニチュードは9だよ、と修正を要求してきたというのです。

 

 

このマグニチュードに関わる話は重大です。

 

日本の地震学は、Time Scale 100年、というのが、常識となっていたのです。多くの地震はそれで話が付くのですが、特定の場所の地震は、約1000年毎に通常より一桁大きなマグニチュードで破裂することが分かって来たのです。

 

今回の東日本大震災が、実は9世紀に起こった日本海溝の大地震に対応するものではないか、と推定されております。

 

1000年に一度の地震では合わないという人も居るかもしれませんが、今、日本が位置する、太平洋を取り巻く「環太平洋地震帯」では、千島列島、アリューシャン列島、アラスカ、カナダ、北アメリカ、南アメリカ、インドネシア、琉球列島、伊豆小笠原、日本列島を含め、マグニチュード9前後の地震がしばしば起っていることが分かるのです。

 

私共日本人は、現在、生活が国際化している訳ですが、地震を見る目も、国際化する必要があることが明らかになってきましたね。

 

 

平成28年9月1日  瀬川 爾朗