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海はどうなっているのか


若い頃、田舎の高等学校から突然東京の大学に入り、まだ授業のカリキュラムにも書かれなかった‘海洋研究’の世界に足を突っ込んだとき、私は、ああやっと本当に大事なことを見つけたのかな、という強い感覚を抱いたのです。

この時代は海の研究と言えば漁業と津波、波浪、天気予報に関わる事に限られ、地球の重要部分としての、陸とは違う海を対象にすることはありませんでした。

海洋に関わる日本の大学には、東京水産大学、東京商船大学、気象大学校(すべて旧称)等があるのみでした。

これらの大学は、現在は統合され、東京海洋大学等と改名されております。

その後、一般の大学では、大学教育の中で教養として海洋を取り入れ、学科を増設することにより、研究の幅を広げてきたことが伺えます。

しかし、本格的な海洋への取り組みは、海洋研究所を新たに設けるという方向に進んだのです。

この方面の研究では、やはり、米国が最も進んでおり、マサチューセッツ州のウッズホール海洋研究所やカリフォルニア州のスクリップス海洋研究所などが陸海地球深部研究に関する大きな組織を持っていました。

これらの研究所の特徴は、中古船ではありますが、研究専用の大型鋼船も所有していました。

この時期は私も20--40代の頃でしたので、これら外国の著名な研究者と接することによって、新しい研究の方向を模索したのです。

この研究の為に私はできるだけ多くの船に乗り、海をよく見、海洋現象を把握することに務めました。

これによる私の乗船暦は約2,000日位であったと思います。

初めて世界の海洋に出て、船上で地球物理学的観測を行い、外国の港から上陸し、現地人との付き合いもしたのは25歳過ぎてからでした。

このころ、たまたま、地球の海洋の中で未知の部分が多いのはインド洋だという国際的な認識があり、世界の海洋調査船がインド洋に集まったのです。

時は1961年頃だと思います。世界の7ヵ国から10数隻の大型調査船が集結したのです。

このインド洋調査は国際的にはI.I.O.E. (International Indian Ocean Expedition ) と呼ばれ、私が参加した航海はオーストラリアを周回する約120日の航海でした。

私は船の長期航海は初めてだったのですが、幸い船酔いをしない体質だったので、快適に過ごすことが出来たのです、この時私が乗船した東京水産大学 海鷹丸 は、一生忘れることが出来ない思い出の多い船となりました。


さて、外国の調査船での経験で忘れることが出来ない船は、もう1隻、ウッズホール海洋研究所のチェインでした。

もともと米国海軍に所属した1000トン程度の船でしたが、私はこのチェインだけで70日乗っていたのです。

その節、つまり1971年ごろ、チェインは南太平洋の海底の地質地球物理学的調査に携わり、ウッズホール海洋研究所のカール・ボーイン博士とアーサー・マックスウェル博士が調査の主任を務めました。

カールは海上重力の研究者、アーサーは地球熱学の研究者でした。チェインに乗船した70日の間では、私にとって最も関心のあった搭載観測機器の勉強をしました。

船上重力測定器、地磁気測定器、海底熱流量測定器、海底堆積物採取装置、深海底測深儀、垂直海水温プロファイラーなどでした。

しかし、当時最も印象的であったのは、米国が世界中に展開したGPS精密測位装置なのです。

この装置の地球上の測位精度は、現在では、10cm---1cmにまで高められているのです。

GPS(人工衛星グローバル測位装置)の利用は、今でこそ当たり前になりつつありますが、1970年代では、気軽に使えるというものではありませんでした。

これら船上観測機器の勉強は、その後、日本へ帰ってからの海洋研究船の利用に関して、大変に役に立ったと考えます。


それにしても、外国研究船での一人旅は、後日思い起こすと、自らも驚くほどの効果、刺激があったと、痛感しております。

しかし、途中では様々な問題が起こりました。チェインに乗った時には、ハワイ島、サモア島、タヒチ島を経て、中米のパナマへたどり着いたのですが、船はそこで数日停泊すると言うので、私は観光の為、パナマから対岸のコロンへ行ったのです。

パナマ運河を超える景色はなかなか良かったのですが、コロンに入った途端に、ひったくりに会い、持ち金を全て盗られてしまいました。

私はそのひったくりを追いかけたのですが、そのドロボーは周りの家の軒下を逃げ回り、追いつくことが出来ません。

なお悪いことには、周りの家の人々は、皆ドロボーの味方をし、私の動きの邪魔をするのです。

これでは私も諦めざるを得ず、たまたま会った警察に訴えたところが、

その警察官は、

「ドロボーが何処にいるのかは神様しか知りません。1ドルを上げるから、これでパナマまで帰ってください。」

となだめられて、やっと解放されました。

後で思い起こすと、これも一つの賢い解決方法なのだと、感服しました。


チェインの乗組員は大変に人懐こい方々ばかりでした。ところが聞いてみると、乗組員は全員アイルランド人だというのです。

何故かと聞いたところ、イギリスには、イングランド、スコットランド、アイルランドが在るけれども、船乗りになるのはアイルランド人のみで、そのアイルランド人が雇われて、米国の船を動かしているのだそうです。

港に接岸すると、皆上陸して飲み歩きます。私はこのアイルランド人達に誘われ、毎日タダで飲まされました。

彼らはかなり良い給料で働いているらしく、お金が余って困るなどとぼやいているのです。

しかし、彼らにも大変な時があり、航海中にエンジンなどに故障が起きると、乗組員がそれを修理しなければならなくなります。

私もその様子を度々拝見しましたが、故障したらいつも造船所を呼ぶ、と言うような、日本流は通用しないのです。


以上、

私の20--30代での海で鍛えられたお話をしました。いろいろ問題がある訳ですが、何といっても、海をじっと見て、海の心を思惟することが最も大事であると思っています。



2016年8月1日 瀬川 爾朗

遠野市佐々木喜善と岩手県人

私はここ10年以上の間、日本で最も広い県と言われる「岩手県」から、偶々東京に定住するようになった方々と非常に良くお付き合いする立場になり、そのおかげで東京ではなくて、逆に、岩手のことを良く知るようになったのです。

その理由の一つは、岩手の約100市町村がそれぞれ東京で結成した ふるさと会 の集まりを毎年開催して、岩手県人会の会長等を呼んで、県内の市町村の特徴、特技を互いに紹介し合うと言う行事を皆でやったからなのです。

このお蔭で、私も岩手県の市町村の構成や特徴が次第に分かって来たのですが、それらの情報から、これまでの浅い知識を全く覆すものも出てまいりました。


岩手県は市町村が最終的な行政区画ですが、市町村と県の間に、あまり使われない「郡」という区分があり、これが時に重要な意味を持つことがあります。

私の父(故人)の昔の住所は 岩手県紫波郡紫波町二日町---と言うような長い住所でした。

同じことは、私の故郷の釜石にも当てはまり、釜石市の正しい表現は、岩手県上閉伊郡釜石市---ということになるのです。

この‘郡’と言う区画は、江戸から明治にかけて公用されていた一つの区画で、実は現在でも生きており、必要に応じて使われています。

今ここで話題になっている区画では、岩手県の三陸沿岸に沿って存在する上閉伊郡と下閉伊郡です。

上閉伊郡は現在の土地では、遠野市、釜石市(鵜の住まいを含む)、と大槌町までを含み、一方、山田町や合併後の宮古市はやはり全体として下閉伊郡と呼ばれているのです。

現在はこのような言われ方はあまり重要視されないのですが、地域の分別に使われることも多いのです。

上閉伊、下閉伊といわれる「閉伊」という言葉は、昔、伊達藩に居た閉伊という苗字の侍の領地をさしており、その呼び名が、現在も必要に応じて使われるらしい。

面白いことに、現行の岩手県人連合会の中での地域分けに、この郡が厳格に使われているのです。


さて、郡で分けられるグループは、岩手県人連合会の中では厳密に守られているのですが、特に上閉伊郡遠野市が、他の上閉伊郡(釜石市など)の市町村とは異なって、海岸線から離れ、山を越えて内陸部へ入り込んでいることが、外から見た時に、やや不思議さを催すのです。

岩手県のような広大な県では、そのようなことは当たり前だという人もいる訳ですが、実は地形或いは地塊の違いが、その土地に余所にはない特異な文化を生み出すのだという考えもあるのです。

遠野市が生んだ異才 佐々木喜善、喜善の得難いアドバイザーで、「遠野物語」を完成させた柳田國男、喜善を評して「日本のグリム」が生まれた、と言った金田一京助、等によって、岩手県の中でも遠野市らしい固有の文化が明かされつつあります。


佐々木喜善は47年間の生涯の間に、当時の日本文壇の代表的な作家との多くの交流がありました。

石川啄木と喜善とは同じ年(1886年)に生まれており、啄木より10年遅れて生まれた宮沢賢治と喜善とは同じ年(1933年)に亡くなっているのです。

喜善の伝記をいろいろと書かれている遠野生まれの作家 佐藤誠輔(さとうせいゆう)氏の言葉によれば、世間での評価が、一方的に啄木、賢治の2人に偏っているのは不自然で、ほぼ同じ時代の、また、共に生活も大変であった、遠野のユニークな作家 佐々木喜善 を、同じく評価すべきではないのか、と述べております。


佐々木喜善は現在の遠野駅の北側にある「土淵」で生まれ、土淵小学校を出て、17歳には岩手医学校を中退していますが、その後文系を心がけ、上京して作家の道を彷徨うことになります。

この後の喜善の仕事は、遠野の民話を纏めることでありました。

例えば、奥州のザシキワラシの話など、これらは祖父母から炉端話に聞かされたものでありました。

ザシキワラシとは、赤髪垂髪の、およそ5-6歳ぐらいの子供で、土地の豪家や旧家の奥座敷などに居るものだという事でありました。

ザシキワラシが居る間は家の富貴繁盛が続き、もし居なくなると家運の傾く前兆だと言われておりました。

喜善の関わる昔話には、この他に、老媼夜譚(ろうおうやたん)(1923年---)、聴耳草紙(ちょうじそうし)(1928年---)などがあります。


老媼夜譚では、村の辷石谷江(はねいしたにえ)と言うお婆さんと親しくなり、お婆さんの話す昔話を170種ほど聞き取ることが出来たのです。

しかし話の数は、お婆さんの気分によって決まるので、時には10日間も、お婆さんの愚痴のみを聴くこともあったのです。

聴耳草紙は老媼夜譚と異なり、大勢の語り手に協力してもらって作られたものでありました。

この本が出来て以後、多くの若い人が、喜善の跡を継ぐべく現れてきたのです。

※老媼夜譚(国立国会図書館で参照できます)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1464152


佐々木喜善は1933年に47歳で腎臓病の為に亡くなりました。此の前年には何度か、花巻で宮沢賢治と会っていたらしい。

その後、宮沢賢治はあたかも、喜善と打ち合わせた如くに、同年にお亡くなりになったのです。



平成28年7月1日 瀬川 爾朗

在京白堊会々員と飲む

さる5月半ばは、私にとって記念すべき時でありました。

これまで色々な経緯はあったのですが、岩手県人会としては無視できない存在であり、県人会の創設グループの一つでもあった盛岡一高の卒業生が運営する 在京白堊会 に招待されたのです。

かつては創設者の一人と見做された在京白堊会が、ある時期以後、岩手県人連合会に顔を出さなくなった理由は、これまで10年間その会長を務めてきた私にも、本当には良くは分からないことだったのです。

察するに、そのことが過去のある時期に自然に起こったことらしいので、やはり然るべき理由があったのでしょう。


在京白堊会は簡単に言えば、盛岡一高の在京同窓会です。

しかし、岩手県の中では優秀な学生は盛岡一高に集まるという傾向があるので、東京に出てからでも、彼らは元気がいいというのが本当でしょう。

先日開かれた白堊会にも、270人位の参加者があったという事なので、岩手県人連合会の400—500人に迫る勢いなのです。


私は岩手県立釜石高等学校の出身ですので、釜石市では「新日鉄釜石」が圧倒的な勢力を持ち、新日鉄が旗を振り、漁業がその下支えをするという街の中で育ったのです。

唯一つ、釜石の一般の方とは異なることは、私の親が盛岡で育ち、佛教の僧侶ということで釜石のお寺に派遣されたという事情から、釜石育ちとはやや異なる育ちになりました。

私の父親は、東京大学の中国哲学科の出身で、漢学の大家である宇野哲人博士の研究室に居りました。

その時に(1923年)、偶々関東大震災で東京が全滅し、やむを得ず、家族を連れて盛岡に戻り、盛岡中学(今の盛岡一高)の漢文の先生を内職として3年間つとめたと言っておりました。

その後、父親は、釜石の先住職の遺言によって、東京を引き上げ、釜石の石応禅寺と、その後建造された釜石大観音をお守することになった訳です。


父親は貧乏の中で大学まで進んだものですから、子供に対しても学校を選ばせるということはしませんでした。

釜石に居た私に対しても、盛岡で勉強しなさいなどとは一言も言わなかったのです。

そのお蔭で、東京での大学受験では、ちょっと苦労をしたのですが。


さて、先日の在京白堊会、私も本当に高校生の頃の昔を思い出しました。

会は校歌の大合唱で始まりました。いくつかの校歌、応援歌が勢いのよい太鼓の音と共に歌われました。

私も久しぶりに若さをとり戻し、声の限りに杯をさしあげ、お酒を楽しんだのです。岩手県には他に幾つか、学校単位のふるさと会がありますが、必ずしも元気があるとは言えません。

むしろ、最近では、学校単位のふるさと会が消滅する傾向があるのです。その第一の理由が、地方都市の学校の生徒数の減少、それと同時進行する町の住民の減少、です。


本年は、岩手県が46年ぶりの国民体育大会の当番県となっています。

岩手県を元気にするには、県民がスポーツで体と心を鍛えることも、重要な行きかたです。

今後、私共も、スポーツを愛し、時に、美味しい岩手のお酒に親しむ、という心掛けで生きて行こうではありませんか。


2016年6月1日
岩手県人連合会 会長 瀬川 爾朗