在京白堊会々員と飲む
さる5月半ばは、私にとって記念すべき時でありました。
これまで色々な経緯はあったのですが、岩手県人会としては無視できない存在であり、県人会の創設グループの一つでもあった盛岡一高の卒業生が運営する 在京白堊会 に招待されたのです。
かつては創設者の一人と見做された在京白堊会が、ある時期以後、岩手県人連合会に顔を出さなくなった理由は、これまで10年間その会長を務めてきた私にも、本当には良くは分からないことだったのです。
察するに、そのことが過去のある時期に自然に起こったことらしいので、やはり然るべき理由があったのでしょう。
在京白堊会は簡単に言えば、盛岡一高の在京同窓会です。
しかし、岩手県の中では優秀な学生は盛岡一高に集まるという傾向があるので、東京に出てからでも、彼らは元気がいいというのが本当でしょう。
先日開かれた白堊会にも、270人位の参加者があったという事なので、岩手県人連合会の400—500人に迫る勢いなのです。
私は岩手県立釜石高等学校の出身ですので、釜石市では「新日鉄釜石」が圧倒的な勢力を持ち、新日鉄が旗を振り、漁業がその下支えをするという街の中で育ったのです。
唯一つ、釜石の一般の方とは異なることは、私の親が盛岡で育ち、佛教の僧侶ということで釜石のお寺に派遣されたという事情から、釜石育ちとはやや異なる育ちになりました。
私の父親は、東京大学の中国哲学科の出身で、漢学の大家である宇野哲人博士の研究室に居りました。
その時に(1923年)、偶々関東大震災で東京が全滅し、やむを得ず、家族を連れて盛岡に戻り、盛岡中学(今の盛岡一高)の漢文の先生を内職として3年間つとめたと言っておりました。
その後、父親は、釜石の先住職の遺言によって、東京を引き上げ、釜石の石応禅寺と、その後建造された釜石大観音をお守することになった訳です。
父親は貧乏の中で大学まで進んだものですから、子供に対しても学校を選ばせるということはしませんでした。
釜石に居た私に対しても、盛岡で勉強しなさいなどとは一言も言わなかったのです。
そのお蔭で、東京での大学受験では、ちょっと苦労をしたのですが。
さて、先日の在京白堊会、私も本当に高校生の頃の昔を思い出しました。
会は校歌の大合唱で始まりました。いくつかの校歌、応援歌が勢いのよい太鼓の音と共に歌われました。
私も久しぶりに若さをとり戻し、声の限りに杯をさしあげ、お酒を楽しんだのです。岩手県には他に幾つか、学校単位のふるさと会がありますが、必ずしも元気があるとは言えません。
むしろ、最近では、学校単位のふるさと会が消滅する傾向があるのです。その第一の理由が、地方都市の学校の生徒数の減少、それと同時進行する町の住民の減少、です。
本年は、岩手県が46年ぶりの国民体育大会の当番県となっています。
岩手県を元気にするには、県民がスポーツで体と心を鍛えることも、重要な行きかたです。
今後、私共も、スポーツを愛し、時に、美味しい岩手のお酒に親しむ、という心掛けで生きて行こうではありませんか。
2016年6月1日
岩手県人連合会 会長 瀬川 爾朗
これまで色々な経緯はあったのですが、岩手県人会としては無視できない存在であり、県人会の創設グループの一つでもあった盛岡一高の卒業生が運営する 在京白堊会 に招待されたのです。
かつては創設者の一人と見做された在京白堊会が、ある時期以後、岩手県人連合会に顔を出さなくなった理由は、これまで10年間その会長を務めてきた私にも、本当には良くは分からないことだったのです。
察するに、そのことが過去のある時期に自然に起こったことらしいので、やはり然るべき理由があったのでしょう。
在京白堊会は簡単に言えば、盛岡一高の在京同窓会です。
しかし、岩手県の中では優秀な学生は盛岡一高に集まるという傾向があるので、東京に出てからでも、彼らは元気がいいというのが本当でしょう。
先日開かれた白堊会にも、270人位の参加者があったという事なので、岩手県人連合会の400—500人に迫る勢いなのです。
私は岩手県立釜石高等学校の出身ですので、釜石市では「新日鉄釜石」が圧倒的な勢力を持ち、新日鉄が旗を振り、漁業がその下支えをするという街の中で育ったのです。
唯一つ、釜石の一般の方とは異なることは、私の親が盛岡で育ち、佛教の僧侶ということで釜石のお寺に派遣されたという事情から、釜石育ちとはやや異なる育ちになりました。
私の父親は、東京大学の中国哲学科の出身で、漢学の大家である宇野哲人博士の研究室に居りました。
その時に(1923年)、偶々関東大震災で東京が全滅し、やむを得ず、家族を連れて盛岡に戻り、盛岡中学(今の盛岡一高)の漢文の先生を内職として3年間つとめたと言っておりました。
その後、父親は、釜石の先住職の遺言によって、東京を引き上げ、釜石の石応禅寺と、その後建造された釜石大観音をお守することになった訳です。
父親は貧乏の中で大学まで進んだものですから、子供に対しても学校を選ばせるということはしませんでした。
釜石に居た私に対しても、盛岡で勉強しなさいなどとは一言も言わなかったのです。
そのお蔭で、東京での大学受験では、ちょっと苦労をしたのですが。
さて、先日の在京白堊会、私も本当に高校生の頃の昔を思い出しました。
会は校歌の大合唱で始まりました。いくつかの校歌、応援歌が勢いのよい太鼓の音と共に歌われました。
私も久しぶりに若さをとり戻し、声の限りに杯をさしあげ、お酒を楽しんだのです。岩手県には他に幾つか、学校単位のふるさと会がありますが、必ずしも元気があるとは言えません。
むしろ、最近では、学校単位のふるさと会が消滅する傾向があるのです。その第一の理由が、地方都市の学校の生徒数の減少、それと同時進行する町の住民の減少、です。
本年は、岩手県が46年ぶりの国民体育大会の当番県となっています。
岩手県を元気にするには、県民がスポーツで体と心を鍛えることも、重要な行きかたです。
今後、私共も、スポーツを愛し、時に、美味しい岩手のお酒に親しむ、という心掛けで生きて行こうではありませんか。
2016年6月1日
岩手県人連合会 会長 瀬川 爾朗