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長かった海洋生活の想い出

私の枕元には父と母の白黒の写真が貼ってあり、これがすでに60年以上の年代物になっている。
 
身内と別れて東京に住むようになって以来、私はこの写真と離れたことが無い。
 
東京の下宿に居た大学生時代、この写真に向かって、思わず「父さん、母さん」と呼ぶことがありました。
 
もちろん写真は何も言わないが、私の父と母は、必ず「どうしたの?」と聴いてくれたような気がするのです。
 
私は18歳までは親から離れたことは無く、かといって、親に厄介がられたことも無くて、その後東京の大学生活で独立した訳ですが、大学生時代のある時期に、思い余って、女性問題について父親に手紙を書いたことがあるのです。
 
少年時代からこの時まで、日常のいかなる場面でも、父と女性問題の話をしたことは無かったのですが、手紙だからこそ、それが可能になったのかもしれません。
 
この時の父の返事は、人間には一度や二度はそう言うことがあるものだ、という内容で、その時には何をしなさいという返事は全くありませんでした。今考えると、これが私の大変に短い青春時代だったかもしれません。
 

この後、初めは全く予想もしなかった、新しい生活が始まったのです。
 
当時私が所属していた東京大学の理学部の意向により、世界の海の研究を目的とした東大付属海洋研究所が創設(1965)され、大陸研究に対蹠する海洋研究が本格的に始められたのです。
 
何しろ、東京大学は当時、海については素人であったので、先輩大学である東京水産大学などとの協力関係により、世界の海洋を、数千メートル深の海底まで、物理的、化学的、地質学的、および生物水産学的に研究しようとする計画が伸展したのです。
 
 
この人生の大改革?の時期に、自分の研究は半ばでありながら、遂に結婚を先にすることになりました。
 
私の生活を陰ながら観察していた10歳年上の兄が、「あの男は結婚させないとだめだな」と親父に行ったらしいのです。
 
お蔭様で、大問題にならず、私は結婚が出来、何の可のと言って、落ち着いた生活を保つことが出来たわけです。
 

この後の私の生活は、毎年120日以上にわたる海での生活による世界に跨る海洋と海底の研究でした。
 
海域は環太平洋と大西洋の一部でしたが、オーストラリア、パプアニューギニア、ソロモン諸島、サモア島、タヒチ島など、最近の方々は、観光地としか見做さない所で、基本的な調査をしたのです。
 
もちろん観光地としても、興味深い所だったのです。これ以後30-40年あとの現在、オーストラリアのカンガルーやコアラベアーなどの原始動物が、日本の動物園で人気があるのは、ご存知の通りですが、実は私がそれ以上に驚いたのは、その時代に、オーストラリア生え抜きの、本当に真黒な原住民を見た時でした。
 
体色は真に真っ黒で、日陰で一緒に撮った写真を見ると、私の顔は写るのに、彼らの顔は写真に写らないと思えるほどでした。
 

日本から見ると、太平洋は近いのですが、大西洋となると、やはり近づきがたい部分があるのですね。
 
私の調査では、大西洋には、パナマ運河経由が最も近いのですが、陸路でパナマ運河を経由するとすれば、太平洋側のパナマから大西洋側のコロンまで、約1時間の電車で行くことになります(これはだいぶ以前の情報なので、現在でははるかに便利になっているでしょう)。
 
私もよく解からない状態で、まあ何とかなるだろうという安易な考えで出発しました。
 
パナマから電車でコロンにつき、初めて見る大西洋に感激して、カメラをいじっていたところ、突然背中に男が圧し掛かってきて、私のポケットに手を突っ込み、財布を抜き取って行きました。
 
手に持っていたニコンカメラには振り向かず、私のポケットの方を狙ったのです。
 
この時、私も慌てて、男を追いかけたのですが、男の逃げ足は速く、周辺に立ち並んでいた住まいから、この様子を見ていた住民が、皆、泥棒に拍手をして、私の追跡の邪魔をしたのです。
 
私も、たまたま通りかかった巡査に、このことを訴えると、
 
「ああ、それは神様しか救えない。この1ドルをあげるから、パナマに帰りなさい」
 
という有難い様な有難くないような返事をして、私に1ドルをくれたのです。
 
この事件で、私が最も強く感じたのは、現地のお巡りさんは、旅行者が本当に困っている部分を良く理解していること、パナマの国民を本当に助けるにはどうしたら良いのかを、やはり大変に良く理解しているという事でした。

 
平成29年2月1日 瀬川 爾朗
 

地震予報は今のままで良いだろうか

最近の地震予報、あるいは地震情報の報道はこれで良いのだろうかと思っている。

 

2011年の東日本大震災の影響により、地震報道は大変に細かく、その内容も深くなったと見えるのですが、実情はどうも、地震の本当のことを教えていないように聞こえるのです。

 

地震情報は東日本大震災の発生を契機に、大変に強化されたように見えるのですが、どうも、未だ核心にふれていないのではないかと思われます。

 

報道の現状は、まず、地震の強さ、地震の深さ、地理的分布、過去の地震との関連、および東日本全域の地震との相関、等が議論されています。

 

しかし、地震を起こす原因につながる地理的、物理的現象には触れておりません。

 

話を東日本大震災に限れば、何故この地震があれほどの規模になり、海陸に跨ってあれほどの破壊につながったのかを考えざるを得ません。

 

当時、日本の地震学者は、ほぼ100年周期の地震発生に気を配ることが重要であると考えておりました。

 

100年周期の場合、今回のような大規模な地震を考慮しなくても済むと考えたのです。

 

ところが、日本の地震では、太平洋を一周する「環太平洋地震帯」を忘れてはいけないのに、実は、忘れていたのです。

 

日本の過去の地震発生の履歴を見ると、大地震の発生頻度は、100年と見て置けばまあ間違いは無いと思われていました。

 

事実、江戸時代以後の地震については、100年のスケールで、震度8位までを考えれば、地震発生は説明できると思っていたようです。

 

この当てはめが崩れたのは、一つの大地震の繰り返し周期が、どうも100年では当てはまらないのではないか、という切実な要請に依るのです。

 

日本を除く環太平洋地震帯では、しばしばマグニチュード9以上の地震が起きています。

 

ところが2011年3月11日の震災では、東京の気象庁の地震計では、マグニチュード8.0以上の地震は測定範囲外、という事で、気象庁の職員ですら、当惑したようなのです。

 

しかし、とっさのことですから、止むをえず、マグニチュード8.0と発表したところ、間もなく、米国より、この地震はマグニチュード8ではなく、9であると言ってきました。

 

巨大地震については、日本がいかに遅れていたかが、このことでよく解かったのです。

 

一般に、今回のような東太平洋大震災では、アリューシャン列島やインドネシア諸島などと同様に、陸地から100—200km離れた「海洋プレート沈み込み帯」で強烈なプレート断層が発生し、それが陸側のプレートを二次的に移動させて、それが陸上の地震を発生させている訳です。

 

東日本大震災の例では、日本海溝を維持している海洋プレートが、突然50mほど西側下方に滑り落ちることによって、その上に乗っかっていた東日本の列島のプレートが、突然西側への落ち込みの圧力が消えたので、逆に東側に5mほど反動し、ストレスが解消されたという事になるのです。

 

この時、東日本のプレートは、地表での測位の結果、50cmほど東に移動していたという事がわかっています。

 

つまり、東日本大震災では、太平洋プレートが西向きに50mほど潜り込んだことによって、東日本のプレートが東向きにその1%に及ぶ50cmだけ移動し、その為に、あれだけの巨大な災害を起こしたという事になるのです。

 

我が家が乗っかっている大地が突然50㎝移動するという事は、家を破壊に導いても、不思議ではないと考えられます。

 

今後、我々にとって必要なことは、地震の予測は、少なくとも1000年のタイムスケールで検討すべきこと、そして、地震発生に関わる十分に広大なプレートを同時に扱う必要があること、その上で、防災の対策をしっかり行うことが大事だという事になります。
 

 

平成29年1月1日

瀬川 爾朗

 

同級会の楽しさと寂しさ

今年は辞めようと思っていた学校の同級会も、間際になって、仲間から催促の電話やファックスが来て、結局、またやろうと言うことになってしまう。

 

年寄りにとっての同級会とは、つまり、こう言うことなのですね。


かくして、年末を迎えた本年も、私は、同級会・同窓会を5-6回やってしまったのです。ちなみに私は、本年満80歳になりました。

 

 

岩手県での今年の最大の行事は、やはり、岩手県が46年ぶりに主催した国民体育大会(正常者、身障者を含む)でした。

 

平成28年10月1日に開会式が行われたのは北上市北上総合運動公園の北上陸上競技場でした。

 

競技場には数千人の客がおり、その中で我々は、僅か30人の「岩手県人連合会の同好会員」だったわけですが、この開会式では、天皇・皇后両陛下も参加された為に、我々庶民の会場への入場規制はなかなか大変なものでした。

 

私も実は両陛下とのお付き合いは初めてなものですから、大変堅苦しいことだったのですが、第二次世界大戦直後の昔の経験を思い出すと、緊張と、ある種の懐かしさが身体を撫でていくのを感じました。

 

この日本国民体育大会の成果では、日本の50数県の中で、岩手県勢が東京都に次いで、全国第2位の成績であったという事で、私共も、思わず万歳を叫ぶことになったのです。

 

この大会で、出場した全国の運動選手たちは、皆「君が代」を歌った訳ですが、戦中派の私などから見れば、やや歌唱力に乏しく、もっと気合を入れてやりたい気持ちでした。

 

 

さて、11月になると、今度は、すでに4年ほど続けている私の小学校の同級会がやってきました。

 

話せば長くなるのですが、私の小学校(当時の国民学校)は、父の生地である岩手県紫波郡紫波町にありました。

 

昭和19年~20年の頃ですが、当時、私の本来の居住地は、岩手県釜石市にあったのです。

 

しかし、この年は米国が日本に対して原爆投下を含めた最後の襲撃を計画していました。

 

私の居住地であった岩手県釜石は、日本の代表的な鉄工所である巨大な富士製鉄所があった場所なので、それを潰そうと、米国の航空母艦と多数のグラマン戦闘機が釜石湾に侵入して、その製鉄所と釜石の街、及び人を全滅にすべく、しばしば攻撃を繰り返したのです。

 

結果として、釜石は全滅し、私は親の実家である岩手県紫波郡紫波町に転居し、そこの小学校に入ったのでした。

 

しかし、小学生時代のことは、その後の友達関係で、殆ど忘れてしまう事が多くて、紫波町を去ってからは、数10年間、小学校のことを忘れていたのです。

 

ところが約4年前にその小学校の関係者によって、私と彼らとが、70年の壁を越えて、観音様のお力により、再結合されることになったのです。

 

念彼観音力 刀尋段段壊(法華経普門品)。観音様救い給え。

 

私も、米軍の戦闘機グラマンの弾に狙われたことがありました。

 

幸い救われましたが、その観音様の御心により、当時6歳であった私に現今80歳の友達を作ってくれたのです。

 

そのお蔭で、先日 11月13日には昔の実家であった岩手県紫波郡紫波町の古館小学校の同級会に参加できたのです。

 

この時の仲間は、これまでで最も少ない11名でした。

 

欠席者からのハガキによるコメントには、やはり80歳になると、

 

体が”難儀になって”

 

という言葉が増えてきました。

 

確かにそうなのですが、逆に、言い訳の為に80歳と言う言葉を利用しているのではないの、と言いたくなる面も無きにしもあらずなのです。

 

最後に、忘れてはいけない釜石高等学校の昭和30年卒業の仲間です。私はこの後東京の大学へ進んだものですから、日常生活が大幅に変化したきっかけとなったのです。

 

この時期から、日本もやっと敗戦の侘しさから浮かび出て、一国としての大発展につながる時が始まりました。

 

この時期は、しかし、同級生の結合は意外に薄弱で、めいめいが己の専門に取りつかれて、仲間のことを忘れていた時期だと思うのです。

 

やがて、50代頃から、我々も己に帰り、仲間に心を差し向けるゆとりが出来たようです。

 

それにしても、先日の同級会では、仲間はわずかに9名にとどまり、大変さびしい状態だったのですが。

 


以上、今回話題とした同級会では、若い頃の身近さが年齢と共にいか様に変化するかに触れてみました。
 

 

平成28年12月1日 瀬川 爾朗