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本籍地:岩手県紫波郡紫波町二日町字北七久保123


これはまた大変長い番地である。


しかし、私はこの番地を幼児の時代から今日に至るまで一時も忘れたことがない。
今79歳の私ですから、これまで70年間以上、この、私の本家の住所を記憶し、使い続けたと言えるのです。

お分かりのように、これが私の以前の本家の住所であり、新しい学校への入学時や、卒業時には、必ず書き込まなければいけない住所でした。

実は、東京に家を建てた53歳の時に、私と家族は本籍の住所を変えたのです。

それまでは、公の書類を書くときには、それ以前の住所の本籍を本籍地の町役場から取り寄せ、全ての書類に添付しなければならなかったのです。

後で考えると、本籍の変更は、嬉しい様な、また逆に寂しい様な気持ちに襲われたものです。


私の仲間あるいは友達、特に年上の方々では、本籍地を変えない方が結構おられるように見えます。

どうも、本籍を心得、常に本籍を想うことが、己の過去と将来とをじっくりと思うよりどころとなっているのではないでしょうか。


私は三陸沿岸の都市、釜石の生まれなのですが、父親は本籍地の紫波郡紫波町の生まれで、母親は盛岡市、盛岡駅の側の新田町の生まれでした。

父の家は僧職、母の家は米屋さんでした。

1923年(大正12年)9月1日の関東大地震(M=7.9)では、地震津波による関東の大被害とともに、岩手出身の父母にとっても人生の大変革があったのです。

当時、独身で東京帝国大学文学部中国哲学科の助手をしていた父も、地震による被害を受け、恩師の宇野哲人の許しを得て、一時的に盛岡に帰ったのです。

そして盛岡第一中学校(現盛岡一高)の臨時講師として教壇に立ちました。

その時にたまたま、仲間より見合いの話があり、そこで会ったのが、私の母だったわけです。

このように父も大地震の縁で結婚することができ、やがて東京帝国大学に戻った訳です。


上記の本籍地は紫波町の曹洞宗のお寺(長岩寺)だった訳ですが、父を長男として、10人程の兄弟姉妹が居ました。

男の兄弟は3人だけだったのですが、家から岩手山に、走って一日で往復するという強烈な体力の次男が、どういう訳か若死にし、学校は嫌いだという三男が独学で見事な字を書くことが出来、長岸寺の跡継ぎになったのです(三男の岩雄さん)。

この本籍での忘れられないことは、やはり大東亜戦争の終末におけるいろいろな出来事でした。


私が小学校に入った頃、昭和18年前後は将に大東亜戦争が死の淵をむかえようとしていたときでした。

私が生まれ育った釜石市の製鉄所の5本の大煙突が米軍の艦砲射撃に会い、跡形もなく消えた時でした。

そして、昭和20年8月15日、大日本帝国は死んだのです。

私ら兄弟は、釜石を逃れ、紫波町で息をひそめておりましたが、父の弟の指揮により、この日、昭和天皇の終戦詔勅のラジオ放送を、我々兄弟は直立不動でお聞きすることになったのです。

我が本籍のイメージは、ここにおいて一層忘れられないものとなったと考えます。


平成27年11月1日 瀬川 爾朗

飛行場に対する人の思い

つい先日、

私の家からもそれほど遠くない、東京都の調布にある公立飛行場から飛び立った単発航空機が、調布市内の民家に墜落し、民家を焼き、住民を犠牲にしました。

5人乗っていた航空機の何人かが死に、同時に、己の死を全く予想できなかった住民に、突然の死を叩き付けました。

問題はその後の近隣住民の反応です。

当然、航空機飛行の関連企業は相応の責任を取ると言っているでしょう。

また、このような違法な航空機の運航に対して、司法関連の機関も関連組織に対して、しかるべき対応を求めるでしょう。

しかし、最も不思議なことは、マスコミおよび住民の怒りの声が全く聞こえてこないことです。


このことに直ちに関連づけられることは、いま、沖縄県庁と国とが争っている普天間基地(沖縄県宜野湾市)と辺野古基地(名護市)との交換の問題です。

これは、将に国と沖縄県との争いになっている訳ですが、これは基地の変更が問題なのではなくて、変更すること自体の政治的問題であるように思います。

普天間基地は飛行の騒音が大きく、また米軍と日本人との摩擦などもあり、沖縄でも最も危険な空港域と見做されています。これを避けるため、静かな辺野古基地に移転しようということが、日本政府の考えです。


私も、数年前、米国の研究者との共同研究のため、沖縄に基地としては最大の嘉手納基地に宿泊したことがあります。

かなり厳しい検査を受けましたが、ともかく基地内に宿泊することが許されました。

ここには多くの日本人雇用者が働いており、もしも基地の移動が起こったとすれば、彼らの生活が大変困るだろうということが感じられました。

朝方、定期的になされる戦闘機の飛行の爆音には、腸がもみくちゃにされるのではないかと言うほどの圧迫を受けました。

しかし、関係する日本人にとっては、米軍基地で仕事ができることが人生のすべてであると思う人も居るだろうと感じました。外国人基地と日本人との関係、これは場所を選ばない問題だと感じます。


小さな町に存在する巨大な航空基地、あるいは原子力施設など、長い間にそこの住民を深く抱き込んだ環境においては、巨大な施設の一部が住民の血と肉となって仕舞う場合が多く、生活の為に、正論をはくことが出来なくなっていることが懸念されます。


調布飛行場の事故の場合にも、本来ならば、沖縄の場合に劣らず、調布界隈の住民や、マスコミが、調布飛行場は撤去されるべきだ、といった批判を大声で叫んでいたに違いないのです。

しかし、周りの住民のことを想い、声を静めているのでしょう。


大企業とその近隣の住民との関係は、時間がたつ間に、他人事ではなくなる場合が多く、私の少年時代は、巨大な製鉄所の町に住んで居たので、多くの家庭がその製鉄所の世話になっていました。

時は将に日本の発展の時代であったので、溶鉱炉から吹き出す煙で、空気が汚れ、洗濯ものが真っ黒になってしまっても、町の主婦たちは、洗濯ものの汚れ具合を見て、我が人生の幸せ度を測っていたのでした。


沖縄の米軍基地についても、沖縄県知事の声と住民の声とがどちらが真実なのか、日本国民として、正しく感じ取る必要があるでしょう。



平成27年10月1日 瀬川爾朗

釜石大観音という仏様 — 本BLOGの見出しの仏様

平成23年3月に起こった東日本大震災では、岩手県の久慈から宮城県にかけて、三陸沿岸一帯が過去1000年以来と言われる大津波に襲われ、家屋が破壊され、数万人の住民が命を失うという被害を受けました。

これに匹敵する地震は、紀元869年(貞観11年)の三陸地震:マグニチュードM=8.3 であったと言われ、地震のことは何も知らないという宮城県の名取市で、良く調べると、1100年前の地層に大津波の跡が残されていた、ということが分かって来たのです。

日本の地震学は世界的に見てもかなり進んでいるのですが、一つ大きな盲点がありました。

日本は太平洋を取り巻く環太平洋地震帯上にあり、そこではたびたびM=9に及ぶ巨大地震が起こっている訳ですが、過去1000年の内で、M=9に匹敵するような大地震の記録がなかったのでしょう。

日本では、地震よりも戦争による被害の方がより印象的で、歴史家の真摯な記録がなかったのではないかと考えられます。

もっとも現在のように、多数の高性能地震計が国中に配置されているのとは違い、1000年前の地震の規模を様々な傍証によって推測しているので、Mの評価はかなり不正確であったとは思います。


さて、

釜石と言う街を見ると、大昔から地震と津波で痛めつけられていたのですが、小さな漁村であったために矮小な扱いを受け、多少の被害では記録にも残らないような状態ではなかったかと思います。

むしろ、記録に残る釜石の災害と言えば、幕末にかけての米英ソ等の日本侵略に向けた外国船の侵攻、そして、大東亜戦争敗戦時の敵国航空機、軍艦の爆撃による町の壊滅、の方が強く印象に残ったのではないでしょうか。


釜石大観音は昭和45年4月8日、当時の石応禅寺17世住職雲汀晴朗の悲願によって創りあげられた像高48.5m(鉄筋コンクリート製)の仏像であります。

この観音の台座がすでに海抜100m程度の所に在るため、大観音の眼では、海抜150mほどの高さで、海面を見下ろしているのです。

建造者の言によれば、過去数100年間に三陸沿岸の住民が蒙った手厳しい、心、肉体、財産等の被害の苦しみを解放すべく、海をじっと見つめている姿を表しているのです。

釜石は周辺市町村を含め、過去150年を見ても、戦争、津波、漁船沈没等によって数万人の命が失われ、その遺体が、誰からも顧みられずに放り出されて今日に至っているのです。

これらの霊に報いなければということが、雲汀晴朗の最大の悲願であったと考えられます。


現在、

釜石大観音は第18世住職 都築利昭氏 により維持されております。この大観音の維持管理は参拝者の数にも支配され、日本の景気如何ではその維持が大変に難しい時があります。

大観音完成当時、観音へ進む道々には、参拝道があって、道沿いにお店が立ち並んでいました。

それが国の不景気によって解散してしまったのです。


しかし、

ごく最近のニュースでは、釜石の街の若者が参拝道を立て直そうという運動を起こしているということで、大観音様が釜石の景気の振興に一肌を脱ごうとしているのかと思い、私は涙の出る思いであります。


平成27年9月1日  瀬川爾朗