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航空測量のあやうさ

航空測量と言う堅い仕事について、
私が話すということは不似合のように聞こえるけれども、最近、7月26日(日曜日)私の家にも近い「調布飛行場」でとんでもない飛行機事故が起こったことが、航空機の使用について私も一言いわなければという心境を促したのです。

最初のニュースでは搭乗人数すらよく解からないという話でした。


私は東京大学の海洋研究所に33年所属しており、その間に東京大学の白鳳丸、淡青丸、また東京水産大学の海鷹丸など、高度の設備を備えた研究船を乗り回しておりました。

乗船暦1500日などといって仲間には自慢しておりましたが、一方で、当時、10-20ノット(時速約18~36km)といわれた船の遅い速度には苛立つ時もありました。

船による測定は海域のみ、陸域は人力、車、または航空機ときまっておりましたから、地球あるいは惑星全体に関心のある人にとっては、船の限界を痛感しつつ、その枠を超える術を日常考えて居た訳です。

私も、そんな訳で、自分の仕事を航空機で行い、測定領域、測定密度、測定効率を上げる方法を考えておりました。

このような試験研究を行えるのは、東京では調布飛行場が最も安易な場所でした。

このための試験飛行に使用したものは4~5人乗りのセスナあるいはパイパーと言うタイプの単発航空機でした。

確か、このタイプの違いは、主翼がプロペラの上にあるか、下にあるかの違いであったと思います。

私の研究は、まず、航空機の加速度ノイズの特徴を知りたかったので、自作の重力加速度計を航空機に搭載し、1—2時間の測定飛行を調布飛行場周辺、多摩地域で行いました。

雲の中を突っ切ってもらうということもちょっと行いましたが、高度も2千m—3千mになり、呼吸も苦しくなって、結構大変な実験になったことを思い出しました。

この時は、事故に備えての搭乗直前の保険料は1,000円(?!やや不確か)ではなかったかと思います。


私の航空測量は陸と海に跨る地球重力場の変化を知る事であったのですが、その後航空機をヘリコプターに代え、約10年間、2009年頃まで、日本の海陸の重力変化の研究を行ったのです。

この間の測定領域は約40,000km、そこには原子力発電所の設置された地域もいくつか存在したのです。


今回の調布飛行場周辺での事故にまつわる新聞記事を見ると、調布飛行場と航空機側及びその利用者との関係が、きわめて馴れ合い的だったのではないか、と感じております。

私が昔、調布飛行場から飛んだ時のことを思うと、私共は全くの素人であったために、飛行場側でも、それなりに、基礎的な説明をしてくれたと思います。

それに較べ、今回の航空機事故では航空機が飛び立つ前の状態、どうして航空機がなかなか加速しなかったのか、航空機の車輪が何故カバーされていたのか、などなど、不明なことが多く見られたのです。


私の研究で使われたヘリコプターは米国製のBell412という5人乗りの高性能のヘリコプターでしたが、それを維持する朝日航洋(株)の姿勢は実にしっかりしたものでありました。

さすが測量を任とする会社だけあって、パイロット一人一人が個性的であり、自分が主パイロットと決まると、自分が納得しない限り、絶対に飛び立たないのでした。


2015年8月1日
瀬川爾朗

新聞を読んで思うこと

若い頃も新聞は読んだけれども、
今の自分に較べると、当時は、かなり気ままで適当であった様に思う。

新聞を購入はしたけれども、後で振り返ると、数か月間も読むことが無かったり、タイトルを見るだけで読み捨ててしまう事も多かった。
私の家内を横から見ていると、彼女の読んでいる部分は、薬や化粧品の宣伝とか、特売品の広告など(ばかり)のようであった。

しかし、ともかくも、現在私共は、若い頃に較べると、新聞を読むために相当の時間を割き、新聞で勉強させていただいているが、一方で、テレビ、ラジオも目と耳を通して忙しく情報を与えてくれる。


現在、私はその機会に恵まれ、東京では、朝日新聞か読売新聞のいずれかを読み、同時に、岩手日報を盛岡から取り寄せて読むことにしている。

なぜ岩手日報かというと、岩手県人連合会と岩手日報社とが創立時に深く係っていたことがその理由である。

お蔭様で、私にとっては、東京を代表する新聞と、地方の主力新聞の双方に関わる事ができ、いろいろと勉強させていただいている。

これらの新聞は、ただ読むだけではなくて、記事を切り取るなどして勉強させていただいているので、消化しきれないことが多い。

実は、これまで、新聞が何ページでできているかなどを、考えたこともなかった。

それで最近学んだことは、朝日新聞は日刊が約40ページ、夕刊が20ページ弱、読売新聞は日刊が36ページ程度、夕刊が15ページ程度、岩手日報は日刊が30ページ程度、夕刊が10ページ程度であることが分かった。

もっとも、大新聞は新聞本体に付録が色々付いているので、実際にはかなりのページを使っているようである。

こう見てみると、一つの大新聞を読みこなすには、一日に40から60ページ以上は読みこなさなければならないということで、一年間を考えると、大変な読書量になることが分かった、さらに、朝日、読売等の東京の新聞を読み、かつ、岩手県の岩手日報(岩手県ではトップの新聞だが)を読み比べるのも一興である。

私の印象では、東京の新聞で不十分だと思われる部分を、岩手日報で読むと良く解かると思っています。


私どもの最近の情報メディアは新聞、ラジオ、テレビに加えて、スマートフォンやタブレットを使って、一層手軽に、歩きながらでも必要な対象を見ることが出来るようになってきました。

これは我々にとっていい要素と悪い要素とを兼ね備えているものなので、注意深く対応する必要があります。

つい先日から、女子プロサッカーの世界選手権が競われておりますが、日本の「なでしこ」がオーストラリアとオランダを倒し、次の準決勝で対イギリスと戦おうとしております。

最近の多人数同士の団体競技では、それを観覧する客の立場から見ると、その競技を理解するのに、可なりの知識と感が必要なものです。

特にバレーボール、サッカー、ラグビーなど、複雑な競技を面白く見ることが出来るまでには、選手の細かな動きが理解できる必要がある訳ですが、ラジオ、テレビ、タブレットなどで大まかに理解し、最後に新聞などで、選手の動きや表情などをじっくりと観察することが、その競技の本当の理解に繋がると考えております。


平成27年7月1日 瀬川爾朗

いやー揃いもそろってとしょったなっす

思うに、

昨年から今年にかけては学校の同級会を良く開催したものと、我ながら感心しております。

振り返って見ると、ここ20年間、正業が定年になって以後は、忙しいと言いながらも、結構、同級生の集まりを気軽にもったものだなと思います。

昨年の10月から今年の5月にかけても、小学校、中学校、高等学校、そして大学の同級会まで開いたのです。


それにしても我が同級生、揃いもそろってとしょったなっす!


この中でも私の小学校の同級会が何といっても異色なものでした。

私の記憶がややおぼろげになりましたが、私が小学校(当時は国民学校と言っておりましたが)に入ったのは日本の終戦直前の頃ですから、釜石の大空襲と艦砲射撃を避けて、父の実家の紫波町の古舘小学校に疎開をしていたのです。

その同級生と約70年ぶりに会い、彼らの顔がおぼろげな記憶となりながらも、本当に懐かしい同級会となったのです。

しかし、紫波町で忘れられないことは、大作家 野村胡堂(1882年---1963年)の出生地で、小説「銭形平次捕り物控」によって彼は 日本中に知られる人となったのです。

岡っ引き 平次 が、東京の神田明神境内を舞台にして数々の手柄を立て、その功をたたえて、平次の石碑が現在、神田明神に祭られているということで、神話と言えるほどに平次が庶民の心に住み着いたということは驚くべきことです。

作家と同じ郷里である私も、これには驚嘆しております。


この度の2つ目の同級会、つまり中学校の同級会は、先日、5月の21,22日に盛岡で行いました。

これまでやった同級会でも、中学校の同級会が最も記憶に残るものなのですが、戦後の制度による釜石一中第五回生(昭和27年3月卒業)の同級会を、盛岡の近くの岩手山の山麓にある「ゆこたんの森」の温泉で開催しました。

ここは雫石町の一部で小岩井農場も近くにあります。

大変に素晴らしい景色と温泉に恵まれましたが、釜石の出身者にとっては、2011年3月11日に発生した東日本大震災・津波によって釜石の生活圏を失ってしまった者も多く、今回の同級会は釜石の生活圏を取り戻そうという会でもあったのです。

来年もう一度同級会をやり直そうという声も上がり、虎舞や引き船、そして船乗りたちの大行列に交じって釜石人を取り戻そうという声が次第に大きくなったと思います。


釜石高等学校の同級会は昨年平成26年11月13日に、東京都指定名勝 清澄庭園 を会場として行いました。

ここは岩崎家3代が築いた石の庭で、東京の江東区清澄にあります。

広大な池の片側に広くて閑静な和室があり、池を見ながら、そこでゆったりと話が出来るようになっていました。

ここのところ、中学校の同級会は岩手県で、高等学校の同級会は東京で、というように何となく決まってしまっている感じなのですが、これには一つの微妙な理由が介在しているのです。

私が関わる高等学校は、岩手県立釜石高等学校なのですが、釜石は歴史的に漁業系と鉄鋼系の市民の組み合わせなものですから、中学校までは漁業系の生徒が強く、高等学校になると鉄鋼系の生徒が強くなって、高等学校の同級会は鉄鋼系の子弟によって東京で開催されることが多いのです。


大学の同級会は、全国組織となり、其の大学によってかなり個性が異なりますので、一律な話は出来ませんが、私の場合は東京大学の理学部物理学科でしたので、世の中に出てから以後は、世界を舞台にして仕事をするものですから、その生き方は様々です。

従って、同級会も有ったり無かったり、出たり出なかったり、という状況で様々です。

今年の会は平成27年4月24日の物理、地球物理、天文学のグループの集まりでした。

お互いに話題が違いすぎるので困る訳ですが、それでも何となく気脈の通じる所もあり、それではまた1,2年後に会いましょう、という挨拶でお別れする訳です。

私の場合は70歳代後半の人の集まりですから、みなさん酒が飲めなくなり、私にとってはややものたりない部分もあるのですが。


平成27年6月1日
瀬川 爾朗