いやー揃いもそろってとしょったなっす | 瀬川爾朗blog

いやー揃いもそろってとしょったなっす

思うに、

昨年から今年にかけては学校の同級会を良く開催したものと、我ながら感心しております。

振り返って見ると、ここ20年間、正業が定年になって以後は、忙しいと言いながらも、結構、同級生の集まりを気軽にもったものだなと思います。

昨年の10月から今年の5月にかけても、小学校、中学校、高等学校、そして大学の同級会まで開いたのです。


それにしても我が同級生、揃いもそろってとしょったなっす!


この中でも私の小学校の同級会が何といっても異色なものでした。

私の記憶がややおぼろげになりましたが、私が小学校(当時は国民学校と言っておりましたが)に入ったのは日本の終戦直前の頃ですから、釜石の大空襲と艦砲射撃を避けて、父の実家の紫波町の古舘小学校に疎開をしていたのです。

その同級生と約70年ぶりに会い、彼らの顔がおぼろげな記憶となりながらも、本当に懐かしい同級会となったのです。

しかし、紫波町で忘れられないことは、大作家 野村胡堂(1882年---1963年)の出生地で、小説「銭形平次捕り物控」によって彼は 日本中に知られる人となったのです。

岡っ引き 平次 が、東京の神田明神境内を舞台にして数々の手柄を立て、その功をたたえて、平次の石碑が現在、神田明神に祭られているということで、神話と言えるほどに平次が庶民の心に住み着いたということは驚くべきことです。

作家と同じ郷里である私も、これには驚嘆しております。


この度の2つ目の同級会、つまり中学校の同級会は、先日、5月の21,22日に盛岡で行いました。

これまでやった同級会でも、中学校の同級会が最も記憶に残るものなのですが、戦後の制度による釜石一中第五回生(昭和27年3月卒業)の同級会を、盛岡の近くの岩手山の山麓にある「ゆこたんの森」の温泉で開催しました。

ここは雫石町の一部で小岩井農場も近くにあります。

大変に素晴らしい景色と温泉に恵まれましたが、釜石の出身者にとっては、2011年3月11日に発生した東日本大震災・津波によって釜石の生活圏を失ってしまった者も多く、今回の同級会は釜石の生活圏を取り戻そうという会でもあったのです。

来年もう一度同級会をやり直そうという声も上がり、虎舞や引き船、そして船乗りたちの大行列に交じって釜石人を取り戻そうという声が次第に大きくなったと思います。


釜石高等学校の同級会は昨年平成26年11月13日に、東京都指定名勝 清澄庭園 を会場として行いました。

ここは岩崎家3代が築いた石の庭で、東京の江東区清澄にあります。

広大な池の片側に広くて閑静な和室があり、池を見ながら、そこでゆったりと話が出来るようになっていました。

ここのところ、中学校の同級会は岩手県で、高等学校の同級会は東京で、というように何となく決まってしまっている感じなのですが、これには一つの微妙な理由が介在しているのです。

私が関わる高等学校は、岩手県立釜石高等学校なのですが、釜石は歴史的に漁業系と鉄鋼系の市民の組み合わせなものですから、中学校までは漁業系の生徒が強く、高等学校になると鉄鋼系の生徒が強くなって、高等学校の同級会は鉄鋼系の子弟によって東京で開催されることが多いのです。


大学の同級会は、全国組織となり、其の大学によってかなり個性が異なりますので、一律な話は出来ませんが、私の場合は東京大学の理学部物理学科でしたので、世の中に出てから以後は、世界を舞台にして仕事をするものですから、その生き方は様々です。

従って、同級会も有ったり無かったり、出たり出なかったり、という状況で様々です。

今年の会は平成27年4月24日の物理、地球物理、天文学のグループの集まりでした。

お互いに話題が違いすぎるので困る訳ですが、それでも何となく気脈の通じる所もあり、それではまた1,2年後に会いましょう、という挨拶でお別れする訳です。

私の場合は70歳代後半の人の集まりですから、みなさん酒が飲めなくなり、私にとってはややものたりない部分もあるのですが。


平成27年6月1日
瀬川 爾朗