運勢暦を読んでみる
私は東京神宮館蔵版の運勢暦を毎年買うのが趣味で、初詣の日には、新年の御札の次に、運勢暦を買う事にしている。
これは毎年同じ値段の1000円の冊子である。
これの表紙には、高島易断所本部編纂と印刷されており、実は、子供のころからこの「高島」という言葉が忘れがたく、お正月や、それ以外のお祭りの日に、良く購入していたらしい。
小学生のころから良く買いに行ったこの書物、実は読んでもほとんど理解できず、机の引き出しに仕舞って置くだけなのですが、持っているだけで満足していたらしい。
しかし、最近は、70歳を過ぎた自分として、僅か1%であっても自分の運勢に影響があるのではないかと思い、時々真面目に読む努力をしています。
この運勢暦の中では、毎月の行事として、本年の1月から12月の間の日ごとの干支、九星、諸行事、日の出、月の出、満潮、干潮および種々の解説が詳しく説明されています。
特に、九星と干支は年度による人の運勢や男女の相性などに影響するとして私どもに大きく影響すると思われています。
干支は十二支に分かれますが、生まれ年の区別として馴染みのある子、丑、寅、卯、辰、巳、午、羊、申、酉、戌、亥の12個の漢字が並びます。
一方、九星の方は、この運勢暦では大きなウェイトを持っているものですが、一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星の九つの星があり、土星、木星、金星の接尾語が複数回使われております。
さて、これだけの予備知識で、今年の私の運命を占ってみます。
驚いたことには、私は、九星では一白水星で、しかも今年は真っ白な円の「躍動運」らしいのです。
この内容は「天を怨みず。下人を咎めず」を意味するとみられ、物事に慎重に対応すれば旨く行くと言っているようです。
ちなみに家内の九星を見ると、六白となっており、それがまた大吉を意味し、全て上手くできているという事になりそうです。
ああ、我が夫婦 ばんざい。
ところで、この神宮館運勢暦の問題点は、暦が旧暦に則っていることです。
それを表面上新暦で出版しているのが、神宮館運勢暦でして、我々の運命は、実際には旧暦に従っているのだという事を認識しておく必要があります。今年の旧暦の元日は、新暦の2月19日です。
我々人間の運命は旧暦に支配されるので、今年の場合、2月19日が旧暦の元日になるのです。
従って、新年になって、今年から自分の運勢は変るぞ、と言ってみても、実際には2月にならないと、その効果は現れないのだという事になり、新暦で暮らしている我々にとっては、時の感覚の調整が難しいという問題があります。
運勢暦の新暦では、1年の元日から大晦日まで365日と書いてあります。
閏年には4年に1回、2月を1日増やし、29日にする、という細工が施されます。
この運勢暦には月の干満の図が丁寧に書いてあり、望(満月)―下弦(下半月)―朔(新月)―上弦(上半月)ー望(満月)を辿ることが出来ます。
こう言うと何か、身の回りに月の世界が開けたような気がしませんか。
平成27年2月1日
瀬川 爾朗
これは毎年同じ値段の1000円の冊子である。
これの表紙には、高島易断所本部編纂と印刷されており、実は、子供のころからこの「高島」という言葉が忘れがたく、お正月や、それ以外のお祭りの日に、良く購入していたらしい。
小学生のころから良く買いに行ったこの書物、実は読んでもほとんど理解できず、机の引き出しに仕舞って置くだけなのですが、持っているだけで満足していたらしい。
しかし、最近は、70歳を過ぎた自分として、僅か1%であっても自分の運勢に影響があるのではないかと思い、時々真面目に読む努力をしています。
この運勢暦の中では、毎月の行事として、本年の1月から12月の間の日ごとの干支、九星、諸行事、日の出、月の出、満潮、干潮および種々の解説が詳しく説明されています。
特に、九星と干支は年度による人の運勢や男女の相性などに影響するとして私どもに大きく影響すると思われています。
干支は十二支に分かれますが、生まれ年の区別として馴染みのある子、丑、寅、卯、辰、巳、午、羊、申、酉、戌、亥の12個の漢字が並びます。
一方、九星の方は、この運勢暦では大きなウェイトを持っているものですが、一白水星、二黒土星、三碧木星、四緑木星、五黄土星、六白金星、七赤金星、八白土星、九紫火星の九つの星があり、土星、木星、金星の接尾語が複数回使われております。
さて、これだけの予備知識で、今年の私の運命を占ってみます。
驚いたことには、私は、九星では一白水星で、しかも今年は真っ白な円の「躍動運」らしいのです。
この内容は「天を怨みず。下人を咎めず」を意味するとみられ、物事に慎重に対応すれば旨く行くと言っているようです。
ちなみに家内の九星を見ると、六白となっており、それがまた大吉を意味し、全て上手くできているという事になりそうです。
ああ、我が夫婦 ばんざい。
ところで、この神宮館運勢暦の問題点は、暦が旧暦に則っていることです。
それを表面上新暦で出版しているのが、神宮館運勢暦でして、我々の運命は、実際には旧暦に従っているのだという事を認識しておく必要があります。今年の旧暦の元日は、新暦の2月19日です。
我々人間の運命は旧暦に支配されるので、今年の場合、2月19日が旧暦の元日になるのです。
従って、新年になって、今年から自分の運勢は変るぞ、と言ってみても、実際には2月にならないと、その効果は現れないのだという事になり、新暦で暮らしている我々にとっては、時の感覚の調整が難しいという問題があります。
運勢暦の新暦では、1年の元日から大晦日まで365日と書いてあります。
閏年には4年に1回、2月を1日増やし、29日にする、という細工が施されます。
この運勢暦には月の干満の図が丁寧に書いてあり、望(満月)―下弦(下半月)―朔(新月)―上弦(上半月)ー望(満月)を辿ることが出来ます。
こう言うと何か、身の回りに月の世界が開けたような気がしませんか。
平成27年2月1日
瀬川 爾朗
年賀郵便に想う
今日は元日である。
大昔から、この日はすがすがしい日であることを願っている人が多いだろう。
朝目が覚めて、何事もなかった自分を顧みて、まず良かったと思う。
そして何が良かったかを反省してみる。
そこで多くの人が、実は何事もなかったことこそが良かったと思っているだろう。
改めて今日のわが身を想う時、昨日までに満たされなかった諸々のことを思い起こす。
そうだ、今日こそあれをしなければ、と勢い込み、それに手を触れるが、なかなか進行しない。
やがて、------
本日、嫁に行った娘たちが我が家にやって来た。
いずれもまだ子供は居ないのだが、そろそろ限界なのでと、頑張っている子もいる。
仕事に熱心のあまり結婚できない娘もおり、人口減少問題については、医学的には大規模な変革を必要としているのではないかと、当人も思っているらしい。
子供ができる年齢は、男40歳、女35歳までと言われている。
現在、日本では、結婚年齢の限界をこの年齢で判断しているが、はたしてその考えに従うべきであろうか。
最近の医学では人体の現状を変革する技術がものすごく進歩しつつあると聞いている。
その範疇の一つとして、男女の出産可能年齢をそれぞれ10年引き延ばすことができないであろうか。
民衆の高学歴化、高年齢化に伴って、高出産年齢化に十分に応えるべく、高度の医学的体質改善を施すことはできないであろうか。
私は、これは可能であると考える。
これまでの日本人の平均寿命は、以前よりも10年以上高まっていると言って良い。
寿命が高まる事と子供を造れる寿命が同様に高まる事とは、大きな関連性があると信じている。
医学的には人の寿命が高まる事と、妊娠出産をし、あるいはさせる能力を高年齢まで高めることとは、密接に関係しているに違いない。
身体能力の進化を見る時、出産年齢の10年程度の変化は、現在の体調をもってしても、対応可能だと考える。
少なくとも其の為の医療の変革は出来る、と信じている。
これによる社会の変革は極めて大きく、定年の男女格差の是正、定年延長の実現、男女の定年年齢差の解消など、その効果は驚くべきものと思われる。
人の体質について、これまで公平に見ていたか、というと、そうではないことが多いと思われる。
日本人は国民平均寿命については、世界一かどうかを常に気にしてきたが、出産年齢については忘れていたのではありませんか。
同様に、日本は地震大国ではあるが、一方では、超巨大地震が日本のすぐ傍でも発生することを忘れていたではありませんか。
このような度忘れに弱い日本人の弱点を、今後、我々は十分に気をまわし、良く考えることが大事だと痛感いたします。
2015年1月1日
瀬川 爾朗
大昔から、この日はすがすがしい日であることを願っている人が多いだろう。
朝目が覚めて、何事もなかった自分を顧みて、まず良かったと思う。
そして何が良かったかを反省してみる。
そこで多くの人が、実は何事もなかったことこそが良かったと思っているだろう。
改めて今日のわが身を想う時、昨日までに満たされなかった諸々のことを思い起こす。
そうだ、今日こそあれをしなければ、と勢い込み、それに手を触れるが、なかなか進行しない。
やがて、------
本日、嫁に行った娘たちが我が家にやって来た。
いずれもまだ子供は居ないのだが、そろそろ限界なのでと、頑張っている子もいる。
仕事に熱心のあまり結婚できない娘もおり、人口減少問題については、医学的には大規模な変革を必要としているのではないかと、当人も思っているらしい。
子供ができる年齢は、男40歳、女35歳までと言われている。
現在、日本では、結婚年齢の限界をこの年齢で判断しているが、はたしてその考えに従うべきであろうか。
最近の医学では人体の現状を変革する技術がものすごく進歩しつつあると聞いている。
その範疇の一つとして、男女の出産可能年齢をそれぞれ10年引き延ばすことができないであろうか。
民衆の高学歴化、高年齢化に伴って、高出産年齢化に十分に応えるべく、高度の医学的体質改善を施すことはできないであろうか。
私は、これは可能であると考える。
これまでの日本人の平均寿命は、以前よりも10年以上高まっていると言って良い。
寿命が高まる事と子供を造れる寿命が同様に高まる事とは、大きな関連性があると信じている。
医学的には人の寿命が高まる事と、妊娠出産をし、あるいはさせる能力を高年齢まで高めることとは、密接に関係しているに違いない。
身体能力の進化を見る時、出産年齢の10年程度の変化は、現在の体調をもってしても、対応可能だと考える。
少なくとも其の為の医療の変革は出来る、と信じている。
これによる社会の変革は極めて大きく、定年の男女格差の是正、定年延長の実現、男女の定年年齢差の解消など、その効果は驚くべきものと思われる。
人の体質について、これまで公平に見ていたか、というと、そうではないことが多いと思われる。
日本人は国民平均寿命については、世界一かどうかを常に気にしてきたが、出産年齢については忘れていたのではありませんか。
同様に、日本は地震大国ではあるが、一方では、超巨大地震が日本のすぐ傍でも発生することを忘れていたではありませんか。
このような度忘れに弱い日本人の弱点を、今後、我々は十分に気をまわし、良く考えることが大事だと痛感いたします。
2015年1月1日
瀬川 爾朗
”高等学校”のヴァリアビリティ
やはり長生きはすべきものだとは、昨日今日の私の心境です。
ある年齢までは自分の生き方を通し、「これでいいんだ」という自信をもってやって来たと思っている。
しかし、今日この頃、70代後半になった今、自分とは違う生き方だったらどうなっていただろうかと、ふと考えるようになったのです。
悪く言えば、「君もいよいよ暇になったんだね」と言われかねません。
私は最近、これから東京の大学、専門学校へ進む地方の学生のために、その学生が卒業する前の学校の状態を調べるという役目を仰せつかり、岩手県の田舎の学校を訪問しました。
そこで私に関わった学校は、普通高校、商業高校、工業高校で、たまたま農業高校と水産高校は地域的に省かれているのです。
実は、私は普通高校しか知らない人生を送った訳ですが、子供の頃には、普通高校が最も優れていて、他の高等学校は出来の悪い生徒が行くところだ、などと教えられていたのです。
私の愚かさは、そのような世間の評価をそのまま受けて、普通以外の高等学校は相手にしないなどと思ってしまったことでした。
普通高校の生徒は何故優秀だと評価されるかと言えば、国語、英語、数学、理科が出来るという事で、しかも、その評価はペイパーテストによるのです。
大学へ行けば、多少の実験装置に触れることはできるが、ある程度知ることにはなっても、訓練する時間がないのが普通です。
これを補うチャンスは大学院にしかない。
今回の訪問では、まず普通高校を訪問し、その後で、最近、児童数減少に伴って商学科と工学科が合併して、商工高等学校となった学校を訪問しました。
普通高等学校はさておいて、商工高等学校について述べると、その特徴は実習用具や大型の実習設備が多くある事でした。
商学科では勉強の用具はコンピュータやそろばんであり、これらの装置は生徒の数だけあると言って良い。
一方、工学科の装置は、個数は少ない代わりに、個々のものが巨大であった。
機械の設計図を描く装置や、金属加工に使う旋盤やミリング、金属板を切ったり、曲げたり、溶かしたりする道具など、さまざまである。
いずれにしても商工高等学校は目、耳、手、口、触覚、味覚、等、全身で学ぶことが要求されているので、普通科の学生よりは早期に体と心を使うことが教育されるのである。
こうしてみると、普通科の学生は頭の中で組み立てる勉強が多いが、商工科の学生は体を使って覚え込む、という勉強になるようだ。
実はこれらの実習に基づく能力は、私にとっても、かなり弱い部分で終わってしまっているのである。
また、商工科の学生に会うと、男女ともに大変に礼儀正しい。
会えば必ずお辞儀をする。
このような教育は、中学校までは行われるけれども、高等学校になると、普通科と商、工、農、水産高等学校とでは、大きく別れることを、私も、再び学んだのである。
世の中で、早めに実業に着く立場にある商、工、農、水の世界では、学力に劣らず、人間関係をも重視しているという事を、重ねて理解することになったのでした。
人生70余年にして、私も再び人間の在り方を学び直すことになったのです。
2014年12月1日
瀬川 爾朗
ある年齢までは自分の生き方を通し、「これでいいんだ」という自信をもってやって来たと思っている。
しかし、今日この頃、70代後半になった今、自分とは違う生き方だったらどうなっていただろうかと、ふと考えるようになったのです。
悪く言えば、「君もいよいよ暇になったんだね」と言われかねません。
私は最近、これから東京の大学、専門学校へ進む地方の学生のために、その学生が卒業する前の学校の状態を調べるという役目を仰せつかり、岩手県の田舎の学校を訪問しました。
そこで私に関わった学校は、普通高校、商業高校、工業高校で、たまたま農業高校と水産高校は地域的に省かれているのです。
実は、私は普通高校しか知らない人生を送った訳ですが、子供の頃には、普通高校が最も優れていて、他の高等学校は出来の悪い生徒が行くところだ、などと教えられていたのです。
私の愚かさは、そのような世間の評価をそのまま受けて、普通以外の高等学校は相手にしないなどと思ってしまったことでした。
普通高校の生徒は何故優秀だと評価されるかと言えば、国語、英語、数学、理科が出来るという事で、しかも、その評価はペイパーテストによるのです。
大学へ行けば、多少の実験装置に触れることはできるが、ある程度知ることにはなっても、訓練する時間がないのが普通です。
これを補うチャンスは大学院にしかない。
今回の訪問では、まず普通高校を訪問し、その後で、最近、児童数減少に伴って商学科と工学科が合併して、商工高等学校となった学校を訪問しました。
普通高等学校はさておいて、商工高等学校について述べると、その特徴は実習用具や大型の実習設備が多くある事でした。
商学科では勉強の用具はコンピュータやそろばんであり、これらの装置は生徒の数だけあると言って良い。
一方、工学科の装置は、個数は少ない代わりに、個々のものが巨大であった。
機械の設計図を描く装置や、金属加工に使う旋盤やミリング、金属板を切ったり、曲げたり、溶かしたりする道具など、さまざまである。
いずれにしても商工高等学校は目、耳、手、口、触覚、味覚、等、全身で学ぶことが要求されているので、普通科の学生よりは早期に体と心を使うことが教育されるのである。
こうしてみると、普通科の学生は頭の中で組み立てる勉強が多いが、商工科の学生は体を使って覚え込む、という勉強になるようだ。
実はこれらの実習に基づく能力は、私にとっても、かなり弱い部分で終わってしまっているのである。
また、商工科の学生に会うと、男女ともに大変に礼儀正しい。
会えば必ずお辞儀をする。
このような教育は、中学校までは行われるけれども、高等学校になると、普通科と商、工、農、水産高等学校とでは、大きく別れることを、私も、再び学んだのである。
世の中で、早めに実業に着く立場にある商、工、農、水の世界では、学力に劣らず、人間関係をも重視しているという事を、重ねて理解することになったのでした。
人生70余年にして、私も再び人間の在り方を学び直すことになったのです。
2014年12月1日
瀬川 爾朗