東日本大震災を再び思う
昨日まで、3日間、岩手県人連合会は、わが故郷の想い出を確認し、新たな発見と、今後への思いを得るための旅行を行いました。
参加者は26人でしたが、平成24年以来3度目の国内旅行でしたので、旅行計画も軌道に乗り、きわめて有効な旅となったと考えます。
今回の訪問地は陸前高田市、大船渡市、そして遠野市でした。第1回目の旅行は平成24年10月後半に一関を経て、釜石で宝来館一泊、二日目、三日目に、釜石大観音参拝、花巻温泉郷、平泉中尊寺、をへて、東京に戻りました。
第2回目は平成25年11月初めでしたが、さらに北側の地震の被災地として久慈市の小袖海岸、岩泉の龍泉洞、浄土が浜、そして田老町を見学しました。
3日目は宮古魚菜市場、小岩井農場等を経て帰京しました。
これらの見学を振り返ってみて、その見学が私どもに与える刺激、あるいはショックは、場所によって、或いはそれの説明者によって、大きく異なるという事を、今回ほど痛感したことは無かったと思います。
そのことを次の第3回目の旅行の例で取り上げてみます。
初日、10月29日、一ノ関の「世嬉の一酒造」で酒の味を確かめ、猊鼻渓の船くだりを済まして、陸前高田市市役所へ表敬訪問をしました。
大変に忙しい中、戸羽 太 市長は陸前高田市の現状を話し、市庁舎が破壊されたために債権の仕事が大変に遅れているとの説明がありました。
陸前高田市では15mを超す高さの津波もあったとのことで、実際に町を見ると、町は茫漠たる荒れ地のみであり、その被害のものすごさに、涙が出るばかりでした。
このあと、別の解説者が伴い、一緒に被災の現場を見ながらの説明があったのですが、説明者ご自身も家や家族を失っており、涙ながらの説明になることもありました。
陸前高田のあと大船渡温泉に泊まり、10月30日、三陸鉄道南リアス線盛駅出発、三陸鉄道に試乗して、小石浜(恋し浜)駅まで走り、この間、約15分。
この後、大船渡津波伝承館を見学。大船渡市は湾口防波堤なども破壊され、私どもに解説してくれた人も、ご自身、家族の被害があり、私どもに解説している間にも、涙を流されていました。
陸前高田市と共に、大船渡市も、住民が涙なしには被災の話が出来ないという、厳しい状況にあることがはっきりしてきました。
忙しい中、大船渡市長の戸田公明氏にもお会いできました。
大船渡市の後、遠野に移動し、遠野たかむろ水光園に宿泊しました。
ここでは遠野出身の方が遠野の民話を話す人(女性)を呼んでくれて、夜の宴会に花を添えてくれました。
三陸地方が特に顕著であった地震津波災害に対して、海から遠い遠野は、私は被害はないものと思っていましたが、実際には地震による建物の被害が結構あったということが分かりました。
日は明けて10月31日となりました。
岩手の中央に位置する遠野市は、過酷な被害を受けた他市町村への物流の重要さを認識し、今日まで三陸海岸域の復興支援に大きく貢献していることがよくわかりました。
遠野市の市長 本田敏秋氏には都合によりお会いできなかったのですが、我々のためにいろいろとお土産を用意してくださり、遠野の力強い応援メッセージを示していただいたことは大変に説得力のある励ましであると痛感いたしました。
平成26年11月1日
瀬川 爾朗
参加者は26人でしたが、平成24年以来3度目の国内旅行でしたので、旅行計画も軌道に乗り、きわめて有効な旅となったと考えます。
今回の訪問地は陸前高田市、大船渡市、そして遠野市でした。第1回目の旅行は平成24年10月後半に一関を経て、釜石で宝来館一泊、二日目、三日目に、釜石大観音参拝、花巻温泉郷、平泉中尊寺、をへて、東京に戻りました。
第2回目は平成25年11月初めでしたが、さらに北側の地震の被災地として久慈市の小袖海岸、岩泉の龍泉洞、浄土が浜、そして田老町を見学しました。
3日目は宮古魚菜市場、小岩井農場等を経て帰京しました。
これらの見学を振り返ってみて、その見学が私どもに与える刺激、あるいはショックは、場所によって、或いはそれの説明者によって、大きく異なるという事を、今回ほど痛感したことは無かったと思います。
そのことを次の第3回目の旅行の例で取り上げてみます。
初日、10月29日、一ノ関の「世嬉の一酒造」で酒の味を確かめ、猊鼻渓の船くだりを済まして、陸前高田市市役所へ表敬訪問をしました。
大変に忙しい中、戸羽 太 市長は陸前高田市の現状を話し、市庁舎が破壊されたために債権の仕事が大変に遅れているとの説明がありました。
陸前高田市では15mを超す高さの津波もあったとのことで、実際に町を見ると、町は茫漠たる荒れ地のみであり、その被害のものすごさに、涙が出るばかりでした。
このあと、別の解説者が伴い、一緒に被災の現場を見ながらの説明があったのですが、説明者ご自身も家や家族を失っており、涙ながらの説明になることもありました。
陸前高田のあと大船渡温泉に泊まり、10月30日、三陸鉄道南リアス線盛駅出発、三陸鉄道に試乗して、小石浜(恋し浜)駅まで走り、この間、約15分。
この後、大船渡津波伝承館を見学。大船渡市は湾口防波堤なども破壊され、私どもに解説してくれた人も、ご自身、家族の被害があり、私どもに解説している間にも、涙を流されていました。
陸前高田市と共に、大船渡市も、住民が涙なしには被災の話が出来ないという、厳しい状況にあることがはっきりしてきました。
忙しい中、大船渡市長の戸田公明氏にもお会いできました。
大船渡市の後、遠野に移動し、遠野たかむろ水光園に宿泊しました。
ここでは遠野出身の方が遠野の民話を話す人(女性)を呼んでくれて、夜の宴会に花を添えてくれました。
三陸地方が特に顕著であった地震津波災害に対して、海から遠い遠野は、私は被害はないものと思っていましたが、実際には地震による建物の被害が結構あったということが分かりました。
日は明けて10月31日となりました。
岩手の中央に位置する遠野市は、過酷な被害を受けた他市町村への物流の重要さを認識し、今日まで三陸海岸域の復興支援に大きく貢献していることがよくわかりました。
遠野市の市長 本田敏秋氏には都合によりお会いできなかったのですが、我々のためにいろいろとお土産を用意してくださり、遠野の力強い応援メッセージを示していただいたことは大変に説得力のある励ましであると痛感いたしました。
平成26年11月1日
瀬川 爾朗
死火山と活火山
数日前、長野県と岐阜県を境する御嶽山(おんたけさん3067m)が突然噴火しました。
土、日と重なり、好天であったがために、多くの観光客の度肝を抜き、悪いことに、死者も多くでました。
偶々私も、この様子をテレビで見たものですから、初めは、人がこの地球に脅かされている姿がよく解かり、なるほどと納得したような気になったのですが、その内に無性に腹が立ってきました。
その瞬間のテレビ映像や、比較のため後刻、新聞の写真等と比較してみて、最初に驚いたのは、御嶽山の頂上山荘や剣ヶ峰山荘などの位置が、此の度の噴火口にきわめて近いことでした。
最近は携帯電話で写真を撮り、それを放送局に伝送する人が多いものですから、テレビを見ながらでも、噴火の状態を家でリアルタイムに実感することが出来る世の中です。
それで、噴火口から吹き出す噴火ガスや噴石を見詰めていると、山荘と噴火口とが僅か数100mの急な勾配で結ばれており、我が家に居りながらも、まるで、家から真下の噴火口を見る思いで、よもやすべり堕ちるのではないかという恐怖に襲われるようでした。
この時一瞬に思ったことは、
観光用の山荘が、こんな危ない所に在っていいのだろうか、
という事でした。
最近の観光地は、大変に用心深くなっていて、危険かもしれない火山などと、人の泊まる宿舎とは、離れすぎるぐらい離れているのが普通なのですが、御嶽山ではそのようなセンスが全くないのではないでしょうか?
御嶽山は、かつては死火山と言われていたようです。噴火のタイプはイタリアのベスビオ山と同じ様式でプリニーと言われていますが、最近の一万年位は動きが鈍く、1979年に水蒸気爆発を起こし、久しぶりに活火山だという認識が蘇ったのです。
一方、御嶽山での溶岩噴出は5000年前に一度有ったらしいというのが、最近の知識です。
私が思うことは、現在の神社を祭っている御嶽頂上山荘等は、御嶽山が死火山だと思われていた時代の構想によるもので、たびたび噴火をする現状を見れば、山荘の配置、構造等を抜本的に考え直す必要があると思います。
この観点から見ると、1700年頃の宝永の富士山噴火についても、300年以上の無噴火時代を経た現在、噴火の再来に対する対策をもっと真剣に考えなければいけないと思います。
最後に、念のために、航空機と火山噴火との関わりについて、敢えて触れましょう。
今や、地球上での救難事業において、航空機・ヘリコプターが果たす役割は極めて大きいと思います。
しかし、災害が起こす異常な環境によって航空機等がその機能を発揮できないことがあります。
特に硫黄などの酸性の液体、気体は飛行体のエンジンを腐食させ、劣化を早めるという害があります。
現在、御嶽山の現地における大気中の硫化水素等の濃度について、警察や自衛隊が大変に神経質であるのは、人に対する害と同時に航空機の機能を損なわないようにという配慮が成されている為でしょう。
私はこれも、自然の災害から身を守るための、大事な基本方策であろうと思います。
平成26年10月1日
瀬川 爾朗
土、日と重なり、好天であったがために、多くの観光客の度肝を抜き、悪いことに、死者も多くでました。
偶々私も、この様子をテレビで見たものですから、初めは、人がこの地球に脅かされている姿がよく解かり、なるほどと納得したような気になったのですが、その内に無性に腹が立ってきました。
その瞬間のテレビ映像や、比較のため後刻、新聞の写真等と比較してみて、最初に驚いたのは、御嶽山の頂上山荘や剣ヶ峰山荘などの位置が、此の度の噴火口にきわめて近いことでした。
最近は携帯電話で写真を撮り、それを放送局に伝送する人が多いものですから、テレビを見ながらでも、噴火の状態を家でリアルタイムに実感することが出来る世の中です。
それで、噴火口から吹き出す噴火ガスや噴石を見詰めていると、山荘と噴火口とが僅か数100mの急な勾配で結ばれており、我が家に居りながらも、まるで、家から真下の噴火口を見る思いで、よもやすべり堕ちるのではないかという恐怖に襲われるようでした。
この時一瞬に思ったことは、
観光用の山荘が、こんな危ない所に在っていいのだろうか、
という事でした。
最近の観光地は、大変に用心深くなっていて、危険かもしれない火山などと、人の泊まる宿舎とは、離れすぎるぐらい離れているのが普通なのですが、御嶽山ではそのようなセンスが全くないのではないでしょうか?
御嶽山は、かつては死火山と言われていたようです。噴火のタイプはイタリアのベスビオ山と同じ様式でプリニーと言われていますが、最近の一万年位は動きが鈍く、1979年に水蒸気爆発を起こし、久しぶりに活火山だという認識が蘇ったのです。
一方、御嶽山での溶岩噴出は5000年前に一度有ったらしいというのが、最近の知識です。
私が思うことは、現在の神社を祭っている御嶽頂上山荘等は、御嶽山が死火山だと思われていた時代の構想によるもので、たびたび噴火をする現状を見れば、山荘の配置、構造等を抜本的に考え直す必要があると思います。
この観点から見ると、1700年頃の宝永の富士山噴火についても、300年以上の無噴火時代を経た現在、噴火の再来に対する対策をもっと真剣に考えなければいけないと思います。
最後に、念のために、航空機と火山噴火との関わりについて、敢えて触れましょう。
今や、地球上での救難事業において、航空機・ヘリコプターが果たす役割は極めて大きいと思います。
しかし、災害が起こす異常な環境によって航空機等がその機能を発揮できないことがあります。
特に硫黄などの酸性の液体、気体は飛行体のエンジンを腐食させ、劣化を早めるという害があります。
現在、御嶽山の現地における大気中の硫化水素等の濃度について、警察や自衛隊が大変に神経質であるのは、人に対する害と同時に航空機の機能を損なわないようにという配慮が成されている為でしょう。
私はこれも、自然の災害から身を守るための、大事な基本方策であろうと思います。
平成26年10月1日
瀬川 爾朗
9月1日という日
私が一年の月日の中で特別な日として記憶したのは9月1日が二百十日目、9月10日が二百二十日目と覚えていたことでした。
多分、小学生のことだったと思います。年に2回あるこの日は、秋に嵐となる日なので、運動会や登山などには避けた方が良い、と教えられました。
実に単純な気象予報でありますが、その当時(今から60年―70年も前か)は不思議に良く当たる予報であったと、感心しておりました。
もっとも二百十日目、二百二十日目という数え方は、旧暦の元日(立春)からの数え方なのですが。
ともかく、子供時代のかなりの期間、この予報は役に立ったと思っています。ところがそれから数10年経った今日は、好天と嵐の変化は、大変に目まぐるしく、昔のようにのんびりした予測では成り立たないようになってきたのです。
さて、その後、9月1日が、日本にとって全く別の、恐ろしい日となって記憶に残されました。
1923年(大正12年)正午ごろ(今年から91年前)、東京都の南方、相模湾の海底でマグニチュード7.9の関東大地震が発生し、10mを超す津波をかかえて東京を襲いました。
この時には火事による被害が特に大きく、死者が14万人を超す被害を受けました。
東京での自然災害としては最も大きく、これによって東京都の住宅地が大きく変わったと言われています。
(1945年、すなわち昭和20年の太平洋戦争敗戦に伴う被害は日本全国にまたがるもので、別件ですが、その被害のすごさは言葉に尽せないものですが。)
このような過去の自然災害の中では、1923年の関東大震災と2011年3月11日の東日本大震災とが特筆される事件であったと考えます。
関東大震災が起こった9月1日は1960年に防災の日と決められ、政府主催の防災の儀式と防災訓練が早朝から行われたのですが、それが儀式ばっていることに反省が加えられ、最近はあまり目立たなくなりました。
数年前に亡くなりましたが、東大の私の同窓であった溝上 恵 氏も日本の地震予知連絡会会長としてこの訓練をリードしたのです。
東日本大震災は近代地震学の中でぽっかり抜けていた大事件として強調されています。
最近かなり進歩した地震学でも、今回の東日本大震災で日本の地震学者が1,000年紀という地震を始めて自分のものとして認識したと言えるのです。
地震帯の有力な一つである環太平洋地震帯で、これまでもマグニチュード M>9 の地震を何度か経験している訳ですが、それが日本に起こるという事を言った地震学者は居なかったのです。
少なくともM>9の過去の地震について調べた地震学者は皆無でしたので、2011年の3月11日に起こった地震では地震学者は頭を抱えてしまったのです。
後でその気で調べたところ、例えば869年(貞観11年7月13日)にM=8.3の巨大地震が三陸沖に起こったらしい、ということが分かって、これは今回の三陸地震に先立つ1,000年紀に属する超巨大地震ではなかったか、と考えられ始めたのです。
地層を調べると、三陸沿岸にその証拠が残されているらしい。現在は地震のメカニズムは分かったが、いつ起こる、つまり時間軸が人間のスケールを超え、不確さの幅が人間の一生を超えている所が大問題なのです。
2014年9月1日 瀬川 爾朗
多分、小学生のことだったと思います。年に2回あるこの日は、秋に嵐となる日なので、運動会や登山などには避けた方が良い、と教えられました。
実に単純な気象予報でありますが、その当時(今から60年―70年も前か)は不思議に良く当たる予報であったと、感心しておりました。
もっとも二百十日目、二百二十日目という数え方は、旧暦の元日(立春)からの数え方なのですが。
ともかく、子供時代のかなりの期間、この予報は役に立ったと思っています。ところがそれから数10年経った今日は、好天と嵐の変化は、大変に目まぐるしく、昔のようにのんびりした予測では成り立たないようになってきたのです。
さて、その後、9月1日が、日本にとって全く別の、恐ろしい日となって記憶に残されました。
1923年(大正12年)正午ごろ(今年から91年前)、東京都の南方、相模湾の海底でマグニチュード7.9の関東大地震が発生し、10mを超す津波をかかえて東京を襲いました。
この時には火事による被害が特に大きく、死者が14万人を超す被害を受けました。
東京での自然災害としては最も大きく、これによって東京都の住宅地が大きく変わったと言われています。
(1945年、すなわち昭和20年の太平洋戦争敗戦に伴う被害は日本全国にまたがるもので、別件ですが、その被害のすごさは言葉に尽せないものですが。)
このような過去の自然災害の中では、1923年の関東大震災と2011年3月11日の東日本大震災とが特筆される事件であったと考えます。
関東大震災が起こった9月1日は1960年に防災の日と決められ、政府主催の防災の儀式と防災訓練が早朝から行われたのですが、それが儀式ばっていることに反省が加えられ、最近はあまり目立たなくなりました。
数年前に亡くなりましたが、東大の私の同窓であった溝上 恵 氏も日本の地震予知連絡会会長としてこの訓練をリードしたのです。
東日本大震災は近代地震学の中でぽっかり抜けていた大事件として強調されています。
最近かなり進歩した地震学でも、今回の東日本大震災で日本の地震学者が1,000年紀という地震を始めて自分のものとして認識したと言えるのです。
地震帯の有力な一つである環太平洋地震帯で、これまでもマグニチュード M>9 の地震を何度か経験している訳ですが、それが日本に起こるという事を言った地震学者は居なかったのです。
少なくともM>9の過去の地震について調べた地震学者は皆無でしたので、2011年の3月11日に起こった地震では地震学者は頭を抱えてしまったのです。
後でその気で調べたところ、例えば869年(貞観11年7月13日)にM=8.3の巨大地震が三陸沖に起こったらしい、ということが分かって、これは今回の三陸地震に先立つ1,000年紀に属する超巨大地震ではなかったか、と考えられ始めたのです。
地層を調べると、三陸沿岸にその証拠が残されているらしい。現在は地震のメカニズムは分かったが、いつ起こる、つまり時間軸が人間のスケールを超え、不確さの幅が人間の一生を超えている所が大問題なのです。
2014年9月1日 瀬川 爾朗