集いの浮き沈みはどこから?
正確には創設後満39年になります。
この間に、会の経緯の報告書が第15年目、20年目、そして30年目に出され、今、第40年目の報告書が準備されつつあります。
これらの報告書を読むと、最初に目につくのがその会に集った会員数なのです。
第1回目の会は昭和50年(1975年)5月17日でしたが、初代会長 上田常隆氏(岩手県滝沢村出身 原敬元首相の甥 毎日新聞社長)のもとに900人の岩手県人が集まりました。
翌年の第2回目は2500人の出席があり、通常の建物では間に合わず、日本大学講堂を借りたという事です。その後は800人、700人というような数が続いたのですが、最近は500人前後です。
どんな会でも同じですが、今後集まっていただける会員数が何人かという事は、主催者側としては大問題な訳ですが、会員を増やしたいという事は共通していますから、色々な提案があります。
そこで岩手県人連合会は、有名人を会長にしようという時期がありました。
第4代会長高橋圭三氏(1994年会長就任---2002年逝去)および第5代会長井上ひさし氏(2002年会長就任---2006年逝去)などが将にその線に乗った人事でした。
高橋さんは花巻出身ですが、ご存知のNHKアナウンサーで、のど自慢のアナウンス等で名を挙げ、大変有名な方でした。
井上ひさし氏はもともと山形県の出身ですが、岩手県では一関や釜石に長期お住まいになり、作家として、当時は日本ペンクラブの会長をなさっておりました。
彼の「ひょっこりひょうたん島」などの作品は多くのファンをもち、亡くなった今でも本がよく売れているという事です。
岩手県人会の会長さんは初代の上田常隆氏を初めとして、逝去が即定年という不思議な関係にあります。
6代目の私は2007年に会長になった訳ですので、其の伝で行きますと、私も死ぬまで続けなければいけないことになりますか?
定年のことはともかくとして、有名な方が会長になった時には多くの人が集まるという事は確かです。
そういう方の場合には集まる人数は700---800人となることが普通です。
しかし、こう言う方々は、会長としては県人連合会に年に1—2回しか顔を出さないのです。
これは組織としては大変に困ったことです。
会長がその日だけのタレントに過ぎないということは色々問題を起こしていました。
私が会長をしている現在、集まる会員は400---500人なのですが、2011年の東日本大震災の際には、反対を押し切って開催した会に対して、なんと500数10人の参加者がありました。
また多くの募金も集まりました。
私は総会のみならず、県内の多くの「ふるさと会」へ直接踏み込んで、岩手県の方々と直接話をするようにしていたのです。
岩手県人連合会の使命は、在京の岩手県人が岩手県の文化、政治、経済、組織と手を結び、岩手県を、そして日本の生活を高めていくことに尽きると思います。
2011.3.11の大災害にもめげず、私どもが大きく支援したことは、岩手県人連合会の成果であると信じてやみません。
オリンピック・パラリンピック ~ 私の思い
今年、冬期オリンピック・パラリンピックがロシアのソチで開かれました。
ソチは黒海に近いロシアの都市で、緯度で言えば東北日本から北海道にかけてに相当します。
ここはロシアがウクライナと接しているところでもあり、特にその境界にあるクリミア半島では、両国の国境争いが起こっています。
歴史的には19世紀、クリミア戦争があった場所で、聖地エルサレムの管理権をめぐるトルコ・ロシア間の戦争の際に、英国の看護婦フローレンス・ナイチンゲールが活躍した場所として知られています。
冬のオリンピックは夏と比べて、何といっても、選手の数と観光客の数が少ない傾向にあります。
日本からの出場者も、選手は百数十人程度であり、このうち身体に障害のある選手、つまりパラリンピックの選手は、今年は二十人程度でした。
ソチのオリンピックは施設の準備や国内のテロの押さえなど、ロシアのプーチン大統領の力によって何とか成し遂げたことは幸いでした。
天候や雪の質なども、全体としては恵まれたと言ってよいのではないでしょうか。
冬のオリンピックは、日本からは岩手の出身者が多いのも特徴でした。
2月後半に行われたオリンピックの部には、八幡平市出身の永井秀昭氏(ノルディックスキー複合)と二戸市出身の苫米地美智子氏(カーリング女子)が居ました。
苫米地さんは知人が、たまたま東北日本地震津波によって大槌で被害に会い、命を失ったのですが、その人もソチに来るつもりでいたことを知っていて、彼の手持ちのストップウォッチを懐に入れソチまで持って行かれたということでした。
パラリンピックは3月前半に行われました。
参加国45か国、547人の選手が集いました。
この中で岩手県の関係者では、山田町出身の阿部有里香さん(18歳)(ノルディックスキー距離女子15キロ、クラシカル立位)がいます。
彼女はこの試合で8位に入賞しました。
彼女は左手が不自由なのですが、スキーで走る事と、一時止まって、鉄砲で的を撃つという作業をこなし、順位を決めるという難題をやり遂げたのです。
阿部有里香さんは出発前に山田町民によって壮行会が開かれ、帰ってからは、町役場で町長と教育長に招かれ、大会の報告を行いました。
岩手に関係のある選手では岩手大学出身の狩野 亮(27)(岩手大学)がいるのですが、彼は前回のパラリンピックと合わせてアルペンスキー男子滑降座位で2大会連続の金メダルを取りました。
これは日本勢初の快挙であったのです。
パラリンピックでは、しかし、選手発掘の仕組みがありません。
今回3人の高校生を掘り起こしたノルディックスキー・バイアスロン日本代表の荒井秀樹監督は、自ら選手を捜しスカウトすることの大変さを語りました。
世界でメダルを取るには、まずはチーム内で競うことが大事で、己のハンディキャップに悩んでいる若者に対して、そのことをさらにはっきりと知らせることの辛さ、残酷さを乗り越えさせることが大事なのだと語っています。
氷期、間氷期と二酸化炭素
今年は、東京でも雪が毎週降っていたように思われ、昨年までの地球温暖化はどこへ行ってしまったのかという人もいるようです。
先月末には、残雪が解けず、雪掻きで1日が終わったという人もいました。
気温も、早朝-5℃などという温度に出くわして、「寒い。だけど懐かしいな?」などという感慨を漏らす人も出てきたのです。
私も岩手県の出身ですので同感でした。
ところで、私の家は東京都心と富士山を直線で結んだ線上にあります。
一応東京都に属しているのですが、45年ほど前に引っ越した時には、周りは畑と田圃で、朝の冷え方はかなりのものでした。
しかし、それがいつの間にか家が密集する地帯となり、平均気温も高くなってきたのです。
最近気づいたことは、東京都の西側、すなわち調布、八王子付近は気象観測の盲点になっていて、NHKの気象予測がハッキリしないことです。
先日も、降雪量の予測が、都心は15㎝、山梨は40㎝、等という放送があり、その中間が抜けているのです。
実際には多摩地方では35㎝は積もったのですね。
実は、地震の予測についても、多摩地方は極めてあぶない環境にあるのです。
あの有名な関東大震災の震源は相模湾の海底で、藤沢、茅ケ崎、平塚、小田原に近い訳ですから、ここから北を見ると、東京都心や多摩地方は殆ど等距離にあります。
つまり、かつては都心のみが重視されていたものが、人口の増えた多摩地方も、それに劣らない状況が刻々と近づきつつあると言える訳です。
さて、今日まで、大気に含まれる二酸化炭素や、メタンガス等によって地球は温暖化していると言われ、これを抑えなければ、地球上の生物は手痛い仕打ちを受けると言われてきました。
しかし、今年のこの寒空などは、いったい何なのだと空を仰ぐ人が増えてきたのです。
実は、これこそが、二酸化炭素問題をはるかに凌ぐ、気温を支配する天体のメカニズムであると考えられます。
二酸化炭素に起因する大気温度の変化は、100年に2℃~3℃と言われておりますが、これとは別に、大気温度は太陽系の中での地球の運動と地球深部の変化によって、10℃/100,000年という振幅で、10℃の変化を繰り返していることが分かりました。

図:過去40万年間の氷床の上下m(≒気温変化)。
横軸 時間(単位1000年)、縦軸 氷床の高さ(単位メートル)
参考文献 阿部彩子(東京大学)他。NATURE 2013年
図は東京大学大気海洋研究所の阿部彩子氏らの論文(2013年)ですが、ここに見られるように、氷期―間氷期の温度変化は、のこぎり型をしており、約10万年かけて10℃下降し、1~2万年で元に戻る、という変化を繰り返している訳です(図の縦軸は単位がmですが、これは海氷の高さを表します。寒冷なほど高さは低下します)。
以上のべたように、氷期―間氷期の変化と、二酸化炭素などによる変化は変化の速さやタイムスケールが大きく異なるので、お互いに対応させるのは難しいわけですが、人類の生活に大変な問題を起こす、あるいは相互の効果を消しあう、ということが場合によっては起こり得ることを我々は忘れてはいけないと考えております。