北三陸を見た!
岩手県人連合会の県人による団体旅行は今年で2度目になります。
幹事のSさんの頑張りによって、平成25年11月4日より6日まで、今年は昨年より多い29人の人を集め、皆張り切って参加しました。
北三陸地域の観光の目的は、第一に2011.3.11の東日本大震災の痕を見ようというのが内心抱いていた事ですが、この大震災は、福島、宮城、岩手、青森の東海岸を舐めるように襲った震災なので、とてもいっぺんに見ることは出来ません。
実は昨年は被災地の中央、つまり、宮城県の牡鹿半島沖の位置に対して、より北方の岩手県を見ようという事になり、釜石市、大槌町、山田町から宮古市の一部までの参観を行った訳でした。
この中でも、2000人に及ぶ死者を出した釜石において、海抜50mに建てられた白亜の45mの釜石大観音が、無傷な姿で海面を穏やかに眺めている容姿は、亡くなられた方も、この世に残された人々も、不思議に慰められる気がするのです。
そこで今年は、さらに北方に迫ることを目的として、二戸市を経由して、大野村、久慈市、野田村、普代村、田野畑村、岩泉龍泉洞、田老町、宮古市、浄土ヶ浜、雫石町、小岩井農場、そして盛岡市まで足を延ばしました。
初日は野田村の「えぼし荘」一泊、二日目は「休暇村 宮古」に一泊でした。
ここに並べた町は、岩手県人と言っても、私も含めて、知らない人が多い町だと思っています。
そしてその大部分の町が、これまで起こった三陸大津波によって、人に知られぬ間に大被害を受け、多くの死者を伴った町なのです。
一方で、大津波の被害からすぐに復旧し、素晴らしい景観を維持している久慈の小袖海岸、岩泉の龍泉洞、北山崎岩礁、宮古の浄土ヶ浜、などもあります。
小さい町でありながら、かなり深刻な被害を受けた町に、田老町や野田村などがあります。
これらの町は、50年前後の間隔で起こった徳川、明治時代以後の数回の津波に対して、常に大きな被害を受けた町で、多くの人的物的被害を受け、今日に至っております。
中でも田老町の被害はその被害の厳しさは歴史的によく知られていたのですが、特に2013年の津波については、特筆すべき問題がありました。
田老町では明治時代や昭和時代の津波により30mを超す波高の浪に襲われたのですが、これに対応するために、本格的な防波堤をつくりました。
この防波堤は上から見るとX字の形に見えるのですが、Xが交差した部分が海から陸への船の通路になっていたのです。
しかし、防波堤をつくる為に数10年の歳月がかかり、しかも、堤防の部分ごとに、建設予算や、業者が異なったために、X字の4本の枝の特性が皆異なるという不都合が生じたのです。
堤防の強度や根の深さもばらばらであったようです。
このため、今回のような前例のない大津波に襲われると、X字がばらばらになり、堤防の目的が全く生かされなかったという事態が発生しました。
先日、田老町の解説者が涙ながらに1時間以上に亘って今回の被害の実情を説明する姿を見て、岩手県人会の旅行者も、皆涙を流して御聞きした訳です。
我々も次の地震津波に対して大いに身を引き締めることになったのです。
浄瑠璃と盛岡芸妓(じょうるり と もりおかげいぎ)
当時、1997年以降のことですが、マグロ漁業と造船業で栄えた清水市も、往年の華やかさを失い、市の人口も減りつつある時でしたが、なかなかの素質の芸妓とめぐり合い、愉快な時を過ごした経験があります。
この時以後は私には芸妓と付き合うチャンスはなかったのですが、今回岩手県人会との関わりで、岩手の県庁所在地 盛岡市の芸妓の話が出てまいりました。
実は先月、9月に盛岡で、盛岡劇場開場100周年の記念祝賀会があり、それに参加されたOMさんという方から、いろいろと話を聴くことが出来ました。
盛岡劇場で演じられた舞は、(平成版 花舞台千代顔見)、(杜の眺め・秋の稔り)、および(金山踊り・からめ節)という3曲であったという事です。
これらの曲は、人間国宝 常磐津英寿さんらによって改良が加えられ、盛岡の芸妓さんたちによって舞われたのです。
舞台では 三味線、浄瑠璃(歌い手)、立方(踊り手) が三位一体で演舞を行い、盛岡芸妓の技の粋を示したそうです。
盛岡劇場は東京の帝国劇場を見習って、帝国劇場完成の2年後、1913年 に建造されたという事です。
会館100年と言わずに、開場100年としたことは、名前は100年続いたけれども、途中で中身が変わったことによるそうです。
実は花巻の谷村新興製作所の(故)谷村貞治社長が、盛岡劇場を買い取り、「谷村文化センター」として文化活動に広く応用し始めたのですが、谷村社長が亡くなるや、活動が停止してしまったそうです。
谷村新興製作所という会社は、私にも身に覚えがあり、昭和30年代半ば、大学で谷村製の紙テープパンチャーなどを使ったことがありました。
初めは良く動くと思っていましたが、間もなく時代遅れになったことを思い出しました。
今回の盛岡劇場から得た資料には、岩手の歴史的な人材が多く出てまいります。
東京の歌舞伎関係者を除いても、宮沢賢治、鈴木彦次郎、井上ひさし、高橋克彦、深沢省三、谷村貞治 などです。
宮沢賢治はあまりにも有名になりましたが、その体力もものすごく、盛岡劇場で鑑賞した後、お金が足りなくなったので、花巻までの40kmを徒歩で移動して、そのまま花巻農学校で授業をしたそうです。
同じく作家である(故)鈴木彦次郎さん、(故)井上ひさしさん、高橋克彦さん等は作家が独自に出演する文士劇が大好きで、盛岡や東京で度々文士劇の役者になったという話もあります。
(故)谷村貞治はすでに述べたように、岩手の財閥でありましたが、工学者であると同時に、文芸にも趣味を広げて、一時落ち込んだ盛岡劇場を立ちあげるという事もしました。
しかし、体力の限界で途中で終わってしまったのです。
(故)深沢省三さんは本来絵描でありますが、同じく絵描の奥さんである(故)深沢紅子さんと共に、舞台芸能にも関心が深かったようでした。
予報や予知と、そして我が命
本当に、天気予報や地震予知、そして人命の予測は、どうにもならないほどに難しい、と言えるのでしょうか。
この中でも、やはり人命の限界の予測ほど困難なものはないと思うのですが、生きている我々は、人の命については、どうしても別の箱に仕舞って置きたがり、出来るだけ客観視しないようにしたがるのが不思議なのです。
つまり、人命の予知は、科学ではなくて、おそらく、医学、信仰、道徳、宗教、スポーツ、愛情などに関わるもので、それらから明確な答えが出ることについては、意識的に期待しない、という事になっているのでしょうか。
物事の予知に関しては、個々の出来事というよりは、その物事の共通な面についての普遍的な性質が分かるということに重点が置かれているように思います。
例えば人間について言うと、平均年齢、平均身長体重、平均的な脳の閃き、などいろいろ考えられます。
これらはAverageで物事を表す方法であって、それなりに重要な意味があると思います。
日本人の平均年齢が、例えば、80歳で、それは世界の国民の何番目に相当する、という事はそれなりの意味があり、それが時代とともに変化するという事も意味がある訳です。
ここで言う人命の限界の予測と、明日の天気の予知とを比べると、他人の命の予測は特定の1個人の命であるのに対して、明日の天気はある程度広い地域の天気について、不特定多数の人に関わる天気である、というところが大きな違いだと思います。
天気予報を地震予知に置き換えてみても状況は同じですが、予知の深刻さの、強さ、弱さの程度が極端に違うので、地震予知の適不適は、こと人間にとっては命に関わる事になってしまう事が多いのです。
地震予知では2011年3月11日の東日本大震災で、宮城県沖の数1000m深の海底が600mも西に動いたという報告があります。
これは海底GPS測位によって、現場で測られたもので、日本における測定としては画期的なのですが、これによるMagnitude= 9 という地震のものすごさが、目に見えるようでした。
この地震によって日本の地震学者が日本にもM=9 の地震が起こるという事を始めて実感した、ということですから、その意義は大変に大きいと思います。
実は数千mの深さの海底が数100m動いたという事は、陸上の日本列島においても、上下の数mの地殻変動を起こしていたという事で、我々に対する刺激は大きなものであったと思います。
物事の予知予測は、そこに至る技術のレベルで大きく変わる事とも確かです。
天気、地震、火山噴火、津波、そして人命など、予測の説得力と、それを支える技術レベルは、技術力とともに大きく変わり、予測の意味も違ってくることも確かであろうと思います。