瀬川爾朗blog -17ページ目

名誉なポストとは何だろう

最近、私が関わる学会から、名誉会員になってもらいたいので履歴と業績を送るようにという電話をいただいた。
これまでに名誉とつく肩書は大学の名誉教授のみであったので、有難いようでもあり、どうでもいいようでもある。
もし名誉会員になったとすると、通常、年齢は70歳以上で、学会費はなし、聴講/講演するばあいも、費用はなし、ただし、学会評議員になる資格は失われる、というような条件が付く。

こうしてみると、名誉会員とは、学会に対する過去の業績は評価し、死ぬまで名前は残すが、他には何もしなくてもよいという会員だということになる。
まさにお金との縁はなく、ただ名前(あるいは名声)によって学会に貢献することが仕事だということであろう。


こう思って、大学の名誉教授についてもいかなるメリットがあるか考えて見た。

先輩名誉教授からかねて言われていたことは、名誉教授の肩書があると名刺が作りやすく、そのことが特に重荷にもならない。
また生活する上で名刺があった方が便利なことが多い。

ただ、大学の名誉教授は、現役教授の口利きの外部への窓口として使われることも多く、不都合な場合もある。
私が直接かかわるT大学の場合、名誉教授は大学の寄付集めの窓口となることが多く、そのための非公式の集まりが学内で持たれることも多いと思う。


名誉教授にも停年があるような話があり、一時びっくりさせられたことがある。
昔は一度もらった肩書は死ぬまで通用すると思っていたが、しばらくして、名誉教授の「証書」を、ある総長の時代に改めて頂いたのである。

その証書の有効期限は80歳であった。
恐らくこれは、証書の有効性は80歳だが名誉教授の有効期間は命のある限りであると解釈している。
このことはまだ確かめていないのだが。

また、名誉教授の学内における待遇の中には、例えば大学図書館の利用のことなどがあり、名誉教授の証書によって図書が自由に利用できることなどが大変なメリットではある。
大学の証書が停年以後も個人の生活を規制するはずはないので、このことは大学の好意的処置だと解釈している。


最近の大学の人事を見ると、「副」というポストが大変に多くなったと思っている。
私の時代---20世紀の最後の国立大学---には副学長とか副所長とか副部長とかいうポストはほとんど聞かれることは無かった。

ところが、その直後から、大学には「副」という冠詞の着くポストがものすごく増えてきた。
副という接頭語の着く職は民間の組織には以前から多かったが、官の側もそのやり方を見習ったために、国立と私立が次第に区別がつかなくなり、両者の組織が人、物を問わず同一化しつつあるということを示しているように思われる。
単純に言えば、国中の官民が相身互いして、結果的に同じようになりつつあると言える。

ここで名誉と副とを冷静に比較すると、両者は人を区別するための暗号のように使われていて、それをあえて意識させないで人を動かす手段ではないかと思われてきた。

岩手の高校生と話をしよう

70歳を過ぎた私が一般の高校生と話をするということはきわめて稀なことであろう。
しかも場所は盛岡駅前のアイーナ(いわて県民情報交流センター)に於いてである。

盛岡は岩手の県庁所在地だから私にとっても馴染みがあるかと言えば、必ずしもそうではない。
私の御袋は明治時代の盛岡生まれなので親しみがありそうに聞こえるが、結婚生活は釜石だったので、私にとって盛岡市は必ずしも親しみのある所ではなかった。

親しくなったのは、東京大学停年後、3年間だけ盛岡の隣の滝沢村に建設された岩手県立大学総合政策学部で授業をした事ぐらいである。
もっともこの時に体験した岩手山と、広大な滝沢村、そして「チャグチャグ馬っこ」の懐かしさはまた格別ではあったが。


今年の2月と3月、2度に亘って盛岡駅前のアイーナで会った高校生は、30数名であった。

私は岩手県の学生援護会から頼まれて、東京で大学に進学した岩手県の高校生の宿泊場所を探してあげるのが、この時の仕事であった。
学生たちは自分の現状の説明と、岩手県の施設の世話になる必要性を書いたかなり詳しい申請書を提出し、私のような何人かの審査員の判断に任せるという仕組みになっていたのである。


集まった学生はすでに進学先が決まっているので、特別悲壮な顔をしていない。
通学時間は30分から1時間という希望が殆どである。

我々審査員の質問は100項目ぐらいに亘っているが、その中から10項目ぐらいについて質問する。
この他の問題は着席した生徒の顔や振る舞いによって自然に解かるようだ。
審査員は2人1組となって審査するが、審査員間のお互いのことは実はよく解からないので、その場で感を働かせて何とか解決するようにしている。

結果としては学生の希望は殆ど満たされたようである。
寮監の言によると、これまでも入寮して問題となる生徒は10年に1-2人ということであった。

しかし、審査が終わった後で、やや気になることが残った。
それは一流大学への進学者が多いということである。以下の数字はやや不正確ではあるけれども、そのつもりで読んでもらいたい。


今回私が扱った高校生は30数名である。
合格者の中では東大、東工大、早稲田、お茶の水はあわせて10名、日大、立教、理科大、学芸大、帝京、明治、専修、大正 等が21名であった。
大掴みに言えば、岩手県の学生援護会の宿舎では、その30%が「一流大学」の入学者である、と言うことになるのだろうか。


そこで、今度は岩手県の高等学校の大学進学について考えて見よう。
東日本大震災の影響はひとまず置くとして、私が釜石高等学校を卒業した時代まで含めて、岩手県全体からの大学進学者は、東京大学では毎年10数名にしかならなかったと思う。

今回、岩手県学生援護会の宿泊の公募に対して、岩手県内での応募者が盛岡の高等学校から75%、残りの25%は一関、二戸、北上、奥州市等であった。
これを見ると、この学生援護会に関する限り、岩手県の大学生は東北本線上の内陸部が重視され、今回津波被害を受けた岩手県東部、三陸海岸沿いが見落とされているという気がしてならない。

祇王と仏御前(ぎおうとほとけごぜん)

今年の春は、やはり、いつもとは違う。

平均気温が数度C低いのは本当らしい。
10年ほど前には、春先に一度雪らしい雪が降り、お互いの噂話に、ああこれで春は終わったな、という感慨が述べられるのが普通でした。

ところが、今年は東京でも4,5回、今の時期に、すでに雪らしい雪を蒙っているのです。
しかも、気温が常時低いために、春の植物の芽の着き方が違う。

東京の郊外にある我が家でも、春に花をつける植物がいくつかあるが、中でも、沈丁花や辛夷(コブシ)、また山茶花などは蕾の具合がいつもとは違う。
すでに3月なのに、沈丁花の蕾はいまだしで、辛夷の蕾は堅い。

一方、山茶花は1月半ばから花が咲き始め、今や花は満開である。
このような花の蕾の着き方は、必ずしも我々の常識に従っているとは思えないが、気温と風の違いが大きな影響を持っているだろうということは確かなように思える。


私どもは、春先を思う時、中世の人たちの暮らし振りから、昔の男女の関わりの中に、その美しさ、寂しさ、或いは勇ましさなど、思いの丈を尽くした姿を見ることがあります。
日本の古典芸能の中の能を見ても、その例は大変に多い。

室町時代西暦1,400年前後の人であった世阿弥元清(1363—1443)は、当時の謡曲作者の代表として挙げられるが、時の将軍足利義満に厚遇され、田楽、猿楽などの先行芸術の特徴を取り入れて能を完成した。
また「花伝書」を著して、能を芸術の域まで高めたが、後に、咎があって佐渡島に流された。
世阿弥の作品には謡曲「祇王」「敦盛」「清経」、「白楽天」等100編を超す曲がある。


宝生流の「祇王」という曲を最近知ったので、その感想を述べてみよう。

西暦12世紀の平清盛の時代である。
時は、まさに清盛の最盛期の時代で、祇王は清盛づきの遊女として日夜の区別なく酒宴を催していた。
そこに加賀の国から仏御前という白拍子がやってきて是非清盛に会いたいといった。
祇王にぞっこん惚れていた清盛は、初めは会いたくないと言っていたが、一旦会ってみると、祇王に劣らぬ美しさで表情もすばらしいので、傍で見ていた祇王は、自分はここから消えてしまいたいと言い出したのである。
それを感じた仏御前は、直ちに祇王を慰め、今後は2人一緒に清盛に仕えようということでお開きとなったという話である。

この話は一見つまらなそうにも聞こえるが、「祇王」とは何かを見てみると、神を表す「祇」の王ということで、つまり神様なのだ。
だから、祇王と仏御前をともに抱えた清盛は、この世を支える神と仏に共に懇ろになったと考えることができる。
能芸術のような古典であっても、それぞれ個性があって、大変ユニークな面があると思いう。

特に清盛は、浄海(じょうかい)とか平相国などと呼ばれ、知力、権力を尽くして勢力を広げ、最後に源頼朝、義経に敗れた訳である。


3月は3日の雛祭り、12日の奈良東大寺二月堂お水取り、20日の春分の日など祭り日が多く、婚礼の最も多い月の一つだ。
我々の人生の変わり目であることも多く、さらなる飛躍に期待する時でもある。