地震発生予測と原子力発電所
同じく、都市の直下型大地震の例となる立川断層の存在のごとく、地震断層の最近動いた時期が1--3万年も昔なのに、何でそれを問題にするのかという議論であります。
地震の予知予測では、発生する地震の時刻、場所、大きさが必要な訳ですが、最も大事な地震発生時刻があいまいな場合が多いのです。
福井県の大飯原子力発電所は5か所ある福井県の原子力系発電所の1つですが、その真下の10㎞前後に活断層があり、数万年の内に大地震がおこり得る、と考えられています。
しかし、この観測報告をよく見ると、時間軸が人類の歴史の幅をはるかに超えており、起こることは確かであっても、それを人生設計の中に取り込むことは出来ないのではないでしょうか。
もし、現在、数万年の内の最後の1000年目に入っているとしても、そのことまでを我々が想定しても仕方のないことだと考えます。
事実、地震災害をはるかに超える「宇宙災害」に思いを馳せれば、100億年後には太陽系は消滅する、と言われても、我々はそれについてどうしようもないのです。
2011年3月11日の東日本大震災は、日本に与えた災害の大きさも格別でしたが、それと同時に、日本人、いや日本の地震学者に、地震に対する考えの大変革をもたらしたと言って良いと思います。
この時期以後、地震学者はMagnitude(M) =9 以上の地震を始めて実感したこと、地震の研究は1000年の大きさの時間を直接扱う必要があること、と同時に、100年オーダーの動きを組み合わせたPlate Tectonicsを見直す必要が有る事でした。
東日本大震災以後、日本海溝がもととなる岩手県、宮城県にまたがる地殻変動はリセットされたのではないかという意見があります。
この大地震では海洋プレートが70mも陸側にすべって泊まり、地殻の滑り難さを示すAsperity(海陸相互の地殻の摩擦状態)が解消されたのではないかという想定です。
従って、このAsperityは、新たな観察を必要とするという解釈があります。
一方、地震学者の間では、これで東は終わったので、次は西だ、という意見も強いのです。
そこで相対的に数が多い関西出身の地震学者が頑張り始めたそうです。
ただし、東海地震の予知を初めとして、地震予知の試みは関西の方が強く、今度の東日本の例を見て、考えを変えつつあるように見えます。
「地震予知は身の丈で」という考えです。
余り画期的な考えではないけれども、実力相応なレベルで予知をしよう、という事でしょう。
現状では、東海地震は30年以内には30%の確率で起こる、また、M= 9 の地震は1707年の地震をそれに近い地震とすれば、すでに300年経っているので、今起こる確率は30%かという事になるでしょうか。
活断層の深刻さはその動きがいつ起こるかで決まる。
ひずみの程度とひずみが破壊する時限とは大きな幅があります。
あの寺田寅彦博士や竹内 均博士の古典的な結論も、未だに有用であると思わざるを得ません。
遠い昔の同級会
私の年齢ほどの仲間は、幼いころに数奇な運命をたどった人が多いようです。
国民学校時代(今では小学校時代)が太平洋戦争の戦中戦後の時代であったために、多くの子供が親や家を失ったり、自分の命すら辛うじて繋ぎ止めた人が多かったのです。
私の場合は小学校を2度転校しました。
最初は、戦争中、仙台の国民学校に入学しました。
そして戦中、戦後に跨って、岩手県の紫波郡紫波町古舘国民学校に入り、日本の終戦を体験したのです。
紫波町は私の親の出身地でした。
そして終戦直後からは岩手県の釜石市大渡小学校に3年生として転校したのです。
古舘国民学校の3年生の8月15日に、日本は終戦を宣言しました。
私は父の弟である叔父とともに、古ぼけたラジオの前に直立不動して、昭和天皇の終戦の詔勅を聴き、涙を流したのです。
ところが先月6月に、紫波町の酒屋さん「月の輪酒造店」の横沢大造氏の格別のお招きによって、古舘小学校の67年前の同級生に会うことが出来ました。
そのための1か月半程度の準備によって、小学校の4,5,6年の数百人の生徒に話ができ、はるか昔の私の同級生15人程と、学校長および関係する数10人の父兄と共に、おいしい酒を飲んで一晩過ごすことが出来たのです。
67年前の同級生に久しぶりにあった訳ですが、実は1人として面影のある同級生は居なかったのです。
私は昭和20年に古舘国民学校に在籍していたのですが、恐らく数か月しか在籍しなかったのでしょう。
私の心の中には、高橋文夫君と永井信子さんの顔だけが思い出として残っていました。
同級生の高橋文夫君は「でんぼかまどの文夫君」と言い習わして居たのですが、学校の行き返りは常に一緒でした。
永井信子さんは、私たちが避難していた親父の実家—長岩寺---の隣にある真言宗のお寺で、何かにつけて遊びにでかけたお寺でした。
今回の訪問では、高橋君はすでに亡くなり、永井さんには会えたのですが、初めは誰だかわかりませんでした。
そうこうしている間に夕方の親睦会がはじまり、学校の隣の公民館で、関係者数十人による懇親会が始まりました。
小学校校長や役付きの街の人たち、月の輪酒造店の関係者、同級生同窓生の方々、など数十人で本日の想い出深い集りを祝い合いました。
翌日は時間の許す限り、紫波町の名物を鑑賞しようという事で、横沢さんを初めとして4人の仲間で見学をしましたが、印象に残ったのは、やはり、大掛かりな酒造りの醸造庫と、銭形平次で名高い紫波町出身の野村胡堂(別名アラエビスとして音楽のデータにも強い)の記念館が抜群でありました。
帰りは東北本線の日詰、紫波中央、古舘のいずれに乗っても良いという事でありましたが、紫波中央から乗って東京に向かうことになりました。
まわりの田圃では稲と麦が次第に豊かになりつつあることが伺えました。
田圃が麦畑になりつつあるところもあり、東京の我が家も40年前には見渡す限り畑であったが、と懐かしく思い出されたのです。
般若心経(はんにゃしんぎょう)
この先生は私が寺院の息子であることに関心があったらしく、経の話、特に般若心経(または摩訶般若波羅蜜多心経ともいう)が空で言えるかどうか、というようなことを訊かれたものです。
私もお経を覚えることは嫌いではなかったので、トイレに般若心経の経文を書いて暗記をするように努めたことなどを話したものです。
A先生は83歳でなくなったのですが、最近では私の同級生もぼつぼつと姿を消しているものですから、空で言えるだけではなくて、お経の内容もしっかりとつかみたいものだと思うようになったのです。
仏教を代表するもっとも普及しているお経は、般若心経や観音経ですが、観音経は観音の御霊を念ずることによって諸々の困難から救われるという、比較的分かりよい祈りであるのに対して、般若心経は人も物もそれが存在する意味を全て否定した結果、すべてが活き返ってくるという観音の心を示したものでした。
中村 元 東大名誉教授(1999年没)の訳によれば、まとめとして
-----往ける者よ、往ける者よ、彼岸に往ける者よ、彼岸に全く往ける者よ、さとりよ、幸あれ、ここに、知恵の完成の心が終わった-----、
という事になる訳です。
さて、これで般若心経が分かったかというと、どうして、そうはいかないことが分かります。
この中に、舎利子という言葉が二度出ております。
舎利子は釈尊の弟子の中で最も偉大である弟子・舎利弗尊者のことで、空を理解出来る弟子として、釈尊が説法する相手として選ばれた訳です。
般若経には舎利子という言葉が2度出てまいります。
1度目は色不異空、空不異色、色即是空、空即是色とつながります。
言い換えると、この世においては、物質的現象には実態がないのであり、実体がないからこそ物質的現象である。
実体がないと言っても其れは物質的現象を離れてはいない、また物質的現象は実態がないことを離れて物質的現象であるのではない、という事になります。
2度目では是諸法空相という言葉が続きますが、これは釈尊が舎利仏尊者に対して、この世のありとあらゆる存在は空という特性があると、改めて宣言されたのです。
ここまで書いたことは、中村 元 先生等の、最高の仏教学者のなされた解釈ですが、先生はまた次のようにも言われております。
「仏教一般では慈悲が中心であって、愛についてはあまり多くを説かない。仏教者にとっては愛は憎しみと背中合わせであり、いかなる愛も、その中に憎しみを可能性として蔵していると考えられている。愛が深ければ深いほど憎しみの可能性も大きくなる。それは愛が本質的には自己を愛することを中心としているからである。」
ここまで書いてきて、私の筆も行き詰まってしまいました。
全世界の仏教徒が生涯かけて考えてきたことを、私ごときが1日2日で考え終わることはありえない。
今後、般若心経の心を思い起こし、より正しい考え方に至りたいと思っています。