遠い昔の同級会 | 瀬川爾朗blog

遠い昔の同級会

私の年齢ほどの仲間は、幼いころに数奇な運命をたどった人が多いようです。
国民学校時代(今では小学校時代)が太平洋戦争の戦中戦後の時代であったために、多くの子供が親や家を失ったり、自分の命すら辛うじて繋ぎ止めた人が多かったのです。

私の場合は小学校を2度転校しました。
最初は、戦争中、仙台の国民学校に入学しました。
そして戦中、戦後に跨って、岩手県の紫波郡紫波町古舘国民学校に入り、日本の終戦を体験したのです。
紫波町は私の親の出身地でした。
そして終戦直後からは岩手県の釜石市大渡小学校に3年生として転校したのです。


古舘国民学校の3年生の8月15日に、日本は終戦を宣言しました。
私は父の弟である叔父とともに、古ぼけたラジオの前に直立不動して、昭和天皇の終戦の詔勅を聴き、涙を流したのです。

ところが先月6月に、紫波町の酒屋さん「月の輪酒造店」の横沢大造氏の格別のお招きによって、古舘小学校の67年前の同級生に会うことが出来ました。
そのための1か月半程度の準備によって、小学校の4,5,6年の数百人の生徒に話ができ、はるか昔の私の同級生15人程と、学校長および関係する数10人の父兄と共に、おいしい酒を飲んで一晩過ごすことが出来たのです。


67年前の同級生に久しぶりにあった訳ですが、実は1人として面影のある同級生は居なかったのです。
私は昭和20年に古舘国民学校に在籍していたのですが、恐らく数か月しか在籍しなかったのでしょう。

私の心の中には、高橋文夫君と永井信子さんの顔だけが思い出として残っていました。
同級生の高橋文夫君は「でんぼかまどの文夫君」と言い習わして居たのですが、学校の行き返りは常に一緒でした。
永井信子さんは、私たちが避難していた親父の実家—長岩寺---の隣にある真言宗のお寺で、何かにつけて遊びにでかけたお寺でした。
今回の訪問では、高橋君はすでに亡くなり、永井さんには会えたのですが、初めは誰だかわかりませんでした。


そうこうしている間に夕方の親睦会がはじまり、学校の隣の公民館で、関係者数十人による懇親会が始まりました。
小学校校長や役付きの街の人たち、月の輪酒造店の関係者、同級生同窓生の方々、など数十人で本日の想い出深い集りを祝い合いました。


翌日は時間の許す限り、紫波町の名物を鑑賞しようという事で、横沢さんを初めとして4人の仲間で見学をしましたが、印象に残ったのは、やはり、大掛かりな酒造りの醸造庫と、銭形平次で名高い紫波町出身の野村胡堂(別名アラエビスとして音楽のデータにも強い)の記念館が抜群でありました。


帰りは東北本線の日詰、紫波中央、古舘のいずれに乗っても良いという事でありましたが、紫波中央から乗って東京に向かうことになりました。
まわりの田圃では稲と麦が次第に豊かになりつつあることが伺えました。
田圃が麦畑になりつつあるところもあり、東京の我が家も40年前には見渡す限り畑であったが、と懐かしく思い出されたのです。