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岩手の逞しさよ

先月の末に岩手県人連合会の有志と共に、2011年に起きた東日本大地震・津波によって手ひどい被害を受けた岩手県東部を旅行したのです。
東北新幹線で岩手県の一関まで行き、そこで岩手のバスに乗り換えて、釜石、大槌、山田、宮古、花巻、中尊寺を巡ったのです。

宿は釜石市鵜住居の宝来館と花巻市鉛温泉の愛隣館でしたが、これらの宿が2泊の疲れを取ってくれました。

我々が訪れた町は痛ましい被害を受けた町が多い訳ですが、痛ましさの中で、それから抜け出ようとする人間の逞しさを思わせる部分も多く、我々は全員、元々岩手県人であった訳ですが、その岩手県人をはっとさせるような地元の人たちがいることに改めて感銘を受けたのです。


最初に入った町は釜石市だったのですが、私の身内である釜石大観音を改めて訪問し、それから受ける充実感に感動を新にした訳です。
釜石大観音の45メートル高の台座から見下ろす釜石湾では、その湾口に横たわる「湾口防波堤」が、昨年の津波によって無残にも破壊されています。

しかし、その防波堤のお蔭で、津波の波高が3割減少し、到達時間が6分遅れたという説もあり、大いに役に立ったのだという解説員もおりました。
同じ釜石にある旅館「宝来館」のマダムは、大変なツワモノらしく、津波でさんざんやられた己のホテルを、同じ場所に早々に建て直し、津波の中を泳ぎまわって生き抜いた馬力で、経営を続け、ホテルを復活させたと言っておりました。
彼女の元気さ、勇ましさには、我々も感服したわけです。


さて、中尊寺は最後の訪問でした。

私も少年時代から、2-3度は来ているのですが、今回の訪問はさすがだと感じました。
なにしろ、観光客が多くて(昔の10倍以上?)、歩くのも大変な状態なので、やはり世界遺産化の影響がこれほど大きいのだと実感しました。

中尊寺は天台宗東北大本山で、西暦850年に慈覚大師円仁が開山しました。
12世紀初め、奥州藤原氏初代、清衡公が前九年、後三年の合戦で亡くなった命を平等に供養するために大伽藍を造営しました。

惜しくも14世紀に堂塔の多くは焼失しました。
しかし、金色堂を初めとして、三千余点の国宝・重要文化財を伝える平安仏教美術の宝庫となったのです。
ユネスコの世界文化遺産としては「平泉・仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」として登録されています。

ここでは中尊寺以外にも、毛越寺(もうつうじ)も有名で、美しい池がありますが、ここでも広大な敷地に、焼失した建物を支えた石のブロックが埋め込まれているのが分かります。
中尊寺と毛越寺にはそれぞれ能舞台があり、年に数回上演されております。

いずれも野外の能舞台なので痛みは激しいようですが、毎年、能や延年舞(寺院の大祭の後で僧侶によって舞われる舞)が今日でも舞われております。

この他に、平泉には柳之御所史跡公園がありますが、これは藤原家が政治を行ったところで重要な場所です。
しかし、世界遺産からは外されたようです。


以上、今度の旅行の一部を述べましたが、他の機会にもう少し追加したいと考えます。

天文学は面白い

若い頃からしばしば通っていたのに、その施設の本当の良さが分からず、最近やっと身に染みて感じたということがあるものです。
特に歴史的な施設にそれが当てはまり、その魅力がやっと分かったということがあります。

最近、所用があり、日本の国立天文台(NAOJ)で半日を過ごし、昔、公務で訪問し、天文台の人事などの手伝いをしていた頃の殺伐とした雰囲気とはまるで違う体験をしました。


今回も老人仲間の親睦会での体験であったのですが、15-16人の仲間で、先月、東京の三鷹市大沢にある国立天文台を訪問しました(9月28日)。
この天文台はかっては東京天文台と呼ばれ、東京大学付属として、東京麻布で40年間もいたのですが、都会の照明を避けるため、その後三鷹に移転しました。

しかし広大な敷地の三鷹でも遮蔽が不十分で、研究内容によって、その後更に日本の各地に支所をつくっているのです。
現在日本の天文台の職員は合わせて500人ぐらい居るのだそうですが、彼らは日本全国に分布しているということです。


さて、今回の見学で分かったことは、三鷹大沢にある天体観測施設の最も古いものは国立天文台の第一赤道儀室で、1914年から三鷹への移転が始まってから、1921年(大正10年)に完成しました。
構造は鉄筋コンクリート造りの平屋建で、ドーム内にある口径20cmの望遠鏡はドイツのツァイス製で、その後60年間、太陽黒点のスケッチ観測に活躍しました。

この望遠鏡を初めとして、

大赤道儀室(65㎝屈折望遠鏡 日本最大 1926年建設)
太陽塔望遠鏡(アインシュタイン塔 1930年建設 一般相対性理論を太陽光の観測から検証する)
レプソルド子午儀(大子午儀 1880年ドイツ製 港区麻布の天文台時代以来使われ、その時に使われた日本の麻布飯倉の経緯度が日本の天文経緯度の原点となる)
ゴーチェ子午環(1924年 天体の精密位置観測)

等々興味のある装置が多くあり、これらはいつでも動かせる状態になっています。

さらに、私どもの興味は4D2Uドームシアターにあったのですが、これは4次元のプラネタリウム というべきもので、星だけではなくて、宇宙空間全体の構成を、或いは大きく、或いは微細な部分まで、徹底して見抜く、という構成になっています。
これはなかなか見事なものでした。


ところで、三鷹の天文台敷地には思いがけない情報があったのです。
それは天文台構内古墳の調査がかなり良く纏められてあったことです。

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図は、紀元7世紀ごろの墓地ですが、三鷹市が立派な報告書を出しています。
我々が見て歩いた観測室のすぐ側に、こんもりと盛り上がった墓地がありました。

この墓地は昭和45年、46年に1度調査され、また平成16年--21年に5か年にわたって継続調査されて、その素性がかなり明らかにされました。
分かったことは、この古墳が横穴式石室であり、上円下方墳という特異な形であることが判明したことです。
実はこの形式は、三鷹からそれほど離れていない府中市武蔵府中熊野神社古墳と同型のものであることが分かり、当時の文化圏についての重要な証拠となると考えられました。

東京スカイツリー

かねがね気にしていた東京スカイツリーを遂に見ることが出来ました。

完成後1年以上過ぎているので、そろそろ私らも見る時期かとは思っていましたが、たまたま九州で仕事をしている娘が、盆休みに帰ってきたので、遂にそのチャンスに恵まれたのです。
先月(8月)に娘は、私に任せておいて、ということで、東京のはとバスに便乗し、私と家内とにサービスをしてくれたのです。

相変わらず大変に暑い天気で、見学旅行としてはやや辛い日であったのですが、はとバスのサービスも良かったので、ホテルでのご馳走の後、東京スカイツリー見学を楽しく有意義に過ごさせていただきました。


東京スカイツリーに近づくと、まず隅田川を渡り、東京ソラマチを経、初めて東京スカイツリーが目の前に迫ります。
余りに大きいので、近づきすぎるとツリーを見失います。
東京ソラマチも、粋でいなせな下町の魅力を引き継いだ多彩なショップがありましたが、今回はあまりよく見ずに通り過ぎ、何千人という客とともにスカイツリーの中に飛び込みました。

こうなったら後はお客と行動をともにせざるを得ません。
大きな超高速のエレベータに乗ると50秒ほどで第一展望台(350m)のプラットフォームに到着します。

すごいスピードですが、その実感が湧きません。
みな我も我もと展望台に降りて、あちこちきょろきょろ見ています。

私も昔はともかくとして、こうゆう気分は久しぶりでした。
人は、このような円形の通路を勝手に歩かせると、右回りと左回りが同じぐらいになり、ぶつかりながらも、ただあくせくと動き回っています。
昔の小中学校の運動会の時に似ています。

窓から下を見ようとすると、前列の人の頭が邪魔になって良く見えませんでした。

この廊下にはところどころにガラス窓が付いています。
覗くと350m下の景色が見えるのです。

厚さが10㎝ほどのガラスなので、人が乗っても壊れるはずはないのですが、私は終にその上を歩くことが出来ませんでした。
今考えても、あのガラスの下の景色は怖い・・・。

そうこうするうちに、家族も同じように動くのが嫌になったらしく、集まる場所と時間を決めて、別行動にしました。
私は少し疲れて、やや静かな場所のソファーで、30分ぐらい、高さ350mからの塔の外の景色を眺めていました。
そして、気持ちが落ち着いてくると、山頂に1人いる時のような気分になり、いつの間にか塔の周りを回遊する大型のツェッペリン型飛行船の動きを辿っていたのです。

「ああ、スカイツリーの中から外の動きを見る者がいると思えば、その周りを飛びながらスカイツリーを観察する客も居るものだな」と妙に納得するような気分になってしまいました。
ツェッペリン型飛行船の利用は日本では単価がものすごく高いことを昔から聞いていました。


このスカイツリーでは東武鉄道が昔から持っていた敷地が利用されたのです。
しかし実際の工事は多くの会社の密接な協力の賜物でした。
特に、鉄筋コンクリートを使わず「鋼鉄」を巧みに使い、地震に強い日本の五重塔の「心柱制振」の考えを生かした建造法は、今後の日本の建築法を左右するものであると考えました。