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久しぶりの国会見学

先月26日、プロバスの会の支援により、50年ぶり?という生の国会の見学をすることが出来た。
プロバスの会はすでに説明済であるが、繰り返して述べると、60歳以上の「ロータリークラブ」と言って良いと思う。
比較的新しいシステムの会であるが、集会が月1回であることと、会費がロータリーの1/10程度なので、付き合いの良い、あるいは年寄り向きの会、と言って良いだろうか。
いずれにしても会としてそれほど古くはなく、年寄りには付き合いの良い場所ともいえる。


さて、私の所属するプロバスの会の新しい試みの一つとして、この世の新しい組織を改めて勉強しよう、ということがあり、まず、古くて新しい会として、国会議事堂を見てみようという動きがあった。
私もあの50年前の安保の国会包囲以来、議事堂には入ったことがないので、良くも悪くも行ってみようではないかということになった。

この切っ掛けが私の街から出ている民主党の議員N氏からの誘いであった。
N氏の誘いによって、35人ほどの会員の中から、とりあえず4人が当日の会に参加することになったのである。

丸ノ内線の国会議事堂前から集合場所までは結構道に迷ったが、衆議院第一議員会館で三十名程度の参観者に会うことが出来た。
この後はN議員の先導で、おおざっぱではあるが、議事堂全体の構成を知り、敷地面積10万平方メートル、中央の塔は65.45mの高さ、向かって左が衆議院、右が参議院、広さはともに743.81平方メートル、というようなことが分かってきた。
また、議場や委員会室などを見学して、昼食前にクイズなどの遊びがあった。

実はこの集まりは子供も含まれているので、子供だましのものもある。
昼前に議員よりさまざまな話を聴き、最後に次の選挙にはよろしくという言葉を聞いた。
このことはいろいろ世話になっているので仕方のないことであろう。
(国会議事堂みやげのステッカーの例を示す)。

昼食の後、午後1時から参議院の本会議場に案内された。
はじめに自民党の代表が議題に対する意見を述べ、それに対して総理大臣である野田佳彦が答弁をするといういつもの仕組みである。

瀬川爾朗blog中途から中途の話であったために全体の趣旨を掴むことはできなかったが、日頃テレビで見ている雰囲気と全く同じで、「ああ、やっているな」という感じであった。
議場を見ると、1階の議場の上方には、マスコミの記者席や、テレビ、カメラなどの席が多数あり、その上の我々観覧者の前には多数の警備員が規則的に配置されている。
家でみるテレビには絶対に映し出されていなかった観覧者とそれを警戒する警備員を、初めてしみじみと見回すことが出来たのです。
なるほどこれが議員と議員以外とを区別する扱いの大きな違いなのだな、としみじみと感じたわけなのである。


今回はたまたま身近な代議士との縁で久しぶりの国会を見学することが出来たが、もう少し腰を落ち着けて見てみたいものだと思った。

昭和11年に完成したということだが、建築材料を見ると古代の化石の詰まった岩石があちこちで使われており、また関係する昔の政治家の銅像などもあり、いろいろと興味をそそられた。

東北の芸能---鵜住居虎舞や黒森神楽

東北の芸能といえば数限りないが、東日本大震災の被害で話題になったものをみると、その芸能の中で、いくつかのトピックスが挙げられるようです。
たまたま先月の6月23日、平河町の傍の隼町にある国立劇場で東北の芸能—岩手—が取り上げられ、大変に評判がよかったようです。
私も岩手の宮古の方々に誘われ、その芸能を楽しむことになりました。


私は岩手県で育った人間なものですから、郷土芸能についてはある程度耳を慣らされています。
それによると、どうも、岩手県では大きく分けて、内陸のリズムと、海洋のリズムに分かれると思うのです。
地理的には、内陸のリズムは東北本線の南北線とそれから東西に延びる釜石線と山田線の周辺に広がったリズムがあり、海洋のリズムは三陸沿岸沿いに仙台の方から三陸鉄道を通って北に広がったものと見ております。

岩手の文化圏は盛岡市を中心としたものでありながら、東側の三陸沿岸とは、北上山系という巨大な山によって東西に分かれており、特に三陸海岸沿いが南北に細長く独立した文化圏に分かれていると考えられます。
しかし、その文化圏の仕分けが単純ではなく、環境の微妙な違いによって複雑に変化しております。


鵜住居虎舞は地域別には釜石市の虎舞と見做すことが出来、虎の頭を強調した踊りであります。
獅子の威力を借りて災いを祓う、獅子舞の太神楽から派生した芸能であります。
鵜住居は釜石の北端にある小さい地域ですが、芸の内容は釜石の中でも最も豊かです。

踊りには矢車、跳ね虎、笹食みなど豊富な内容を持っています。
私も子供のころ覚えた釜石虎舞の繰り返し歌う懐かしいメロディーを今でも覚えていて、無意識で口ずさんだりすることがあります。


この一方で、黒森神楽は岩手県宮古市の三陸沿岸に位置する黒森神社に属しています。

黒森神楽は15世紀ごろ生まれ、南部藩領に分布していた山伏神楽に属し、その中でも獅子神楽に分類されたらしいとの事です。
その衣装を見ると、両耳の位置から垂れ下がった「耳かけ」が大きくものを言い、また個性的な男女の面をつけた舞手により人間の喜怒哀楽が激しく表現されます。

各種の舞には、シットギ獅子、清祓、榊葉、松迎、山の神舞、恵比寿舞などがあります。
清祓は清祓面を着けたいざなぎの尊が、桃の枝、塩、太刀による祓い清めの舞を行い、榊葉は水上の舞とも言って、悪魔を祓い、家と大地に祝福を込める舞、松迎は阿吽の面(物事の初めと終わりの面)をつけた千秋と万歳の兄弟二人が正月の門松を立てて新年を祝う舞、等々であります。


鵜住居虎舞と黒森神楽を比較する限り、最後に「神に祈願する」ことを除けば、芸能としてはまるで違うとみてよいでしょう。
鵜住居虎舞が基本的には海を経て三陸海岸より岩手に入ってきた芸であることに比べ、黒森神楽は岩手内陸部から三陸海岸に及んできた芸であるということがはっきりしてきました。
思うに、三陸沿岸に並んだ小都市の生み出す芸能が海岸線を境に文化的に大きな差を生み出すということに強い衝撃を受けたのです。

我が学兄を思う

6月になると、本来ならば4月以来の忙しさから一息つき、ここらで一服しようかという時であると思います。

しかし私にとっては今年の最初の忙しさがやってきたという心境なのです。


実は私の兄、瀬川晴朗(歳の差は11歳)が平成22年の6月21日に亡くなったのです。

仮葬儀の後、1年後の6月21日に本葬をしようとしていたところ、その3ヵ月前に東日本大震災に遭い、私の実家(岩手県釜石市)も、寺院であるがために本堂に人を泊めるなどの騒ぎが起こり、葬儀どころではなくなったのです。

結局、さらに1年後の本年6月に本葬及び後継者の引継ぎの儀式が執り行われることになりました。



私の兄は、20代のときには終戦直前の日本軍に所属しており、幸か不幸か実戦にも参加せず、終戦を迎えた組でした。

私の親父の弁では、大東亜戦争で悪戯に年を取り、その後途方に暮れてしまった世代であると言っていました。

事実その後の15年ほどは、何とも言うに言われぬ生活であったようです。

そして昭和45年ごろから、親父のいないお寺の跡を継ぎ、目を見張るような仕事を始めたのです。



私の兄の特徴は、どうも宗教家というよりは仏教美術家であったように思います。

建築や美術の面で、さりげなく見える作品でも、我が学兄なればこそという感覚が要所要所にみられるものが多いのです。

その最たるものが、「釜石大観音」だと私は信じています。



釜石大観音は観音様と仏舎利塔より成り立っています。

この両者を完成するのに約10年かかったと思います。

はじめの数年は年間20,000人位のお客様が来ていたと思いますが、世の中が不景気になってからは大分少なくなったようです。


大観音の方は中に入ると、鉈彫り33観音が見事です。

背丈が約1mの観音様が色々な表情でこちらをじっと見ています。

このいずれも観音の製作者である長谷川昴先生が欅に彫った仏像そのものなのです。


仏舎利塔は我が学兄がスリランカまで行ってバンダラナイケ首相より釈迦の骨をいただき、日本まで持ってきたもので、大変由緒あるものです。



本年6月の葬儀はいまだしですが、スムーズに行くことを願っています。

後継者を決定する祭りですので、近在の住職や関係者が大勢集まります。

周辺の寺院から大勢の僧侶が来てくださるはずですが、何しろ寺も僧侶もその中身が大幅に変わっていることもあるので、色々と気を使うことと思います。

また、檀家も出来るだけ多く来てもらうためにはそれなりの工夫が必要と思います。



私も6月は招待されています。

20代の頃には僧侶の資格もあったのですが、30過ぎてからは失効してしまいました。


そういう意味では、今回は僧侶の常識もほとんどなくなった状態で付き合おうと思います。

私にできることは周りの人が何をするのか、じっと見て置くぐらいでしょう。


この後、新しい住職 都築利昭 師 がどれほど頑張ってくれるか、先輩として見て置きたいと思います。