我が学兄を思う | 瀬川爾朗blog

我が学兄を思う

6月になると、本来ならば4月以来の忙しさから一息つき、ここらで一服しようかという時であると思います。

しかし私にとっては今年の最初の忙しさがやってきたという心境なのです。


実は私の兄、瀬川晴朗(歳の差は11歳)が平成22年の6月21日に亡くなったのです。

仮葬儀の後、1年後の6月21日に本葬をしようとしていたところ、その3ヵ月前に東日本大震災に遭い、私の実家(岩手県釜石市)も、寺院であるがために本堂に人を泊めるなどの騒ぎが起こり、葬儀どころではなくなったのです。

結局、さらに1年後の本年6月に本葬及び後継者の引継ぎの儀式が執り行われることになりました。



私の兄は、20代のときには終戦直前の日本軍に所属しており、幸か不幸か実戦にも参加せず、終戦を迎えた組でした。

私の親父の弁では、大東亜戦争で悪戯に年を取り、その後途方に暮れてしまった世代であると言っていました。

事実その後の15年ほどは、何とも言うに言われぬ生活であったようです。

そして昭和45年ごろから、親父のいないお寺の跡を継ぎ、目を見張るような仕事を始めたのです。



私の兄の特徴は、どうも宗教家というよりは仏教美術家であったように思います。

建築や美術の面で、さりげなく見える作品でも、我が学兄なればこそという感覚が要所要所にみられるものが多いのです。

その最たるものが、「釜石大観音」だと私は信じています。



釜石大観音は観音様と仏舎利塔より成り立っています。

この両者を完成するのに約10年かかったと思います。

はじめの数年は年間20,000人位のお客様が来ていたと思いますが、世の中が不景気になってからは大分少なくなったようです。


大観音の方は中に入ると、鉈彫り33観音が見事です。

背丈が約1mの観音様が色々な表情でこちらをじっと見ています。

このいずれも観音の製作者である長谷川昴先生が欅に彫った仏像そのものなのです。


仏舎利塔は我が学兄がスリランカまで行ってバンダラナイケ首相より釈迦の骨をいただき、日本まで持ってきたもので、大変由緒あるものです。



本年6月の葬儀はいまだしですが、スムーズに行くことを願っています。

後継者を決定する祭りですので、近在の住職や関係者が大勢集まります。

周辺の寺院から大勢の僧侶が来てくださるはずですが、何しろ寺も僧侶もその中身が大幅に変わっていることもあるので、色々と気を使うことと思います。

また、檀家も出来るだけ多く来てもらうためにはそれなりの工夫が必要と思います。



私も6月は招待されています。

20代の頃には僧侶の資格もあったのですが、30過ぎてからは失効してしまいました。


そういう意味では、今回は僧侶の常識もほとんどなくなった状態で付き合おうと思います。

私にできることは周りの人が何をするのか、じっと見て置くぐらいでしょう。


この後、新しい住職 都築利昭 師 がどれほど頑張ってくれるか、先輩として見て置きたいと思います。