飛行場に対する人の思い | 瀬川爾朗blog

飛行場に対する人の思い

つい先日、

私の家からもそれほど遠くない、東京都の調布にある公立飛行場から飛び立った単発航空機が、調布市内の民家に墜落し、民家を焼き、住民を犠牲にしました。

5人乗っていた航空機の何人かが死に、同時に、己の死を全く予想できなかった住民に、突然の死を叩き付けました。

問題はその後の近隣住民の反応です。

当然、航空機飛行の関連企業は相応の責任を取ると言っているでしょう。

また、このような違法な航空機の運航に対して、司法関連の機関も関連組織に対して、しかるべき対応を求めるでしょう。

しかし、最も不思議なことは、マスコミおよび住民の怒りの声が全く聞こえてこないことです。


このことに直ちに関連づけられることは、いま、沖縄県庁と国とが争っている普天間基地(沖縄県宜野湾市)と辺野古基地(名護市)との交換の問題です。

これは、将に国と沖縄県との争いになっている訳ですが、これは基地の変更が問題なのではなくて、変更すること自体の政治的問題であるように思います。

普天間基地は飛行の騒音が大きく、また米軍と日本人との摩擦などもあり、沖縄でも最も危険な空港域と見做されています。これを避けるため、静かな辺野古基地に移転しようということが、日本政府の考えです。


私も、数年前、米国の研究者との共同研究のため、沖縄に基地としては最大の嘉手納基地に宿泊したことがあります。

かなり厳しい検査を受けましたが、ともかく基地内に宿泊することが許されました。

ここには多くの日本人雇用者が働いており、もしも基地の移動が起こったとすれば、彼らの生活が大変困るだろうということが感じられました。

朝方、定期的になされる戦闘機の飛行の爆音には、腸がもみくちゃにされるのではないかと言うほどの圧迫を受けました。

しかし、関係する日本人にとっては、米軍基地で仕事ができることが人生のすべてであると思う人も居るだろうと感じました。外国人基地と日本人との関係、これは場所を選ばない問題だと感じます。


小さな町に存在する巨大な航空基地、あるいは原子力施設など、長い間にそこの住民を深く抱き込んだ環境においては、巨大な施設の一部が住民の血と肉となって仕舞う場合が多く、生活の為に、正論をはくことが出来なくなっていることが懸念されます。


調布飛行場の事故の場合にも、本来ならば、沖縄の場合に劣らず、調布界隈の住民や、マスコミが、調布飛行場は撤去されるべきだ、といった批判を大声で叫んでいたに違いないのです。

しかし、周りの住民のことを想い、声を静めているのでしょう。


大企業とその近隣の住民との関係は、時間がたつ間に、他人事ではなくなる場合が多く、私の少年時代は、巨大な製鉄所の町に住んで居たので、多くの家庭がその製鉄所の世話になっていました。

時は将に日本の発展の時代であったので、溶鉱炉から吹き出す煙で、空気が汚れ、洗濯ものが真っ黒になってしまっても、町の主婦たちは、洗濯ものの汚れ具合を見て、我が人生の幸せ度を測っていたのでした。


沖縄の米軍基地についても、沖縄県知事の声と住民の声とがどちらが真実なのか、日本国民として、正しく感じ取る必要があるでしょう。



平成27年10月1日 瀬川爾朗