喪中のご挨拶について考える | 瀬川爾朗blog

喪中のご挨拶について考える

今年も12月になると、新年の挨拶を失礼させていただきます、という喪中のハガキが増える。

年賀状を書き始める時、毎年、今年の喪中ハガキの該当者がいるのかどうかを、まず検討するのですが、親類、縁者、友人のどこまでを考えるべきなのか悩みが多い。

通常、自分ないしは妻の両親や兄弟姉妹および自分の子供たち、がそれらに含まれるでしょう。

しかし、人によっては親類縁者等知人のすべてに適用しようとする方も居られ、ある年齢を超すと喪中が増えすぎて、年賀を出せなくなる恐れがあります。

もっとも、逆のセンスの方も居られて、喪中が増えると、葉書の文面が単純になり、年賀ハガキを機械的に作れるので楽だ、などと不謹慎な考えを持っている方も居られます。


それにしても、私の所に届く喪中の対象となる方の年齢が90歳、100歳と言う方がものすごく増えてきたことに驚きます。

私の父は1895年生まれ(明治28年生れ)で69歳で亡くなりました。将に日本でのオリンピックの年でした。

母は1905年生まれ(明治38年生れ)で89歳で亡くなりました。

年齢差を考えると、母は父よりも約30年間長生きをしたのですね。

どうも、私の親の時代は、現在の超高齢者時代に至る直前の世代だったのでしょうか。


ところで、
以前にも述べたことがあるのですが、近親者の一人が亡くなった時に、年賀はその方のためにあり、他の関係者は無視して良い、ということには問題があります。

何年か前に、年賀を半分に分割し、右半分には喪中年賀を、左半分には今年の年賀を、と言うように、2種類の年賀を同時に書き込んで、発送したことがあります。

これに対する著しい反応もなく、一回限りで終わってしまいました。

しかし、喪中年賀の欠陥は、相手の喪中年賀に対して、自分からは年賀を出さない、あるいは出せないということになり、今後の年賀リストからその名前が消えてしまうことになるのです。

年賀を数百通出されている方にとって、リストから一時でも名前が消えてしまうと、永久に消えてしまう恐れがあるので、好ましくありません。


以上、年賀についていろいろ議論しましたが、数10年以上の歴史を刻んでいる人間にとって、いや、年齢が100歳を超えようとしている人類にとって、年に一度、自分や好ましい相手の想いが交換できるのは、最高の生き甲斐ではないかと思います。

私は、今改めて、年に1回の国民レベルの個人情報交換システム---年賀郵便---の得難い価値を今回敢えて特別に評価したいと思います。


個人情報の交換方法については、最近は一層高能率のシステムが普及しつつあります。

このためには、タブレットやスマートフォンなど、音声や画面によって、一瞬の内に3次元的に情報を得ることが出来ます。

このことと、年に1度だけの年賀情報とが、人の頭脳の中で見事に仕分けされて、人間の完成した行為として価値を発揮するのではないかと、考えております。



平成27年12月1日
瀬川 爾朗