瀬川爾朗blog -25ページ目

岩手の木 赤松の植樹

人生は人様々で、平穏と荒波とが全く無秩序に、また、時に容赦なく襲ってくるようです。


私ごとを話せば、私は昔、厳しい時が少しあって、その後66年の平穏無事の時代に恵まれました。

あの昭和20年の大東亜戦争での敗北と終戦の時には私は9歳でした。

一生の成長の過程で、知能もある程度固まったこの時期、しかし、一方で、強い圧力には大きく支配されるこの時期に、日本国に大変革が起こったのです。

大事件の最たるものは太平洋域で数百万人の軍人と民間人が死傷し、日本全国が焦土と化し、広島長崎に原子爆弾が投下されたことでした。

終戦直前の国民学校(小学校)では、毎日整列登校し、遅刻者は6年生が撃剣銃で入門を拒否するという時代でした。

この時のいやな気持と反発は、その後も私の心に深く残っていました。


終戦直前までの国民学校では、教育勅語と歴代の天皇陛下のお名前を暗記することが必須でした。


運動会では、必ず治安維持のための軍人が校庭で生徒を威圧していました。

始業式、卒業式、また他の祭礼の儀式の際には、二宮金次郎の像の側にある小さな社(奉安殿)の扉を恭しく開き、教頭先生が教育勅語を捧げ持ち、講堂の会場まで運ぶ姿が浮かんできます。

この時期は私の人間形成の第1期と言うべき重要な時期ですので、この軍国主義の教育についても、少なからざる影響とある種の郷愁があります。

敗戦によって日本の政治、経済、教育、思想、そして世相の大変革が起こりました。

私の小学校3年から6年生までの間に、軍国主義から民主主義へ、旧帝国憲法から新憲法へ、報恩感謝から自己主張へ、米食からパン食へ、等々驚くべき変わりようです。


しかし実は若さのお陰で、私はほとんど抵抗なくこの変革を乗り越えて来たようです。

そしてたどり着いたのがこの度の「地震のミレニアム(千年に一度の出来事)」かと思わせるこの巨大地震・巨大津波の到来です。



実は先日、渋谷区原宿にある東郷神社に行ってきました。

その日は年一度の大祭が開かれ、日露戦争でバルチック艦隊を破って日本を勝利に導いた東郷平八郎海軍元帥の子孫に当たる方々が大勢集まっておりました。


東郷神社では、この日、境内に渋谷区の「絆の杜(きずなのもり)」をつくるという計画によって、特に被災地の木の植樹が行われたのですが、東日本地震津波の被災者の冥福を祈って「岩手の木—赤松」を植えることになり、私がその最初の一本を記念植樹いたしました。

東郷神社の祭礼は雅楽器「しょうひちりき」の演奏によって式が進められます。

数十人の神官によって、祝詞と礼拝が行われ、来場者全員によって「君が代」が斉唱されました。私は「君が代」がこの時以上にその場にしっくりと副うことができた例を知りません。


東郷元帥の凄さは、この式場に多くの外国武官が出席していたことです。

乃木神社に祭られている乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将(東郷と同時代の軍人)も子供のころから馴染みがありましたが、同じく日露戦争の陸戦において勝利をおさめ、東郷とともに日本の勝利に貢献しました。


私が東郷元帥や乃木大将に一際親密さを感じるのは、今思えば、国民学校時代に両将軍を絵本で親しんでいたからだったかな、と思っています。

津波の教訓

この度、3月11日に起こった東日本大地震津波の教訓には、めったに得られないさまざまなことがありましたね。

この際、私共としてはこれを正しく学び、後世に伝えていかなければなりません。

過去の地震津波で日本での記録がなかったもの、それはマグニチュード(M)=9 という大きさの地震です。

大昔に有ったかも知れないけれども、記録がありません。日本以外の世界では、最近でもあちこちで起きており、世界では100年間に数個は起きているのでしょう。

専門家ですら、M=9の地震が日本で起きた時、いかなる凄まじいことが起きるかを、直感できなかったと思います。


「マグニチュード」は1から9程度の数値が並び、一方で、「震度」は1から7程度の値になります。

前者は地震の総エネルギー、後者は場所ごとの地面の揺れを示します。

マグニチュード6、震度5とか、マグニチュード4、震度3、とか様々です。

これらの意味を良く聞き分けられるようにしましょう。


今度の大地震発生後、ほぼ一ヵ月後に、私も岩手県の釜石と大槌の視察に行ってまいりました。

交通障害や、停電に悩まされましたが、私にとって2度と遭遇しないであろうこの大惨事を良く見ておく必要があると思い、1泊2日の日程で出かけました。


私は、子供時代に、昭和20年の日本の敗戦を、その釜石で見ておりましたから、何としてもその違いを実感したいと思ったからです。

66年前の釜石も、米軍による艦砲射撃のために見渡す限り焼け野が原になっていました。

道端に死者が累々と横たわっていました。


今回も、その惨状においては、昔に劣らぬものだと感じました。

ただ大きな違いは、日本は全滅した訳ではないということでした。

また世界が日本の味方でもありました。

「大丈夫だ。必ず復興して見せる。」

それが私の結論でした。


過去の事例に学ぶことは大事ですが、正しく学ばないときには、それで命を失うことがあります。

今回の津波では、昭和8年の津波の教訓が指導原理となりました。

この地震は他に比べるとやや小さめの地震だったようなのですが、この津波の到達範囲を今回の避難の目安にした人が多かったと思われます。

そのため遠くに逃げるのを拒否して、命を失った人もいたということです。明治29年の地震は、最近明らかにされた「ゆっくり地震」に相当するもので、地震としては弱く、津波としては強いというものでした。

当時の死者26、000人という数は、今回と同程度ですが、防災対策はきわめて貧弱なものであったと想像されます。


さて、私共はこの津波を体験して、後輩に何を言い伝えるべきでしょうか。


 *津波警報とともに、逃げられるだけ遠くに逃げる。

 *家のことは一旦諦める。
 *津波は6-7回は繰り返す。

 *波高はその都度大きく変わる。

 *三陸津波は地震後30-40分後に来る。

 *車に乗っていた時には直ちに車を放棄する。

 *陸上を走る津波は時速30-40km。

 *川沿いに住んでいる人は、まず川から津波が襲うと思え。

 *船主は津波の際に沖だしできるように、

  船長、乗組員ともに気を緩めないこと。


無念なり あの大津波


 どうして家に戻ったの?


 なぜ鍵を閉め忘れたといって戻ったの? --- 



わが故郷 岩手三陸地帯の津波被害の惨状を聞くにつけ、いたたまれない思いにかられます。

第一波を避けた人が、気の緩みか、家に戻り、第二波で命を失いました。



あの日、2011年3月11日、午後2時半ごろ、私は仕事で東京の勝どきの船着き場にいました。

その時私は自分の荷物を船から降ろしていたのですが、突然 船がハンマーで叩かれたようにガンガンといったのです。

はじめ船体が何かにぶつかったのかと思ったのですが、船長が地震だと言って飛び出してきました。

 
地震で船が揺さぶられる、ということは歴史的には、色々な体験談があります。

16世紀以降の大航海時代、船は皆 帆船であったので、今と違って大変静かです。

それで、往時の船乗りは船の中で地震(earthquake)を体験しました。

これを海震(seaquake) ともいいます。


しかし、ジーゼルエンジンで走るようになった現代の船は、船内が騒々しくて、地震を感じることがきわめて少なくなったのです。

それで、最近では、船での地震という話はほとんどありませんでした。


三陸沖地震は100年間に1-2回のペースで古代より起こっています。

貞観の地震津波(869年、M=8.4)や明治の三陸地震津波(1896年M=8.5)、昭和三陸地震津波(1933年M=8.2)などは記録に残っていますが、他の旧い地震はあまりはっきりしません。



私は三陸の釜石の生まれです。

あの森進一さんの「港町ブルース」で唄われた 港 宮古 釜石 気仙沼 は この津波により目を疑うほどの惨状を呈しています。


明治以降の津波については三陸の人たちは良く知っております。

そのための啓蒙活動も盛んでした。津波は1時間程度の間隔で3-4回襲うものだということ、最初の波が必ずしも一番大きくはないこと、波高は10-30mの幅があること、など知識としては持っていたはずです。

三陸沿岸の町には、津波標識があって、昔の津波はここまで到達しました、ということを知らせておりました。


今回はこれが災いを招きました。

釜石の標識が海岸から1kmの所に立っていましたが、今度の津波は2.5kmまで達していました。



私は地球科学研究者の一人として、今回の三陸津波は前回からの間隔が長いことから、地震発生の予知はできないまでも、せめて、次の地震津波は規模が大きいぞ、ということを、民衆に強く訴えておくべきであったと、悔しい思いを禁じ得ません。