地震の巣
地球科学は基礎物理化学から派生したものですが、それを発展させた方々は、理論よりも実体験に興味を持った先生方でした。
中でも、岩手県二戸の出身で、江戸末期に生まれた田中館愛橘先生はその方面の日本における開拓者でした。
明治初期に東京大学で、外国からの招聘教授の教えのもとに、地球に関する数々の業績を残しました。
昭和27年に96歳で亡くなられましたが、文化勲章を受賞され、また貴族院議員も務められるという、幅広い活躍をなされました。
私が東京大学の地球物理学科の学生であったときは、同期が12人という寂しいものでした。その時の私の指導教授は坪井忠二(東京出身)という先生でした。
坪井先生は夏目漱石門下でもあった寺田寅彦先生の助手を務められ、そのあと、地球物理学に関して、日本における指導的役割を果たされました。
坪井先生が特に関心をもたれたものは、地震がなぜ起こるのか、ということでした。
これは昭和30年代の話です。当時、すでに地球というものは大きな熱エネルギーを持ち、熱学的なバランスと変転の最中にある存在だということが分かっていました。
このことは、地球というものは一時も静止してはいないことを意味し、先月に起こったニュージーランド南島クライストチャーチの大地震も、その動きの一つにすぎないということができます。
確かに、ニュージーランドは南半球の日本と言っても良い位置づけにあり、日本の活断層である糸魚川静岡断層とか、諏訪湖から南西に延び、九州まで続く中央構造線大断層などに良く似た長大な断層が広がっております。
今回の地震は、その断層の一部がはじけたものと看做されます。
日本人の我々は最近では地震が起こるのは当たり前のように感じておりますが、実は地震を知らない国もあるのです。
我々にとってなじみ深い、英国、ドイツ、フランス、ロシアなどでは地震を知らない人たちが多いのです。
昔、モスクワに住んでいた友人のロシア人が、東京で震度4程度の地震にあい、あまりの驚きに、すぐにロシアに帰りたいと言ったことなど、懐かしく思い出されます。
このように地球上でも地震のある所とない所とがはっきりと区別されます。
なぜそのように異なるかは、最近ではある程度解明されていますが、そのことに気づき、それを「地震の巣」と、はじめて名付けたのが坪井忠二先生でした。当時の先生の講義は、地震の巣の広がり、深さ、最大歪の大きさ、内在する歪エネルギー、地震発生の周期性などの研究成果についてでした。
日本における地震研究のもう一つの大きな成果は、気象庁長官を務め、日本学士院長をなさった和達清夫先生の「深発地震の研究」でしたが、この二つの研究が、その後の「ダイナミックな地球」の考えを導きだした原動力になったことが、改めて痛感されます。
蛇足ながら、坪井、和達 両先生は、1902年の、なんと同日に東京と大阪でお生まれになったということを付け加えさせていただきます。
季節の移ろい
平成22年は、いつにも増して長かった年ではなかったでしょうか。
連日摂氏35度を超す暑さと湿気に世の中全体が参ったという表情でした。
私も最近冷房装置を使うのをやめたものですから、季節の進行に合わせて寝具を薄くしていったのですが、8月9月は終に畳の上に寝るという状態でした。
一見ホームレスと同じ格好ですが、その心境は断じて違います。
日頃の、造りかためられた人生が、自然の森の中の生活に戻ったという気持ちでした。
昨日今日、まさに冬の真っただ中に突入しています。
幸い東京は快晴続きで、寒いとはいっても、すがすがしい日に恵まれています。
一方で新潟、北海道や、山陰地方、九州などは、雪が多く、大変な日が続いているようです。
この秋の我が家の大仕事は干し柿づくりでした。
その忙しさは年明けまで続いています。
平核無(ひらたねなし)と蜂屋(はちや)という2本の柿木があります。
いずれも渋柿ですが、種がないのが特徴で、干し柿にするのに適しています。
例年100-300個の収穫があり、干し柿にして一冬楽しむのが習わしになっています。
焼酎などで晒し柿にすると1週間ぐらいでものすごく甘く柔らかい柿ができますが、すぐ食べてしまわないとだめなので、小人数の家庭には向きません。
この点、3-4か月はゆっくり食べて楽しめる干し柿は格別です。
その干し柿、昨年は、なんと1000個もの収穫があったのです。
家内とやった皮むきに4日ほどかかり、洗濯用物干し台が柿に占領されてしまいました。
実は、昨年の9月までは、柿の成長が不良で、例年より実のサイズが小さく、今年はだめだと思っていたのです。
ところが10月になって世の中に秋の気配が広がると、柿も大いに目覚め、めきめきと実を太らせてきました。
しかも、今回の特徴は、途中からの実落ちや蔕虫(へたむし)からの被害が少なく、結果的に例年より実の付きがよかったということになります。お蔭で今年の年越しには、干し柿入りの三杯酢などを作って楽しむことができました。
干し柿は、お店などでは1個100円ぐらいで売っているところもあり、その干し柿に取り巻かれて、何か大金持ちになったような気分で、この冬を過ごしています。
酷暑の夏と厳寒の冬は、Global Climatic Change のなせる業だといわれています。
太平洋赤道地域で起こった海水の異常高温、異常低温が太平洋全般に大きな気候変動を起こすことが分かってきました。
前者はエルニーニョ(男の子)、後者はラニーニャ(女の子)と呼ばれています。
エルニーニョの時は梅雨が遅く、暖冬であり、ラニーニャの時は梅雨が早く夏暑く冬寒いと考えられています。
暦によれば、2月1日は福井県の禅寺永平寺でお釈迦様が悟りを開いて入滅(亡くなられる)されたことを記念して、連続7日間の摂心(座禅行)を始める日です。
大勢の僧侶が墨染めの衣をまとって、大雪の山寺の暖房もなく風が吹きすさむ座禅堂で、無心の境地となり、ひたすら仏と語り明かす一時が始まります。
年寄りの感慨に遭遇す---年始にかえて
すでに、はるかな過去の時代、私も還暦の60歳を体験しました。
この時以来、年はとるものではなく体験するものと悟りました。
親父の体験した60歳を今将に自分が体験しているのです。
60歳とはこういうものなのか、と周りを見回します。
周辺は何も変わっていないようでもあり、じわっと変わっているようにも見えます。
そして14年、今私は74歳を体験中です。
私の心は昔と何もかわっていません。
日ごろの体操のおかげで、特に悪い所もありません。
やや飲みすぎと太りすぎが、家内の心配の種となっています。
先々代の岩手県人連合会の会長 故高橋圭三氏(花巻出身の、かってのNHKの名司会者)が、県人会の集まりで良く口にしたのが年齢と健康の話でした。
県人の集いの時の挨拶は、実に歯切れのよいものでしたが、その時、彼はこう言いました。
私は70歳になりました。
70歳とは私はいまだに親父の年と思っています。
自分の年だなんて、とても信じられない-------。
また、ある年の新年会では、健康に良い食事の話をし、最近の人は豆を食べない。
豆を食べることが長寿の秘訣です、と大変に強調しておられました。
しかし、その数年後に亡くなったのです。
確かにここのところ、私の場合も、かつての同級生がどんどん居なくなっています。
また、喪中通知のはがきも多くなりました。
これも人生体験の一つとして、私も受け止めています。
まさにこれは年とともに遭遇する人生ドラマです。
ここで、年を取ることと、年寄りを体験することとの大きな違いを考えます。
前者は1人称の私が老いさらばえることであり、後者は第3者としての私の老化に遭遇することです。
私は第3者として自分の老化を見ています。
これはまさに古くなった自分の家を見て、どこを修理すれば良くなるかを検討する建築士の心境です。
我々は常にこうありたいと思います。
それにしても、生に執着する人間とそれに応えようとする医学が、逆に、老人の増加による社会問題を深刻にしているということをいかに考えるべきなのでしょうか。
これは子供の出産数の減少と対になるものでしょう。
出産数の減少は、男女同権という思想がその根底にあるもので、家庭より仕事を重視する傾向がその原因です。この傾向を助長したのが、反封建主義/反家族主義であったともいえます。
いま、反省すべきことは、男女同権と反家族主義が同時進行したことだと考えます。
これが、対等に仕事を持つ1組の男女が本来それを厚く支援すべき家族を失わせる原因となりました。
最近の新聞に、(家族ではなく)孤族の時代、という表現がありました。
それほどの年でもない人が、生きる目標を失い、ひとりさびしく死んでいく例が大変に増えてきているという社会問題です。
これに比べ、かつて封建的、家長主義的と言って排除された昔の雑居大家族の何と人間らしいことか、正にその中からこそ、本当の人間が生まれてくるのではないかと、思われるほどです。