なでしこジャパン - ああ 頼もしき母達よ
世界を驚かし、そして私も驚嘆した!
--- 日本には、このような、物静かで、しかし強烈な女性がいるとは!
いまや日本女子がFIFA女子ワールドカップ(ドイツ戦)で世界チャンピオンになったのです。
私などは、そのような事件が進行中だということを、準準決勝の時に初めて聞き、準決勝の対スウェーデン戦の時に初めてテレビの実況にしがみつき、そこで不思議にも日本の勝利を目撃して、後に続く決勝戦の観戦が、その一瞬で、我が人生の最重要目標になったのでした。
ドイツでのサッカーの開始時間は日本時間で午前3時過ぎ。終わるのはほぼ朝6時でした。
寝不足になる最悪の時間帯ですが、後で聞くと、日本中がこの時間帯に手に汗を握り、心臓が破裂しそうになりながら、あの日本の母親たちの活躍を私と同じように凝視したのです。
7月18日朝(日本時間)なでしこジャパンは延長戦の末、アメリカチームに勝ちました。
戦いの中、2(米)対1(日)の時に、アメリカのゴールの直前で、ボールの揉み合いがありましたが、日本の沢穂希選手の、目にもとまらぬ早業の蹴りにより、さらに1点を稼ぎ、2--2で延長戦に持ち込んだのです。
これが勝利の第一歩でした。神業はもう一人、ゴールキーパーの海堀あゆみが果たしました。
延長戦の後で行われたPK戦において、彼女は手で受ける積りのボールが、たまたま足の位置に来たので、体を水平に浮上させたまま、右足でボールを跳ね返したのです。
日本において必ずしも優遇されている訳ではない彼女らの神業は、底力、いや女力を示すものかと、ただただ敬意を表するばかりでした。
ここまで私はなでしこジャパンの面々を母親と呼びました。
20歳から30歳の間の年齢である彼女たちはおそらく、まだ母親ではないでしょう。
普段ほとんど注目されず、しかし、人間としての力と、愛と、辛抱強さを内に秘めた女性たちは、生まれながらにして即母親ではないのかと、今、私も改めて認識し、深く敬意を表するものです。
先日 国務大臣である与謝野馨氏が女子サッカーに関するマスコミからの質問に対して、日本では昔から男子より女子が強いのですよと答えていました。
与謝野晶子の孫である馨氏はお婆ちゃんの強さに感じ入っていたのかどうか?
男女を問わず、人間は女性的な優しさ、美しさ、そして強さと奥深さ、に憧れてきました。
仏教における釈迦如来仏への信仰が、インド、中国、韓国、日本へと伝来する間に、観音仏という人の憧れと調和を象徴する新たな仏様を生み出し、深く信仰されているということは大変に興味深いことです。
優しさと強さは、人間のみならず、野生動物にとっても、好ましく望ましい生き物の姿であり、共に生きるための必須要件であるということを改めて痛感いたします。
まげねぞ釜石! -市民気質と地元新聞社と、そして「空」-
3月11日の東日本大地震津波は、東北地方の町々と田畑を怒涛の如く走り抜け、町を瓦礫の山に、田畑を荒れ地と化し、多くの人の命を奪いました。まさにこの広大な地域を「空」と化してしまったのです。
しかし-----
「空」の中での人の行動こそが過去にとらわれないより優れた、あるいは個性的な世の中をつくるのではないでしょうか。
空の中でひらめく、人の「とらわれない知恵」、これこそが、あの般若心経が教える「空即是色」の教えなのでしょう。
震災直後の4月19日の朝日新聞に、岩手、宮城の地元紙の状況が報じられておりました。
「がんばる地元紙」というタイトルで、大船渡、石巻、気仙沼の地元新聞のことが簡明に報じられていました。
大船渡の「三陸新報」は、震災直後、いつもの半数の人数で号外をつくり、2000部のコピーを被災地に配ったそうです。
これが出来たのは、以前に借金をして買った自家発電装置のお陰だと言うことでした。
宮城県石巻市の「石巻日日(ひび)新聞」は、被災翌日から手書きによる壁新聞を号外として発行しました。
気仙沼市の「三陸新報」は車のバッテリーを利用してA4の号外を作成し、社員が避難所で配布したということです。
我が故郷釜石市の「岩手東海新聞」はどうなったのでしょうか。
朝日新聞の報道では19人の社員のうち2名が死亡し、震災以降1度も発行されていないと書いています。
その再刊をと願っていたところ、岩手東海新聞は去る6月より衣替えし、「復興 釜石新聞」として週2回の発行にこぎ着けました。
釜石も遅ればせながらがんばったのです。
実は印刷機が冠水したために、盛岡で印刷しているとのことです。
生き残りの2名の記者でがんばっているそうです。
このように、大災害直後の人々の対応が、市町村によって大きく異なることは、将に、「空」の中で無限の「選択肢」を持つ「色」の在り方が、それぞれの因縁によって異なる、という仏の教えを表していると考えられます。
「因縁」を素人流に解釈すると、人が遭遇した様々な経験、その想い、ということになるでしょうか。
その因縁は町や村によって大きく異なるものと考えられます。
釜石市は、過去100年間企業城下町として栄え、新日本製鉄所が、釜石を去るとともに、人口が半減し、残った住民が途方に暮れる時代が今日まで続いておりました。
企業城下町の住民は思わず知らず、大企業に依存し、受け身の生活に慣れてきたことが、ひとり立ちできなくなる要因であろうと思います。
跡継ぎ息子を惣領の甚六といって家のもてあましものになる話はよくありますが、釜石もそろそろ甚六から抜け出す時ではないかと考えます。
岩手県人の集いに際して -津波で逝った我が家族我が同胞よ-
去る平成23年3月11日の金曜日、昼食も終わって、さて午後の一仕事をと思い始めた2時過ぎ、突然 突き上げるような強打を感じました。
実はこの時私は船に乗っていたのです。
船は将に東京湾勝どきの埠頭に接岸しようとしていた時でした。強打はその一瞬で終わりましたが、はじめはそれが何だか分かりませんでした。
その時船長が飛び出してきて、今大地震があった、と喚きました。船から岸壁の方を見ると、電信柱やビルのアンテナがぐらぐら揺れているではありませんか。
海上で感じた最初のショックは縦波で、その後、電信柱は横波で揺れていたのだということが分かりました。
水中では縦波しか伝わらないのです。
その後東京湾では最初引きから始まる海面の上下がありましたが、大事には至りませんでした。
ただ困ったことは通勤電車が止まり、歩いて家に帰る人で道路が満杯となり、車が動けなくなったことです。
今回の福島、宮城、岩手、青森の津波被災は、歴史的にもめったにない格別な大きさをもったものでした。
明治29年6月15日、昭和8年3月3日の三陸津波は、マグニチュードが8程度の地震によるもので、死者も前者が2万2千人、後者は3千人程度で、今回の場合に比べるとはるかにおとなしい津波であったことが分かります。
確かに、新聞やテレビの報道で見るところでは、町の破壊がいかにも徹底しています。
亡くなった方をみると、家族を支えるお父さん、グループのリーダー、お店の社長さんなどが多いことが分かります。
むかし、三陸で言い習わされた言葉に、「津波はてんでんこ」という言葉があります。てんでんこ とは、勝手にしなさい、という意味です。
相手を気にしていると自分が死ぬ、だからかまわず勝手な行動を取れ、という意味でしょう。
宮古、釜石、気仙沼という歌にも歌われた懐かしい漁業の町が烏有に帰してしまいました。
惜しむべきことは、今回、町の人々、いや町の知識人が、三陸の津波は、この程度のものだということを、知らず知らずに教えていたことです。
津波はここまでは来ないはずだ、といって亡くなった人が今回大勢おられます。
津波の初波がおわって、やれやれと言って家に戻った人が、その数倍大きい第2波に飲み込まれました。
家の鍵をかけに行くと言って亡くなった方もおられます。
今回の三陸地震はマグニチュード 9 といわれます。数100年に1度と言ってよい大きさでした。
日本海溝という世界の第1級の海溝のなせる技なのです。この大地震が起こったために、今後50年程度三陸は平和な海でありつづけるでしょう。
この豊かな海の恵みを大事にし、まさかの時にも備えて、今までよりも15m高い所に家を持ち、再び豊かな街を創り上げていってはどうでしょうか。
海に沈んだ最愛の御家族、敬愛する同胞の方々も、それを快く見守ってくれるのではないでしょうか。
そう思い、あの釜石大観音の御心にそっと訴えてみたいと思います。