岩手県人の集いに際して -津波で逝った我が家族我が同胞よ- | 瀬川爾朗blog

岩手県人の集いに際して -津波で逝った我が家族我が同胞よ-

去る平成23年3月11日の金曜日、昼食も終わって、さて午後の一仕事をと思い始めた2時過ぎ、突然 突き上げるような強打を感じました。



実はこの時私は船に乗っていたのです。

船は将に東京湾勝どきの埠頭に接岸しようとしていた時でした。強打はその一瞬で終わりましたが、はじめはそれが何だか分かりませんでした。


その時船長が飛び出してきて、今大地震があった、と喚きました。船から岸壁の方を見ると、電信柱やビルのアンテナがぐらぐら揺れているではありませんか。

海上で感じた最初のショックは縦波で、その後、電信柱は横波で揺れていたのだということが分かりました。

水中では縦波しか伝わらないのです。


その後東京湾では最初引きから始まる海面の上下がありましたが、大事には至りませんでした。

ただ困ったことは通勤電車が止まり、歩いて家に帰る人で道路が満杯となり、車が動けなくなったことです。


今回の福島、宮城、岩手、青森の津波被災は、歴史的にもめったにない格別な大きさをもったものでした。


明治29年6月15日、昭和8年3月3日の三陸津波は、マグニチュードが8程度の地震によるもので、死者も前者が2万2千人、後者は3千人程度で、今回の場合に比べるとはるかにおとなしい津波であったことが分かります。

確かに、新聞やテレビの報道で見るところでは、町の破壊がいかにも徹底しています。

亡くなった方をみると、家族を支えるお父さん、グループのリーダー、お店の社長さんなどが多いことが分かります。


むかし、三陸で言い習わされた言葉に、「津波はてんでんこ」という言葉があります。てんでんこ とは、勝手にしなさい、という意味です。

相手を気にしていると自分が死ぬ、だからかまわず勝手な行動を取れ、という意味でしょう。



宮古、釜石、気仙沼という歌にも歌われた懐かしい漁業の町が烏有に帰してしまいました。

惜しむべきことは、今回、町の人々、いや町の知識人が、三陸の津波は、この程度のものだということを、知らず知らずに教えていたことです。




津波はここまでは来ないはずだ、といって亡くなった人が今回大勢おられます。

津波の初波がおわって、やれやれと言って家に戻った人が、その数倍大きい第2波に飲み込まれました。

家の鍵をかけに行くと言って亡くなった方もおられます。



瀬川爾朗blog-津波で逝った我が家族我が同胞よ 今回の三陸地震はマグニチュード 9 といわれます。数100年に1度と言ってよい大きさでした。

日本海溝という世界の第1級の海溝のなせる技なのです。この大地震が起こったために、今後50年程度三陸は平和な海でありつづけるでしょう。

この豊かな海の恵みを大事にし、まさかの時にも備えて、今までよりも15m高い所に家を持ち、再び豊かな街を創り上げていってはどうでしょうか。


海に沈んだ最愛の御家族、敬愛する同胞の方々も、それを快く見守ってくれるのではないでしょうか。

そう思い、あの釜石大観音の御心にそっと訴えてみたいと思います。