旅行会
もういい年?の我々でも、幼稚園から大学、さては社会人になってからでも、その時の旅行の光景を思い出して、胸が熱くなるものである。
幼稚園時代の旅行といえば、きわめて近距離で旅行とすらいえないものであるが、園児一人一人にとっては大事件である。
先生たちは園児の病気や事故が最大関心事で、楽しむなどということは二の次なのだが、園児本人はそのようなことはお構いなしに、マイペースで飛び回る。
そして旅行が終わった後の園児の満足感は生涯忘れえぬものになる。
やや暗い話になるけれども、私の中学時代(昭和20年代後半)は日本の学校教育が最も暗い時期にあたっていた。
学校の先生は日教組活動に熱中し、時の政府との軋轢によって、教育施設—教室、体育館、プール、研修館—などの設置が遅れた。
一方で、いたずらに自己主張にたけ、責任逃れまがいの教育がなされました。
今思い起こすと、何という時代であったのだろうと思う。
その後 日本は日米安全保障条約締結の騒ぎを経て、大学紛争もこなし、官憲の圧力に耐えかねて、学生、労働者ともにきわめて大人しくなった。
当時からノンポリであった私でさえ、そんなに無抵抗になってよいものなのかと驚き、世間やマスコミは日本の若者は腰が抜けたのか、と評価していた。
昨年の尖閣諸島の領有権をめぐる中国との争い、また、竹島の韓国との争いなどに際して、国民の世論が動くなら日本政府も動いたであろうという機会はいくつかあっただ。
あのときに若者がもっと動いたら、政府もやはりやりやすかったのではないかという意見がある。
このような日本の世論の中で、今年の東日本大震災のケースは全く異なる雰囲気を生み出した。
「日本は素晴らしい国だ」というのが世界の評価である。
そして世界から多くに支援物資が届けられた。
その素晴らしさは、つまるところ、この程度の災害では、外国と違って日本では暴動は起こらないということらしい。
地震津波のような自然災害は内国の問題であって、そこには敵らしい敵は存在しないというのが日本的考え方であろう。
これは同じ東洋人でも大陸の中の中国人と、海洋国の日本人との大きな違いだろうか。
さて、いよいよ我々のこれからの旅行会についてみてみよう。
岩手県人連合会は県人会らしい好ましい旅行会を企画しようとしている。
特に今年は大災害の年なので何かと不都合が多いと思われる。
マスコミの進歩によってTV等により、東京に居ながらも、災害の現地の様子はかなり良くみられる。
しかし、現場を全く見ずしては、災害のすさまじさ、住民の悲惨さは良くは分からないのではないだろうか。
被災地と非被災地とを平等に見比べ、何が理由でこのような被害を受け、何が理由で被災を免れたのか、という観点から、じっと見直してみたいものである。
昭和8年の津波で大丈夫だったものが、なぜ平成23年の津波で人命を奪ったのか、1000年ぶりと言われるM=9.5の地震は何故に予測できなかったのか、等々 いろいろ考えてみよう。
当たり齢
今年は当たり齢ではないかと思います。
1月25-29日と、3月9-11日の2期に亘って私は仕事の都合上、東京湾で浮上していたのです。
仕事は、簡単に言えば、今はやりのGPS精密測位で海上において船の位置を「cm」の精度で測るという仕事です。
かつては海上では信じられないほどの精密測定と見なされたのですが、種々な人工衛星の助けを借りて、いまや東京湾 勝鬨から舘山に至るまで、船の傾き、速度を1挙手1投足まで測ることが出来るようになりました。
私の本来の目的は海上のデータ、空中のデータ、さらに新しく打ち上げられたQZSS (準天頂衛星) のデータから、新しい測位方式を生み出すことであったのですが、まさにその瞬間に、日本をつぶしかねない大事件が起こったことはすでに皆さんのご存じの通りであります。
この時期、特に3月11日の午後14時46分に日本列島東日本に600㎞にわたって最大30mの高さの大津波が起こったことは、いまや誰知らぬ者はおりません。
この事件は、私にとっても成果をもたらすとともに、その後に続く数々のプライベイトな事件につながることになりました。
私は4月11日から14日まで、東北日本の被災地—岩手県他—を視察にまいりました。
岩手の地―釜石市―は私の生家の地でもあり、半ば恐る恐るクルマで視察したのです。
その驚くべき被害には肝をつぶしたのですが、その反撃が東京で現れました。
生まれて初めての帯状疱疹になり、左顔面が、目も含めて、神経がマヒしたのです。
これも3か月ほどで治ったと思ったのですが、今度は8月になって突然吐血して入院しました(胃潰瘍)。どうも今年は悪い「当たり年」なのかな、と内心忸怩たる思いでした。
ところが9月になって、暑さもやや落ち着いてきたところで、研究の学会や秋田などでの講演をこなしていたのですが、東京に帰ってから、今度は趣味の舞囃子(能楽)の稽古などがあり、忙しい思いをしていたのです。
そこへドカンと来たのが、膝立たず足立たず、という症状でした。
あわてて近くの病院へ行ったところ、大きさが数cmの、短期間で慢性になった血腫のためという診断でした。
大急ぎで血を取り、事なかれを得ました。
それにしても私はいつ自分の額をぶつけたのでしょうか?
1つのアイデアなのですが、東日本大震災で発生した左帯状疱疹が治りきれずにうずくまり、時期を待っているところへ、たまたま顔面右に機縁する左血腫が活躍して、右左ともに機能を回復した、と考えるのはどうか、素人考えだが、これから考えてみようかと思っています。
我が庭の空蝉(うつせみ)と共に
平安中期の女流作家(970年―1019年)である紫式部の源氏物語には当時の社会と、自由奔放な人間関係が素直に表現されている。
1000年後の我々から見ると、気ままなふしだらな人間のように見えるが、それは我々の後から着せられた堅苦しい衣の所為であろうと思う。
光源氏は当時の第一線の色男として、多くの女性と交わり、また多くの女性に愛された。
ある日、偶々、占いに従って目的地の方角を一時的にかわす(方違え)のために出掛けた紀伊の守の屋敷で若い後妻の空蝉(うつせみ)に出会った。
その夜空蝉と強引に交わったが、それ以後空蝉は一切拒否し続けた。その後も光源氏は忍び込んだが、閨はもぬけの殻であった。
作家の紫式部はこのことを想定して、蝉の抜け殻(空蝉)と命名したのであろう。
私ごとであるけれども、実は我が家では毎年数百匹の蝉が生まれ、騒々しいと思われるほど鳴き立てる。
特に幹の径が50cm程度の桜の木には無数の蝉が泊まる。
蝉の剝けがら—空蝉—は庭木から家の壁、物干し台に至るまで、所構わず取りつき、夏の風物に色を添える。
残念なことは、私はいまだ蝉が脱皮する姿を見たことがない。
どうも蝉の脱皮は日が暮れてからなのだそうで、見ることは難しいのであろう。
そこでやむなく我が家の蝉の脱皮した後の姿を映す。
背中からの姿と、あおむけにした時の姿である。
蝉の代わりに空蝉を取って、虫眼鏡で見て、蝉の種類を分別しようと思ったのですが、ちょっと見たところ、剝けがらに形の違いはなさそうであった。
ただ、黒っぽい色と、茶っぽい色とに分別することは可能であった。
図には黒い剝けがら2匹、茶色の剝けがら2匹が写っている。
我が家では初めアブラゼミが主で、ミンミンゼミ、つくつくぼーし、ひぐらし、と続く。
この区別が、空蝉からでも判断できるのか、小学生の夏休みの研究にでもなりそうなのだが。
私が趣味とする日本の能楽には数百の曲目があるが、その中では源氏物語からの引用が非常に多い。
数年前、日本では源氏物語千年紀を祝う記念事業がたくさんあった。その際、廃曲となっていた「空蝉」を復活させ上演するという事業が横浜能楽堂で行われた。
空蝉は室町時代に世阿弥元信によってつくられた舞曲であるが、その後の500年の年月の間に、種々の事情で曲目の存続・廃棄のうごきがあり、今日に至ったものである。
今回、空蝉に関心を持って以来、いろいろ面白いことが分かった。
空蝉を採取するときには、決して下向きに引きずりおろしてはいけない。
脱皮の直後にはその殻は急速に硬直し、足の爪も樹皮に難く差し込まれ、決して下に落ちることがないようになる。
まさに蝉の登山用ピッケルのごとしである。
一方で、空蝉は上に引っ張るといともやさしく抜けてくる。
まさに自然の妙というべきである。