我が庭の空蝉(うつせみ)と共に | 瀬川爾朗blog

我が庭の空蝉(うつせみ)と共に

平安中期の女流作家(970年―1019年)である紫式部の源氏物語には当時の社会と、自由奔放な人間関係が素直に表現されている。

1000年後の我々から見ると、気ままなふしだらな人間のように見えるが、それは我々の後から着せられた堅苦しい衣の所為であろうと思う。


光源氏は当時の第一線の色男として、多くの女性と交わり、また多くの女性に愛された。

ある日、偶々、占いに従って目的地の方角を一時的にかわす(方違え)のために出掛けた紀伊の守の屋敷で若い後妻の空蝉(うつせみ)に出会った。


その夜空蝉と強引に交わったが、それ以後空蝉は一切拒否し続けた。その後も光源氏は忍び込んだが、閨はもぬけの殻であった。

作家の紫式部はこのことを想定して、蝉の抜け殻(空蝉)と命名したのであろう。


私ごとであるけれども、実は我が家では毎年数百匹の蝉が生まれ、騒々しいと思われるほど鳴き立てる。

特に幹の径が50cm程度の桜の木には無数の蝉が泊まる。

蝉の剝けがら—空蝉—は庭木から家の壁、物干し台に至るまで、所構わず取りつき、夏の風物に色を添える。


残念なことは、私はいまだ蝉が脱皮する姿を見たことがない。

どうも蝉の脱皮は日が暮れてからなのだそうで、見ることは難しいのであろう。

そこでやむなく我が家の蝉の脱皮した後の姿を映す。


瀬川爾朗blog-蝉の抜け殻2 瀬川爾朗blog-蝉の抜け殻1


背中からの姿と、あおむけにした時の姿である。

蝉の代わりに空蝉を取って、虫眼鏡で見て、蝉の種類を分別しようと思ったのですが、ちょっと見たところ、剝けがらに形の違いはなさそうであった。

ただ、黒っぽい色と、茶っぽい色とに分別することは可能であった。


図には黒い剝けがら2匹、茶色の剝けがら2匹が写っている。

我が家では初めアブラゼミが主で、ミンミンゼミ、つくつくぼーし、ひぐらし、と続く。

この区別が、空蝉からでも判断できるのか、小学生の夏休みの研究にでもなりそうなのだが。


私が趣味とする日本の能楽には数百の曲目があるが、その中では源氏物語からの引用が非常に多い。

数年前、日本では源氏物語千年紀を祝う記念事業がたくさんあった。その際、廃曲となっていた「空蝉」を復活させ上演するという事業が横浜能楽堂で行われた。


空蝉は室町時代に世阿弥元信によってつくられた舞曲であるが、その後の500年の年月の間に、種々の事情で曲目の存続・廃棄のうごきがあり、今日に至ったものである。


今回、空蝉に関心を持って以来、いろいろ面白いことが分かった。

空蝉を採取するときには、決して下向きに引きずりおろしてはいけない。

脱皮の直後にはその殻は急速に硬直し、足の爪も樹皮に難く差し込まれ、決して下に落ちることがないようになる。

まさに蝉の登山用ピッケルのごとしである。


一方で、空蝉は上に引っ張るといともやさしく抜けてくる。

まさに自然の妙というべきである。