まげねぞ釜石! -市民気質と地元新聞社と、そして「空」-
3月11日の東日本大地震津波は、東北地方の町々と田畑を怒涛の如く走り抜け、町を瓦礫の山に、田畑を荒れ地と化し、多くの人の命を奪いました。まさにこの広大な地域を「空」と化してしまったのです。
しかし-----
「空」の中での人の行動こそが過去にとらわれないより優れた、あるいは個性的な世の中をつくるのではないでしょうか。
空の中でひらめく、人の「とらわれない知恵」、これこそが、あの般若心経が教える「空即是色」の教えなのでしょう。
震災直後の4月19日の朝日新聞に、岩手、宮城の地元紙の状況が報じられておりました。
「がんばる地元紙」というタイトルで、大船渡、石巻、気仙沼の地元新聞のことが簡明に報じられていました。
大船渡の「三陸新報」は、震災直後、いつもの半数の人数で号外をつくり、2000部のコピーを被災地に配ったそうです。
これが出来たのは、以前に借金をして買った自家発電装置のお陰だと言うことでした。
宮城県石巻市の「石巻日日(ひび)新聞」は、被災翌日から手書きによる壁新聞を号外として発行しました。
気仙沼市の「三陸新報」は車のバッテリーを利用してA4の号外を作成し、社員が避難所で配布したということです。
我が故郷釜石市の「岩手東海新聞」はどうなったのでしょうか。
朝日新聞の報道では19人の社員のうち2名が死亡し、震災以降1度も発行されていないと書いています。
その再刊をと願っていたところ、岩手東海新聞は去る6月より衣替えし、「復興 釜石新聞」として週2回の発行にこぎ着けました。
釜石も遅ればせながらがんばったのです。
実は印刷機が冠水したために、盛岡で印刷しているとのことです。
生き残りの2名の記者でがんばっているそうです。
このように、大災害直後の人々の対応が、市町村によって大きく異なることは、将に、「空」の中で無限の「選択肢」を持つ「色」の在り方が、それぞれの因縁によって異なる、という仏の教えを表していると考えられます。
「因縁」を素人流に解釈すると、人が遭遇した様々な経験、その想い、ということになるでしょうか。
その因縁は町や村によって大きく異なるものと考えられます。
釜石市は、過去100年間企業城下町として栄え、新日本製鉄所が、釜石を去るとともに、人口が半減し、残った住民が途方に暮れる時代が今日まで続いておりました。
企業城下町の住民は思わず知らず、大企業に依存し、受け身の生活に慣れてきたことが、ひとり立ちできなくなる要因であろうと思います。
跡継ぎ息子を惣領の甚六といって家のもてあましものになる話はよくありますが、釜石もそろそろ甚六から抜け出す時ではないかと考えます。