無念なり あの大津波
どうして家に戻ったの?
なぜ鍵を閉め忘れたといって戻ったの? ---
わが故郷 岩手三陸地帯の津波被害の惨状を聞くにつけ、いたたまれない思いにかられます。
第一波を避けた人が、気の緩みか、家に戻り、第二波で命を失いました。
あの日、2011年3月11日、午後2時半ごろ、私は仕事で東京の勝どきの船着き場にいました。
その時私は自分の荷物を船から降ろしていたのですが、突然 船がハンマーで叩かれたようにガンガンといったのです。
はじめ船体が何かにぶつかったのかと思ったのですが、船長が地震だと言って飛び出してきました。
地震で船が揺さぶられる、ということは歴史的には、色々な体験談があります。
16世紀以降の大航海時代、船は皆 帆船であったので、今と違って大変静かです。
それで、往時の船乗りは船の中で地震(earthquake)を体験しました。
これを海震(seaquake) ともいいます。
しかし、ジーゼルエンジンで走るようになった現代の船は、船内が騒々しくて、地震を感じることがきわめて少なくなったのです。
それで、最近では、船での地震という話はほとんどありませんでした。
三陸沖地震は100年間に1-2回のペースで古代より起こっています。
貞観の地震津波(869年、M=8.4)や明治の三陸地震津波(1896年M=8.5)、昭和三陸地震津波(1933年M=8.2)などは記録に残っていますが、他の旧い地震はあまりはっきりしません。
私は三陸の釜石の生まれです。
あの森進一さんの「港町ブルース」で唄われた 港 宮古 釜石 気仙沼 は この津波により目を疑うほどの惨状を呈しています。
明治以降の津波については三陸の人たちは良く知っております。
そのための啓蒙活動も盛んでした。津波は1時間程度の間隔で3-4回襲うものだということ、最初の波が必ずしも一番大きくはないこと、波高は10-30mの幅があること、など知識としては持っていたはずです。
三陸沿岸の町には、津波標識があって、昔の津波はここまで到達しました、ということを知らせておりました。
今回はこれが災いを招きました。
釜石の標識が海岸から1kmの所に立っていましたが、今度の津波は2.5kmまで達していました。
私は地球科学研究者の一人として、今回の三陸津波は前回からの間隔が長いことから、地震発生の予知はできないまでも、せめて、次の地震津波は規模が大きいぞ、ということを、民衆に強く訴えておくべきであったと、悔しい思いを禁じ得ません。