岩手の木 赤松の植樹
人生は人様々で、平穏と荒波とが全く無秩序に、また、時に容赦なく襲ってくるようです。
私ごとを話せば、私は昔、厳しい時が少しあって、その後66年の平穏無事の時代に恵まれました。
あの昭和20年の大東亜戦争での敗北と終戦の時には私は9歳でした。
一生の成長の過程で、知能もある程度固まったこの時期、しかし、一方で、強い圧力には大きく支配されるこの時期に、日本国に大変革が起こったのです。
大事件の最たるものは太平洋域で数百万人の軍人と民間人が死傷し、日本全国が焦土と化し、広島長崎に原子爆弾が投下されたことでした。
終戦直前の国民学校(小学校)では、毎日整列登校し、遅刻者は6年生が撃剣銃で入門を拒否するという時代でした。
この時のいやな気持と反発は、その後も私の心に深く残っていました。
終戦直前までの国民学校では、教育勅語と歴代の天皇陛下のお名前を暗記することが必須でした。
運動会では、必ず治安維持のための軍人が校庭で生徒を威圧していました。
始業式、卒業式、また他の祭礼の儀式の際には、二宮金次郎の像の側にある小さな社(奉安殿)の扉を恭しく開き、教頭先生が教育勅語を捧げ持ち、講堂の会場まで運ぶ姿が浮かんできます。
この時期は私の人間形成の第1期と言うべき重要な時期ですので、この軍国主義の教育についても、少なからざる影響とある種の郷愁があります。
敗戦によって日本の政治、経済、教育、思想、そして世相の大変革が起こりました。
私の小学校3年から6年生までの間に、軍国主義から民主主義へ、旧帝国憲法から新憲法へ、報恩感謝から自己主張へ、米食からパン食へ、等々驚くべき変わりようです。
しかし実は若さのお陰で、私はほとんど抵抗なくこの変革を乗り越えて来たようです。
そしてたどり着いたのがこの度の「地震のミレニアム(千年に一度の出来事)」かと思わせるこの巨大地震・巨大津波の到来です。
実は先日、渋谷区原宿にある東郷神社に行ってきました。
その日は年一度の大祭が開かれ、日露戦争でバルチック艦隊を破って日本を勝利に導いた東郷平八郎海軍元帥の子孫に当たる方々が大勢集まっておりました。
東郷神社では、この日、境内に渋谷区の「絆の杜(きずなのもり)」をつくるという計画によって、特に被災地の木の植樹が行われたのですが、東日本地震津波の被災者の冥福を祈って「岩手の木—赤松」を植えることになり、私がその最初の一本を記念植樹いたしました。
東郷神社の祭礼は雅楽器「しょうひちりき」の演奏によって式が進められます。
数十人の神官によって、祝詞と礼拝が行われ、来場者全員によって「君が代」が斉唱されました。私は「君が代」がこの時以上にその場にしっくりと副うことができた例を知りません。
東郷元帥の凄さは、この式場に多くの外国武官が出席していたことです。
乃木神社に祭られている乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将(東郷と同時代の軍人)も子供のころから馴染みがありましたが、同じく日露戦争の陸戦において勝利をおさめ、東郷とともに日本の勝利に貢献しました。
私が東郷元帥や乃木大将に一際親密さを感じるのは、今思えば、国民学校時代に両将軍を絵本で親しんでいたからだったかな、と思っています。